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二・二六事件私的備忘録(十)「事件前日」

 昭和11年2月25日。二・二六事件発生の前日、3つの動きがあった。

憲兵隊の事前情報

 2月初め、牛込憲兵分隊分隊長・森木五郎少佐が、旭川憲兵隊へ転任することになった。その送別会の席で、森木は「歩一の山口大尉と歩三の安藤大尉の週番司令が一緒の日が一番危ない」と予告した。
 森木はいわゆる「皇道派」の将校だった。送別会の席とはいえ、無視し得る発言ではない。麹町憲兵分隊分隊長・森健太郎少佐は、部下に注意を促した。
 実際に2月25日、歩兵第1連隊の週番司令は第7中隊長・山口一太郎大尉であり、第3連隊の週番司令は第6中隊長・安藤輝三大尉だった。その権限をもって二人は25日夜半、弾薬庫を開放し、武器・弾薬を持ち出したのだ。
 麹町憲兵分隊の捜査では、2月19日時点で「栗原中尉らが25日に蹶起する」という情報を得ていたという。実際に19日に将校たちは栗原宅に集まっている。ただこの席では安藤が兵を使用しての蹶起になお不同意だった。
 ともあれ憲兵隊は25日を警戒した。だが、具体的な対策は取られなかった。捜査の当事者で、二・二六事件で首相を救出した青柳利之憲兵軍曹は、確度の高い情報だったのに活かされなかったことは、誰かに握りつぶされたのではないか、と疑っている。
 だが、対策といってもどれだけのことが出来るだろうか。25日段階で革新派と見做される将校たちを拘束するにしても、いったいどのような容疑で拘束するのか。要人の警備を増やそうにも、大臣などの警備は警察の管轄で憲兵がどうこうできるものではない。
 結局できることは情報提供だけだが、それが本当に行われたかは定かではない。警察が得ていたとしても、この時点で警察はいざというときの首相官邸からの脱出ルート、変事が起きたらすぐ特別警備隊を派遣できるよう、五・一五事件を教訓とした対応策を策定しており、それで十分と考えていたのかもしれない。
 誰もが予想し得なかったのは、これが1500名もの兵を率いての蹶起だったことだ。どんなに警備を増やしたところで、完全武装の兵隊を前に、警察・憲兵でどうこうできるものではなかった。
 憲兵が警戒していた2月25日には何も起きなかった。起きたのはその翌日である。

総理の親類・丹生誠忠中尉

 歩兵第3連隊の革新派は、22日に安藤輝三が参加を決意して、その命令一下、一糸乱れず蹶起準備に入った。
 一方、歩兵第1連隊は前日25日になって蹶起を聞き、そのまま参加した者がいた。丹生誠忠中尉と池田俊彦少尉である。
 丹生は栗原安秀中尉から、池田は林八郎少尉から26日の蹶起を聞いた。
 池田は首相官邸襲撃に参加したが、官邸襲撃担当の将校たちの中では唯一死刑を免れている。彼が突然聞いた蹶起に参加した所以は、思想云々以前に、親友・林八郎との友誼があったためだった。
 一方、丹生は微妙な立場である。
 栗原の友人であり、革新思想の同志ではあったが、丹生は総理大臣・岡田啓介とは親類なのだ。
 丹生の母・廣子の姉・歌子は、陸軍軍人・迫水久成に嫁いでいる。この久成の妹・郁が岡田啓介の後妻だった。更に、久成の息子で丹生誠忠とは従兄弟にあたる迫水久常は、岡田の娘と結婚していた。
 つまるところ岡田と丹生は義理の伯父・甥の関係だったのだ。岡田内閣組閣後、大蔵官僚だった迫水久常は首相秘書官になった。また、丹生の母の弟で外務官僚だった大久保利隆も、首相秘書官になり、更に岡田の義弟・松尾伝蔵も私設秘書として岡田の傍に侍った。ちなみに松尾伝蔵の息子・新一の妻は、迫水久常の妹・清子であり、これまた丹生の従妹である。
 このように、岡田の周囲は丹生に近しい親類で固められていた。会合で岡田内閣への批判の声が上がった時、丹生がどういう想いだったのか、また同志たちが丹生をどう思っていたかは定かではない。
 丹生は事件後、自分が事前に蹶起について聞かされなかったのは、その親類関係ゆえに情報が洩れることを警戒したからだろうと証言している。丹生自身もおのれの複雑な立場を自覚していたのだろうが、もの悲しい言葉である。
 叔父を殺すと言われた丹生は、参加に同意した。朝のうちに丹生は迫水宛に葉書を書いている。

