あずまえびす

二・二六事件に囚われ、抜け出せぬ(まだ)青年

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最近の記事

映画「226」の史実との違い ~冒頭編~

秋の会合  映画「226」の冒頭は、当時の写真を使った時代背景の概略に始まり、そこから旅館らしき場所で密談する青年将校たちの姿へと繋がることで始まる。  その場にいたのは、麻布歩兵第3連隊の安藤輝三(演:三浦友和)、野中四郎(萩原健一)、歩兵第1連隊の栗原安秀(佐野史郎)、近衛歩兵第3連隊の中橋基明(うじきつよし)、歩兵第1旅団の香田清貞(勝野洋)、所沢飛行学校の河野寿(本木雅弘)、そして陸軍を免官になっている村中孝次(隆大介)と磯部浅一(竹中直人)である。  これは蹶

    • 映画「226」と史実との違い ~官邸襲撃編~ 後編

      映画での描写 ~「岡田総理」殺害~  大蔵大臣・高橋是清邸襲撃シーンを挟んで、場面は首相公邸に戻る。  邸内を歩く林八郎は、女中たちの部屋を開け、身を寄せ合う女中二人を見つけた。「二人だけか」と問う林に、「二人だけです」と女中は答えたが、林は怪しみ、室内に踏み入ろうとする。そこへ兵士が、「岡田首相を見つけました!」と告げてくる。林はすぐその場を去った。  林が去ると、恐る恐る押し入れの襖を中から老人が出てくる。岡田啓介(演:有川正治)である。女中二人は慌てて岡田を押し入

      • 映画「226」と史実との違い ~官邸襲撃編~ 前編

         1989年に上映された映画「226」は、配役とその演技は素晴らしいが、一方で二・二六事件に関する前知識のない人々にとっては説明不足という一面がある。  無粋は承知だが、本稿は史実との違いを理解してもらい、説明不足な部分を補うべく記述し、またなぜそのような描写にしたのか、演出意図を考察した。よければ、映画と比べながら読んでいただきたい。 映画での描写 ~官邸突入~  栗原安秀(演:佐野史郎)中尉率いる歩兵第1連隊機関銃隊を基幹とする蹶起部隊(以下栗原隊)は首相官邸正門を

        • 蹶起将校の生死を分けたもの ~丹生誠忠を中心に~

           二・二六事件最中の蹶起将校を写した写真といえば、安藤輝三を正面から撮ったもの、兵を率いる栗原安秀を撮ったもの、そして集まった兵士たちに何かを語る丹生誠忠を撮ったもの、この3点程度である。  安藤・栗原は事件の首魁であり、知る人は多い。一方、事件時の写真が残される数少ない存在ながら、丹生誠忠はあまり知られていない。彼は一隊の指揮官ではあるが、首魁ではなく、殺された重臣の殺害にも関与してはいない。だが彼には、他の青年将校にはない特筆すべき経歴があった。それは、二・二六事件で命を

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        映画「226」の史実との違い ~冒頭編~

          オレラモヤリタカッタ 蹶起将校・山本又の見た憲兵司令官

           2月27日、二・二六事件発生から1日経ち、蹶起将校の一人、山本又予備役少尉は、下士官一名のみを連れて、憲兵司令部を訪れた。目的は、戒厳司令部参謀・石原莞爾との面会だった。昭和維新の大詔渙発が出るという話を聞き、それが事実かを確認しに来たのだ。  憲兵司令部につくと、山本はさっそく憲兵司令官・岩佐禄郎中将と面会する。すると岩佐は山本の手をとり、涙ながらに「オレラモヤリタカッタ。ダガ、骨肉相食ムナヨ」と語り、山本も心中涙を流した。  このあと、山本は憲兵司令部で石原莞爾・満井佐

