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短編私小説「Il malata di Venezia・ベニスのびょうにん」第3話 5044字 7分程度

「〇〇〇号室の〇〇ですけど、ドライヤーが使えないんですけど……」
5人組の女子短大生は3名2名に分かれてヴェネツィアのホテルの部屋に入っていた。

ホテルの外にあるレストランでの夕食。日本人にはこれを出しておけ ! そう云わんばかりのド定番、イカ墨のパスタに卵料理のフリッタータと温野菜。生ハムとチーズと生野菜のサラダにスープなど。定番の料理が並んだテーブルの間、カンツォーネを謡うレストランお抱えの3人組のアコースティックバンドが縫うように歩く。
 フニクリフニクラ、サンタルチアと歌い継ぎ帰れソレントへと続く。どこで聴いても最後はアリベデルチ・ローマ。
 一応のマナーがあるのだが、アリベデルチ・ローマの演奏が始まると同時に膝の上の布ナプキンをひとほろいした後に頭の上で回すのである。ほろわずに頭の上で回すとパンくずが飛び散ることになるので気をつけたい。

イタリアのレストランの業態は細分化されている。
最上級クラスがリストランテ、次がトラットリア、オステリアと続き、ピッツェリア、タベルナと続くのだが、タベルナの棲み分けはオステリアと混在化したところがあり侮れないのが特徴でもある。そして"ここ"ヴェネツィアにはもう一つ独特な食文化のスタイルがあった。それが「バーカロ」だ。
所謂バースタイルを基調としているが、食べることを楽しむこともできるスタイルは"小腹"を埋めるにも役立つ。夜の町、煉瓦、石曳の運河歩きに疲れ、チョイと何かをつまもうと入るのであれば「バーカロ」がお薦めだ。
※それぞれのレストランのカテゴリーごとにも"クラス分け"があることを覚えておいた方が良い。

トラットリアとオステリアの中間レストランでの食後。希望者を募って夜のヴェネツィアの町を散策。※オプションではない(笑)
コースは例によってポンテ・リアルトまでの往復コース。概ねのお客様がついて来られる。ポンテ・リアルトは夜のライトアップが施され、運河の両側に軒を連ねたバーカロやピッツェリアを彩る裸電球の明かりが運河に浮かんでいた。
 橋の周辺で30分の自由行動。それぞれが橋をバックに記念撮影をしたりと思い思いに楽しんでいる。このあたりの匙加減は添乗員次第ではある。人によっては、食後のレストラン前で解散する添乗員もいる。真っすぐホテルに戻ってから解散ということも不思議ではない。わたしの場合は基本的に夜のお散歩をご提案させて頂いていた。特にご年配がおられる場合はこれが喜ばれる。新婚さんやお若いカップルがおられる場合などは、目的地に着いた時点でフリーとすることにしていた。
 集合時間になっても人数確認はしない。集まってきたお客様だけを連れてホテルへと帰る。この辺りの"離団"の選択はお客様の自由裁量にお任せするのが基本的スタンスというのが俺流だ。

 ヨーロッパの旅行の場合、10~14日間という長丁場になる。気をつけなければいけないのは、枕が変わったことによる疲れが出始めるタイミング。ご年配は4日目~5日目に疲れが出始める。従って、ペースダウンするところと、「老若」の棲み分けを仕込むところにが大切となる。常に全員が同じペースで二週間走ると疲れ切る。

 日本に帰って来た時に「ラーメン食べてから帰ろうか」「寿司でもつまんでから帰ろうか」「マクド、マックでポテトとシェイクを」「俺は蕎麦、わたしは饂飩にかやくごはん…」
このぐらいの余白を残すイメージで進めることが求められるのである。
 近年クルージングが喜ばれるのにはこの辺りの匙加減が生きているからなのである。

 ホテルへ帰り、しばらくロビーのソファーでくつろいでいると、ポロリポロリとお客様がお戻りになる。「お待ちしていました」という体は見せない
「やっ ! 今お帰りでしたか !」という体である。ただ添乗員としてはやはり気にしないわけにはいかないのである。概ねのお客様のお帰りを確認すると部屋へと向かうのだが、バスの中でお客様が迷子になることはないが、宿泊地での迷子は珍しいことではないのである。