昭和御維新の為只今より
蹶起仕る可く候
「大義親を滅す」心中御察
し下され度く候
                  岡田貞寛「父と私の二・二六」より

 葉書は25日午前3時に書かれたが、消印は26日だった。出動後、誰かに投函を依頼したとみられる。
 丹生の父・猛彦は海軍軍人で、厳格な人柄だった。彼は息子が革新思想に傾倒していると聞くや妻をたびたび東京へ送り、息子を叱った。だが、幸いというべきか事件の四か月前に亡くなり、息子の不義を知ることはなかった。
 丹生の母・廣子は、亡夫の怒りを知るがゆえに、誠忠の遺骨を累代の墓に葬ることを許さなかった。しかし、岡田貞寛の著書「父と私の二・二六」によれば「つい最近(恐らく昭和60年代)」丹生家の墓へ移葬されたという。
 また、松尾新一の妻・清子は、丹生の縁戚ということで、松尾の郷里では白眼視されていたと、亡くなる前に岡田貞寛に漏らしていた。

松尾伝蔵帰京

 2月25日夕方、福井にいた松尾伝蔵が帰京し、官邸に入った。
 20日に終わった第19回衆議院議員総選挙に、秘書官の一人・福田耕が福井県から出馬したため、松尾はその手伝いで揃って福井へ帰郷していたのだ。松尾は現役を退いてから福井市会議員を務め、福井では顔が広かった。
 結果、福田は福井全県区で1位当選を果たした。福田は結果を見ないまま東京へ戻ったが、松尾は結果を見届け、選挙の後始末をしてから戻った。それが2月25日である。
 松尾の帰京は急であり、そのことを知る人は少なかった。蹶起将校側は、親類である丹生誠忠、年始に官邸で松尾に会った歩三将校たちなど、松尾伝蔵の存在を知っていたが、彼が直前まで官邸に不在だということを知っていたかは定かではない。
 25日夜は、首相公邸で身内だけを集めた祝勝会が開かれた。参加したのは岡田に松尾、福田と迫水、そして迫水の妻で岡田の娘である万亀、新宿角筈の岡田の私邸を預かる岡田の妹・登美穂の6人である。
 福田と迫水は途中で退席している。この日、陸相秘書官の小松光彦少佐とその前任・有末精三少佐が、福田の当選を祝って赤坂の料亭で一席設けていたのだ。
 公邸での祝勝会は午後9時にはお開きになった。雪が激しくなり電車が不通になる可能性があったためだ。登美穂は角筈へ帰り、万亀は官邸裏門に面した迫水の官舎へ帰宅する。
 岡田と松尾は午後11時まで酒を飲んで就寝した。福田と迫水が酔って官舎に戻ったのは日付が変わって26日午前1時である。
 それから4時間後、事件は起こった。
 松尾は岡田の秘書になって以来、死を覚悟していたと言われる。
 五・一五事件における犬養毅の死が大きいだろう。それ以前にも、原敬、浜口雄幸など首相は命の危険に晒される職業になっていた。いざとなれば影武者になろうとしていたのだ。松尾は鬚の剃り方まで真似て、自分を総理に似せようとしていた。岡田に言わせればまったく似ておらず、写真を見る限り筆者にも似ているとは思えない。しかし、同時代に「似ている」と証言している者がいるのも確かだ。
 秘書になってから、松尾は娘・清子の嫁ぎ先を探している。その相手に見込まれた陸軍中尉・瀬島龍三は、「死を予感し、急いでいたのではないか」と推察している。
 松尾の25日の帰京は偶然である。だがその帰京が、岡田の運命を変えたのだった。

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