          オレラモヤリタカッタ 蹶起将校・山本又の見た憲兵司令官

          岡田啓介の遺族? 岡田海軍中佐とは

           二・二六事件において、総理大臣・岡田啓介は殺害されたと思われた。しかし実際は生存しており、岡田と思われて殺害されたのは、義弟・松尾伝蔵だった。  岡田の生存を知っていたのは、押し入れに匿っていた女中二人の他は、迫水久常・福田耕の二人の秘書官、そして公邸に潜り込んだ麴町憲兵分隊の青柳利之憲兵軍曹たちだけだった。  26日中に、迫水・福田ライン、青柳ラインの二つで岡田生存を知る者は増えていったが、遺体の違いに蹶起将校たちは気づかなかった。  27日になると、情勢はいったん落ち着

          岡田啓介の遺族? 岡田海軍中佐とは

          二・二六事件 出動準備 ~安藤輝三と栗原安秀~

           二・二六事件では、1500名もの兵員が動員された。尉官のみで、2名の中隊長の他は中隊附将校ばかりの蹶起将校たちは、いかにこれほどこれほどの兵力を動員しえたのか。準備の中心を担った歩兵第3連隊(歩三)の安藤輝三、歩兵第1連隊(歩一)の栗原安秀の二人の動きを見てみよう。 前段階 蹶起において誰を襲撃するか。その計画の骨子自体は、2月18日の栗原宅の会合で決められた。  内容自体は、実際に実行した計画に、豊橋教導学校の同志による西園寺公望襲撃を加えたものだった。翌週中の蹶起こそ

          二・二六事件 出動準備 ~安藤輝三と栗原安秀~

          「警察官たちの二・二六」

           昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発したとき、逓信大臣・望月圭介は原宿の私邸にいた。  岡田啓介・高橋是清ら内閣閣僚、斎藤実・鈴木貫太郎ら天皇側近が襲われたとあって、望月を警護する警察も、原宿署の署長が自ら望月邸に駆け付け、その警護についた。  署長は望月に対し、私邸からの避難を勧告したが、望月は拒否した。「いつ宮中からお召があるかわからない。そのとき家にいないとあっては一代の恥」というのだ。  それどころか、宮中に参内すると言い出し、一度は蹶起部隊の歩哨線まで行って追

          「警察官たちの二・二六」

          相沢事件 ~狂人かそれとも……~

           昭和10年8月12日、陸軍省軍務局長室において軍務局長・永田鉄山少将が、相沢三郎中佐によって刺殺された。いわゆる相沢事件である。  相沢はその年齢には珍しく、青年将校たちの影響を受けていた。ゆえに、昭和9年11月の陸軍士官学校事件、相沢事件前月に起きた陸軍教育総監・真崎甚三郎の罷免の件、これらは全て永田鉄山の策謀とみなしての犯行であった。  白昼の凶行、殺害後の発言ゆえに、相沢は狂人呼ばわりされることになる。 相沢事件 相沢は明治22年生まれで事件時には44歳だった。陸軍

          相沢事件 ~狂人かそれとも……~

          二・二六事件私的備忘録(十六)「組織なき青年将校たち」

           昭和11年2月26日。総理大臣始め、重臣の命を狙い、昭和維新を果たそうとした青年将校たち。だが彼らは、自分たちの組織を持たなかった。  なぜ彼らは、名のついた組織を持たなかったのか。 天剣党 昭和2年7月。天剣党なる組織が、陸軍を騒がせた。  創設者は西田税。元陸軍軍人の右翼活動家である。  天剣党は、北一輝の『日本改造法案大綱』を経典とし、その実現のために実力行使も辞さぬことを掲げて組織された集団である。その同志には、民間人のみならず現役陸海軍将校も名を連ねており、その

          二・二六事件私的備忘録(十六)「組織なき青年将校たち」

          二・二六事件私的備忘録(十五)「内閣官房の二・二六」

          事件発生 昭和11年時の首相官邸敷地内は、表門は官邸、裏門は公邸に面していた。  この裏門前には、内閣書記官長公邸はじめ、首相秘書官や内閣書記官の官舎が拡がっている。  総理大臣・岡田啓介の女婿で首相秘書官であった迫水久常の官舎はちょうど裏門の正面にあり、二・二六事件時には裏門に突入する襲撃隊の姿を目撃した。  この迫水の官舎の隣に、内閣官房総務課長・横溝光暉の官舎があった。  横溝は田中義一の時代から内閣官房に勤めるベテランであり、五・一五事件も経験している。こうした場合、

