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「警察官たちの二・二六」

 昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発したとき、逓信大臣・望月圭介は原宿の私邸にいた。
 岡田啓介・高橋是清ら内閣閣僚、斎藤実・鈴木貫太郎ら天皇側近が襲われたとあって、望月を警護する警察も、原宿署の署長が自ら望月邸に駆け付け、その警護についた。
 署長は望月に対し、私邸からの避難を勧告したが、望月は拒否した。「いつ宮中からお召があるかわからない。そのとき家にいないとあっては一代の恥」というのだ。
 それどころか、宮中に参内すると言い出し、一度は蹶起部隊の歩哨線まで行って追い返され、家に戻った。それでも参内を諦めず、なおも避難を勧める原宿署長を振り払って、望月は再び宮城へ向かった。
 望月は竹橋門まで至り、再び「叛軍」に止められた。だが望月は「国務大臣として天機奉伺のため参内するのだ。通せ」と毅然と命令し、その態度に「叛軍」も遂に望月を通した、と『望月圭介伝』には書いてある(※この記述に関しては疑問点もあるので余談として後述する)。
 望月の国務大臣としての義務感は立派だが、警護についた原宿署長にすれば気が気でなかっただろう。署長にも望月を守る義務があり、望月が命を失うことになれば、それは自ずと署長の責任となる。
 後のことであるが、二・二六事件から9年後の昭和20年8月、鈴木貫太郎内閣書記官長だった迫水久常は、鈴木内閣総辞職によって職を辞すことになり、家族も疎開していたため、世田谷にあった義父・岡田啓介の家に身を寄せた。すると、世田谷署から苦情が入った。岡田の警護だけでも手一杯なのにもう一人要注意人物が増えては責任が持てないので、よそへ行ってくれというのだ。当時、日本を降伏させた張本人の一人として、迫水は命を狙われる可能性があったのだ。
 望月の例、迫水の例から見ても、警察、特に所管する警察署長にとって、要人の警護は重責だった。現場の警察官たちも、それは同じだろう。
 今回は二・二六事件のときの警察の動きを、「赤狩り安倍」で知られる特高部長・安倍源基の回顧録を中心に見てみよう

警視庁占拠

 昭和7年の五・一五事件もあって、警視庁は首相官邸の警備を強化し、緊急事態時の対処プロセスも用意していた。
 官邸には桜田門の警視庁に直通した非常ベルが置かれ、警視庁には特別警備隊が編成された。通称・新選組と呼ばれたこの部隊は、現在の機動隊の源流と言われる精鋭部隊であった。不逞分子が首相官邸を襲撃した場合、官邸詰めの警官が非常ベルを鳴らして不逞分子から首相を守り、その間にベルを受けて新選組が出動して応援するのが、事前の取り決めだった。
 また、官邸・公邸で囲われた中庭には、脱出用の非常口が設けられ、襲撃があればそこから首相を逃がす手筈になっていた。
 二・二六事件が起こると、すぐ官邸では非常ベルが鳴らされ、警視庁からは特別警備隊の1個小隊が出動し、後続部隊も順次出動する予定だった。だが、特別警備隊の小隊の前に、完全武装の兵隊が立ちふさがり、武装といえば拳銃と六尺棒しかない25人ほどの新選組も、重機関銃を持つ300人近い兵隊の前には、為すすべがなかった。同じころには、彼らの根拠地である桜田門の警視庁も、蹶起部隊によって占拠されていた。
 警視庁の対策は、あくまで五・一五事件を先例にしたものだった。数百人もの兵隊、それも永田町一帯の制圧を目論む集団への対処など、想定していなかった。
 事件発生を聞いた特別高等警察(特高)部長・安倍源基は、もはや警察の手に負えるものではないと早くに判断し、憲兵司令部と東京憲兵隊長に電話して軍・憲兵による鎮圧、民間の治安維持は警視庁が全責任を負うことを伝えた。
 家を出た安倍は、実質警視副総監と言える警務部長・本間精の官舎に向かい、同様の進言をして同意を得た。そこへ、警視庁から電話がかかる。
 電話してきたのは、特別警備隊長・岡崎英城だった。岡崎は堂々と警視庁へ乗り込み、占拠部隊の指揮官・野中四郎大尉と交渉したのである。岡崎が野中に聞いた彼の言い分は、目的達成のためであって、敵として占拠したわけではない、というものだった。
 本間は岡崎に無用の衝突を避けるよう指示した。ここまでで、警視庁としての方針は定まった。鎮圧は陸軍・憲兵隊に任せ、警官は民間の治安維持に尽力し、軽挙して蹶起部隊と衝突しないこと。これが警視庁の方針である。
 錦町警察署(現在の神田警察署)に、警視総監・小栗一雄以下、警視庁幹部が集結した際、その方針は正式に定められた。以後、警察は占拠されている警視庁に代わって、錦町署を警備本部として警視庁機能を移した。当時、憲兵司令部は九段の現在の東京法務局にあり、錦町署に近く、軍と連絡を密にとるには、恰好の立地だった。戒厳司令部が同じく九段の軍人会館に置かれてからはなおさらである。
 以後、警察は錦町署を中心に、民間の治安維持にあたった。幸い蹶起部隊は26日の朝日新聞襲撃以外は永田町からほとんど動かず、警察と衝突することはなかった。