 ヴェネツィアのホテルというのは、所謂、大きなホテルというより、建て増し建て増しした結果、複雑であり歪な形状となったホテルが少なくない。この日のホテルもそんなホテルだった。
 部屋に入ると部屋の電話が鳴っていた。
「〇〇です」
「〇〇〇号室の〇〇ですけど、部屋のドライヤーが使えないんですけど……」
【3人組の部屋かぁ…… 】
「わかりました。今から伺います」というと電話を置く。

一つ上の階まで歩いて行き、部屋をノックする。
「〇〇ですけど」告げると鍵が開けられる音が響いた。
ドアが開く。と、ドアロックチェーンをかけたままドアを開けられたのである。「すみませんが、開けていただかなければ診ることが出来ませんが」そう云うとやっと開けて頂くことが出来た。
「バスルーム失礼していいですか ? 」部屋に入る際に言葉をかけた。部屋の玄関ドアは当然半開きにしたままである。鉄則だ。
「チョット待ってください !」と仰る。なにやら機嫌が悪い。
【いやいや、ドライヤーはバスルームでしょ? で、使えないと連絡してきたのは君たちじゃん。来たくて来てるわけじゃないのよ。もう眠たいし】と消し去れないケッタ糞を抱えながら、お片付け頂くのをお待ちする。

どうやらドライヤーのコード差し込み部分の経年劣化だった。ショートすると危ないので、本体を替えて頂くことを選択。
「チョット電話を貸してくださいね」電話はベッドとベッドの間。またまたお嬢様方機嫌が悪い。
「プロント_______Si,Si___________」怪しいイタリア語に怪しい英語を織り交ぜドライヤーの故障と交換を告げると「今持って行く。少々お待ちください」との返事。
「今、新しいのを届けてくれるそうです。チョット待ってくださいね」
そう告げても返事はない。困ったものである。なにか終始返事が遠い。
わたしは、部屋の扉を開けたまま廊下で待った。古いドライヤーを手にしたまま。ホテルスタッフがエレベーターをを降りこちらに向かって歩いてくると新しいドライヤーを渡してくれた。
 古いドライヤーとチップを渡すとグラッチェと残し足早に去ってゆく。
わたしは「すいまーせーん」と廊下から中に向けて声を掛けると出てきたお客様に向けてドライヤーを渡す。
「チョットご自身で試して頂けますか?」と告げると、バスルームに入ってすぐに「動きました」との声。
「はい。では失礼します」と返事を返しドアを閉める。

「22:30か。やっと寝られるか。まずはドライヤーだけで済んだものの、明日は何があるのやら。取り敢えずヴェネツィア2連泊。明日はムラーノと島内観光。やばい。5人のお客様たちの占有率が拡大している。これではわたしの仕事の着地イメージが崩れる ! ! 何某かの打開策を考えなくば」

翌日。ヴェネツィアの島内観光とムラーノ島でのベネチアングラス工房での見学とショッピング。行程は何事もなく進んだ。
例によって夕食後、希望者を募り夜の散策へと出かける。この日は昼間にも行ったサンマルコ広場の大聖堂とドゥカーレ宮殿のライトアップを楽しんでからホテルへと戻った。
 チョット疲れが出ていたお客様のお部屋には、サンマルコ広場のライトアップが美しい絵ハガキを二枚ずつ、ドア下から滑り込ます。
 イチイチ、自分の名前などは書かない。滑り込ますだけでお客様には伝わる。次の日朝食会場でお顔を合わせれば「ちょっと ! なによぉ~もう。あんなに綺麗なところだったのぉ?頂いて良いのあの絵ハガキ?」となるものだ。

「折角ですから、日本に向けてそれを出しては如何ですか? 今日の移動中高速道路のポストで出すことが出来ますよ」お年寄りやご年配は、ハガキや手紙への思い入れが強い。ポストひとつの場所ですら、覚えておくことはバカにはならないのである。日本に居れば、暑中見舞いと年賀状ぐらいしか書かぬ人たちも、異国の地から出すハガキには特別な思いも宿る。貰った方も「あら元気そうね」となるものだ。
ハガキの到着より帰り着くのが早くなる場合は「ご自分に向けて出しましょう」と付け加えるのも効果的である。イメージがしやすいのだろう。

