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掌編小説「放病記」3-2

「波久礼さんおはようございます。点滴の交換をしておきますね。あと、血圧、体温、体内酸素の測定をしてから血糖値を計って、インスリンを入れます」
  ICUの朝は早い。いや寧ろ朝昼夜の仕分けは食事が運ばれるタイミングで感じ取ることしか出来ないのではないか。波久礼は浅い眠りの中から釣り上げられたように覚めきらぬ頭を振ってみせた。点滴に投入された痛み止めが効いていたものか、あれほど痛かった腹も落ち着いていた。

【それにしても・・・】
波久礼は口に出せぬ思いを反芻するように頭の中言葉を並べる。
【これは耐えられない。なんとか個室に移らせてもらわなければ】
 深夜、検査が終わり運び込まれたICUには三人の先客がいた。どちらを見ても波久礼より十から二十は年上の御仁達。
夜通し、喉に絡んだ痰を吐き出す咳込みが波久礼の安眠を妨げた。
「うぇー、うえー、がこっ、かかかかか」それはまるで断末魔だった。
三人ともだ。三人が三人ともそれをやる。
 中には、痰をうまく吐き出すことが出来ず、喉に引っ掛けたまま呼吸困難の末に死ぬのではないか。そう感じさせる患者がいたことも波久礼の気分を一層重いものとしていた。
 極めつけは早朝の排泄物処理だった。比較的広めの部屋と思われるこの部屋にあってさえ、隣のベッドの排泄物処理のそれは、まごうこと無き大人の汚物の臭いであり、ウンコそのものの臭いだった。
 波久礼は慌ててマスクを装着したものの時すでに遅く、一度嗅いでしまった臭いというものは鼻につき、それは吐き気をもよおすほどの臭気として肺を埋める。
【腹が痛くて入院しても、吐くことは無かったが… 、ここで今俺が吐いたならどうなる? 他の病気を疑われるのか。それもオモシロい】
早朝の病室の空気を黄色く染めたその中。波久礼は持ち込んだ林芙美子紀行集「下駄で歩いた巴里」を開いた。
 
「波久礼さん… 波久礼さん」
波久礼は担当となるであろう医師の声で目を覚ました。陽は既に高いところまで昇っていたようであり、窓にかけられたブラインドの隙間から差し込む陽射しだけが健康的だった。
「お休みのところ申し訳ありません。少し説明をしたいのですがお時間良いですか」医師は慇懃に波久礼に言葉をかけた。
「所見としては急性膵炎ですが、原因がチョットよくわからないのです。波久礼さんはお酒は飲まないのでしたね…… 膵臓の一部が急激に石灰化をみせたことが一つの要因だと思われるのですが…」医師は波久礼の病状を訝しんでみせた。
「リン酸カルシュームの影響でしょうか。石灰化ということはカルシュームや石が流れ込んでの結晶沈着症ということも考えられますよね。ひょっとすると酢や乳製品の過剰摂取が原因かもしれませんね」
 波久礼は自分の持つ疑問と考えられる可能性を伝えた。
 昨年、糖尿の症状が顕著となり入院して以来、糖尿派生型の臓器不全の可能性に関しては素人ながらにも事ある毎に学びの機会は持ってきた。
糖尿は自分の支配下に置くことが可能である。投薬治療で数値を一気に下げたら運動と食事療法でコントロールは可能だ。波久礼はそれを実践してきた。
「直接の因果関係は判りませんが… それとHbA1cの数値が10に上がっていますから、併せてインスリンで押さえますね」医師はそう告げた。
波久礼にとってHbA1cの数値悪化は想定内だった。夏場にはどうしても水分補給、エネルギー補給の流れの中で多糖摂取になる傾向は否めなく【ボチボチ糖質コントロールと炭水化物ダイエットをはじめよう】そう考えていた矢先だった。
「先生、申し訳ないのですが、部屋を個室に変えてもらえませんか」ここではチョット寝ていられないので」波久礼は小声でそう告げた。
「わかりました。では病棟管理部にその旨伝えておきます。準備が出来たら看護師から伝えさせてもらいましょう」
医師はそう告げると充実した背中を波久礼に見せ、その場を後にした。
【さて…… 個室か~ 問題は何処の病棟になるかだなぁ。まぁ出たとこ勝負は変わりはないのだが】波久礼は本を開くと「私の好きな奈良」のページに目を落とした。


8月29日 3-3につづく
 

次回怒涛のエンディング
個室に移った波久礼を待ち受けていたものとは!?
どうなる波久礼。どうする波久礼。
「私はね、こんなところ処で尊厳の安売りするぐらいなら死んでもいいんだわ、さぁ、準備してくれ」出たよこいつ(笑)

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