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「今の私が筆を入れたらどうなるか?」第一回 『涅色・くりいろ』夢殿第三形態

触媒とした画・作 不染鉄 「夢殿」昭和40年~42年ごろか。

この男の場合。ケツを自らの手で叩かなくては動かないところがある。現状に満足しているわけではない。気持ちのうえでは常に高みを目指しているはずなのだが中々思うようにゆかないこともある。
 そこで私は一計を案じ、これまで仕上げた自らの作品に鞭入れてみることとした。第一回目は、小説 夢殿・笑うひと泣くひと【夢殿第三形態】とした。さて、色々なものを読ませて頂き勉強させて頂いてきた中、どの様に変えることが出来るものか。新作を書き下す前に試しておくのも悪くはないだろう。自分でも楽しみなところだ。

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下のLinkはオリジナル。推敲前の原稿です。

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オリジナル(推敲前)

斑鳩の地を濡らす秋の長雨は糸を引くようだ。伽藍周辺でも季節変わりの雨を途切れることなくみせている。雨水に染まった玉石は濃い鼠色を纏ったまま微動だにせぬ。
 柔らかな陽ざしさえあれば、白地に薄く藍を溶かし込んだ「石」本来の姿は訪れる参詣客の足元で、心地よい旋律を奏で聞かせるに一役買ったはずである。さながら天と地が繋がった合図を思わせるようで雨をおとす空も同じ色か。
 「経つ刻を 忘れるほどに 眺むれば 仏の教え 遷す秋霖」

 九十九(つくも)に及ぶ白糸が如き雨垂れは救世観音菩薩の功徳さながら、現世における数多患い事からの救済を試みる蜘蛛の糸にも相似して、時には下から上へ降っているようでもあり、昇ってゆくようでもありという不思議な感覚に誘われることがある。
 法性の学び入り口に立たされて「さて、この先どうする。進んでみるもよし、退いてみるもよし」と、突きつけられてもいるようで修業の身には些かハッとさせられる。

 私がここに坐してどれほどの月日が経とうか。幾度の秋を迎え送ったことだろう。秋雨に眺め入ると現と夢を行き来する。鼠色に変容をみせた玉石の隙間を埋めようとでもするのか、地面からは雨水が浮かびあがる。雨は間断なく木立や伽藍、地を打つもののここを取り巻く仏性が幸いしてか静寂に馴染みをみせていた。

■推敲後

 斑鳩の地を濡らす秋の長雨は糸を曳く如しであり、季節かわりを告げようとでもするのか、伽藍周辺、途切れることなく打ちつける。涅色(くりいろ)に染まった玉石もピクリともせぬか……。木の間隠れに柔らかな陽ざしが射していたなら心地よい旋律を奏で聞かせるに一役買ったものを。きょう日、さながら天と地が繋がった合図を思わせるようで、雨おとす空も同じ色よ。

 「経つ刻を 忘るるほどに 眺むれば 仏の教え 遷す秋霖」


 九十九(つくも)に及ぶ白糸が如き雨垂れは救世観音菩薩の功徳さながら、現世における数多患いことからの救済を試みる蜘蛛の糸にも相似して、時には下から上へ降っているようでもあり、昇ってゆくようでもありという不思議な感覚に誘われることがあるのだが。
 法性(ほっしょう)の学び入り口に立たされて「さて、この先どうする。進んでみるもよし、退いてみるもよし」と、突きつけられてもいるようで修業の身には些かハッとさせられる。

 さて私がここに坐してどれほどの月日が経つのだろう。幾度の秋を迎え送ったことだろう。途切れを見せぬ秋雨に眺め入ると、現と夢を行き来する。佐保川の底に沈殿した泥を偲ばせるように、色変わりをみせた玉石の隙間を埋めようとでもするのか、地面からは雨水が浮かびあがる。雨は間断なく木立や伽藍、地を打つものの仏性(ぶっしょう)が幸いしてか静寂に馴染みをみせている。


第二回に続く


雑感
 涅色(くりいろ)が全てだろう。引き締まったように自分では感じられる。
作中を彩る漢字そのものの馴染みも良い。涅槃の「涅」であるから夢殿との相性も良く不調和は感じられない。
 後半に色合いを挿入するところでは、涅色(くりいろ)の意味合いが感じられるよう、具体的な表現に置き換えてみた。

本当は「木の葉隠れ」にしたかったが、ここの目の肥えた読者たちから「世一ったら、"木の間隠れ"て、きっとしらないのよ。誰か教えてあげたら」なんてやり取りがあってからでは恥ずかしいので、木の間隠れにしたわよw

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