その昔、日本人が最もハガキをよく出していた場所があるのだが、それがスイスのインターラーケンからの山岳鉄道の終点。「ユングフラウヨッホ」のポストに投函された絵ハガキだった。わたしもどれほどお客様からお預かりして出したことかはわからない。

旅に出たらハガキを出してみよう。

                  ■

さて、夜の散策を終えホテルへと戻り、例によって22時過ぎまではロビーでくつろぐ。それから部屋へと戻るとまたしてもわたしの部屋の電話が鳴る。
【絶対に女子短大生だ。なんだか悪い予感しかしないのは何故だ!!】
「もしもし、〇〇ですけど」
「添乗員さん、〇〇が熱を出していて吐いているんですけど ! ! 」
「 ! ! ! 今から行きます。鍵開けておいてください。ノックしませんから」
今度は5名グループの内の2名の部屋のお客様だった。わたしは自分で用意していた体温計を持参し、部屋へと向かった。
伝えた通り、ノックをせずに部屋に入ると、一人はベッドで寝込んでおり、頭の上にはタオルを載せていた。
「OK、じゃぁまずは熱を測ろうか。何か薬は飲んだのかな? 飲んでない? 吐いたのはいつ? 今日の体調はどうだった?」同室の友達に確認をする。
熱は38℃後半に達していた。
「今からフロントへ行って救急ボートを手配してくるから、彼女にコートを着せて温かくしてからロビーに連れてきてくれるかな」
「ちょっと… 歩けないかも」
「了解。じゃぁ私が迎えに来るから暖かくしてまっててね」

わたしはそう云うと、自室に戻りコースアイテナリーを手にするとロビーへと降り、フロントマンに事の仔細を報告。救急ボートを手配した。
ヴェネツィアの島の中は救急ボートが一般的なのだ。青いサイレンを鳴らしながら運河の中を救急ボートが走ってくる。
15分ほどでボートがホテルの前に横付けされた。
わたしはそれを確認すると、お客様のお部屋へと戻り、肩を貸しながらロビーへと降りる。

英語を話せるホテルマンだから助かった。救急ボートの救命士が私に何かを聞いてくることは無かったが、多分、英語は話せなかったのだろう。ホテルマン曰く、市立病院へと連れてゆき検査をするとのことだった。わたしはこのボートに同乗し、友達には先に休むように伝えホテルを後にしたのである。

ヴェネツィアの市立病院の夜間救急。これが参った。
英語が全く通じないのである。イタリア語だけである。プロント、ボンジョルノ、Si Si、こんなものでは話にならない。困ったときのアイテナリー。お助けキットを開き、ラウンドオペレーターのヴェネツィア担当の連絡先を探す。あった ! !  院内の公衆電話に走り担当に電話を入れる。
「もしもし ! !」相手が喋り出すより先に「もしもし」と告げると、流ちょうな日本語で「もしもし」とかえってきた。団体のリファレンスナンバーと添乗員名を告げると「お疲れ様です。確認が取れました」との声が返りホッとするのも束の間。詳細を告げる。
「では、今からわたしが市立病院へ電話を入れ、打ち合わせをした後〇〇さんに電話を替わってもらいます。それまで病院の診察室のそばで待機をお願いします」との指示を得た。

診察室そばの椅子に座り待つこと30分ほどだろうか。診察室の中から、子機を持った看護師が姿をあらわすと私に電話をわたす。
「もしもし、あ〇〇です。お疲れ様です」
「お疲れ様です。お待たせしました。取り敢えず、お客様は検査のため入院となります。わたしが今から病院に向かいますので、添乗員さんはホテルへ帰り、明日の旅程消化の準備をしてください。ご家族への連絡と、本部への連絡は私がしておきますから大丈夫です」淀みがない。これが、ヨーロッパ最大の"ラウンドオペレーター"の力なのだろう。
わたしは素直にそう感じた。
「彼女の荷物はどうしましょうか」
「明日の朝、わたしが適当な時間にホテルにとりに行く旨ホテルに電話をしておきますから大丈夫です」
「では、わたしはコースを進めますね。因みに原因はまだわからないのでしょうね?」
「詳しい検査をしてみなければわからないとのことでしたね」
手厚くお礼を伝えると、わたしは水上タクシーに乗りホテルへと帰った。

第四話につづく。




 





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