          二・二六事件私的備忘録(十五)「内閣官房の二・二六」

          二・二六事件私的備忘録(十四)「菅波三郎と蹶起将校」

          『二・二六事件裁判記録』には、青年将校たちが如何に革新思想に目覚めたかが証言されている。そこで頻出する名が、青年将校・菅波三郎だ。北一輝よりその才を愛され、西田税・大岸頼好と並ぶ青年将校運動の先駆者であり、血盟団の井上日召、海軍側同志の藤井斉からも一目置かれた彼が、二・二六事件の青年将校にどれほど影響を与えているか、『裁判記録』から見ていこう。  なお、衝動的に書いたため、証言の概要を羅列しただけの文章になったことをご容赦願いたい。  村中孝次は菅波三郎とは陸軍士官学校第3

          二・二六事件私的備忘録(十四)「菅波三郎と蹶起将校」

          二・二六事件私的備忘録(十三)「青年将校三人の回顧録」

           二・二六事件に関係した青年将校たちは、それぞれに事件を回顧する著作や談話を残している。代表的なのは蹶起にも参加した池田俊彦少尉だが、彼は青年将校運動全体から見ると、「新参」である。  回顧録を残した「古参」の青年将校といえば、末松太平・大蔵栄一・新井勲の三人だ。その古参たる所以は、十月事件に何かしら関与していることにある。  今回は、この三人の回顧録を比較していきたい。  なお、三人の著作はそれぞれ、末松本(『私の昭和史』)、大蔵本(『二・二六事件への挽歌』)、新井本(『日

          二・二六事件私的備忘録(十三)「青年将校三人の回顧録」

          二・二六事件私的備忘録(十二)「大岸頼好と菅波三郎」

           大岸頼好と菅波三郎。  数多の資料に頻出しながらも、この二人が何者なのか詳細に扱ったものは数少ない。今回は二人の簡単な来歴を紹介すると共に、筆者の観る二人について語っていきたい。 大岸頼好 大岸頼好は陸軍士官学校第35期生である。34期生の西田税とは、広島幼年学校の頃、先輩後輩だったが、その頃は顔見知り程度だった。  大岸たちの期は、大正デモクラシーの影響から士官学校も規律が緩くなり、マルクスや一般的な文学作品も生徒たちは読めるようになっていた。大岸はマルクスへ興味を示し

          二・二六事件私的備忘録(十二)「大岸頼好と菅波三郎」

          二・二六事件私的備忘録(十一)「海軍大佐・佐藤正四郎と朱鞘の大刀」

           阿川弘之の『山本五十六』に次の記述がある。  陸戦隊の指揮官は、井上と同じ同期の佐藤正四郎大佐で、佐藤は事件が収まるまで朱鞘の大刀を背負い、海軍を代表して東京で非常の活躍をし、山本五十六もこれをのちまで喜んでいたという。  二・二六事件発生時、横須賀鎮守府が特別陸戦隊4個大隊約2千名を東京へ派遣した際の記述である。  横須賀鎮守府参謀長・井上成美少将は、こうした事件が起きるのを警戒し、いざ変事が起きれば、すぐ陸戦隊を派遣できるよう、着任してから準備を整えていた。  まず

          二・二六事件私的備忘録(十一)「海軍大佐・佐藤正四郎と朱鞘の大刀」

          二・二六事件私的備忘録(十)「事件前日」

           昭和11年2月25日。二・二六事件発生の前日、3つの動きがあった。 憲兵隊の事前情報 2月初め、牛込憲兵分隊分隊長・森木五郎少佐が、旭川憲兵隊へ転任することになった。その送別会の席で、森木は「歩一の山口大尉と歩三の安藤大尉の週番司令が一緒の日が一番危ない」と予告した。  森木はいわゆる「皇道派」の将校だった。送別会の席とはいえ、無視し得る発言ではない。麹町憲兵分隊分隊長・森健太郎少佐は、部下に注意を促した。  実際に2月25日、歩兵第1連隊の週番司令は第7中隊長・山口一太

          二・二六事件私的備忘録(十)「事件前日」