内相はどこか?

 事件時の警察組織は、警視総監・小栗一雄、警務部長・本間精、特高部長・安倍源基が中心となっていた。
 だが、当時警視庁が属する内務省にはもう一つ、警保局がある。現在の警察庁の源流である。当然、警視庁とは無関係ではなく、こうした事件に際しては真っ先に情報を共有すべき組織である。いや、自ずと共有されなければおかしかった。
 ところが事件当日、警保局長・唐沢俊樹は東京にいなかった。局長だけでなくその管下にある保安課長もいなかった。事件発生を受けて安倍源基が連絡した警保局幹部は、図書課長だけである。
 唐沢と保安課長は、26日に京都で開かれる予定だった全国特高課長会議に出席するため、関西に行っていたのだ。特高課長会議とあって安倍の部下である警視庁特高課長・毛利基も、唐沢たちと共に会議参加のために東京を離れていた。
 ここまで本拠地たる桜田門の庁舎を占拠されながらも、冷静に対処しているように見える警視庁幹部たちだったが、26日段階で彼らを混乱させたのは他ならぬ身内だった。
 内務省のトップ、内務大臣・後藤文夫と連絡が取れなかったのだ。
 事件発生時から、戒厳が宣告されるだろうということは予期できた。だが、警視庁としては戒厳宣告には反対であり、安倍源基はその理由を「戒厳を名目に軍政を布くことを恐れて」としている。
 戒厳宣告は閣議決定を必要とするため、警視庁は上司たる内務大臣に反対の意を伝え、閣議でそれを主張してもらおうとした。しかし、その大臣が見つからない。
 「捜索」を担当したのは、警視庁官房主事・矢野兼三である。どうやら後藤は身を隠したようで、自宅にはいなかった。矢野が自宅に連絡すると夫人が出たが、矢野が後藤の所在を訪ねても、言を左右にして相手にしなかった。矢野を信用しなかったようだ。結局、小栗が代わって夫人と話し、一刻も早く参内すべきという伝言を預けることが出来た。そして午後二時ごろ、後藤は参内した。だが、国策研究同志会の矢次一夫は著作の中で、事件の推移を知るため錦町警察署を訪ねたとき、午後三時だというのに後藤の所在がわからないと小栗以下地団駄を踏んでいるのを覚えている、と回想している。
 ともあれ、後藤の行方不明状態は解消された。集まった閣僚中、宮中席次が最も上席だった後藤は、「内閣総理大臣臨時代理」に任命されたが、本来、総理が在任中死亡した場合は、「臨時兼任内閣総理大臣」となるはずである。「臨時代理」は総理が一時的に職務をとれなくなったときに、上席閣僚に発令されるものだった。
 この違いこそ、岡田が生きていることのヒントだったが、辞令に疑問の声を上げる閣僚はいなかった。
 総理と大蔵大臣を欠いた閣議において、まず戒厳をするか否かが議論され、警視庁の進言通り、後藤は戒厳に反対した。「問題は陸軍内部のことであり、陸軍自体が収拾すればよいことだから戒厳は必要ない」というのが後藤の反対理由である。
 これはそのまま、警視庁の見解と見てよいだろう。警視庁の方針である「鎮圧は軍・憲兵に任せて」というのは、「戒厳を布いて」のものではなかった。
 『戒厳 その歴史とシステム』の著者・北博昭は、二・二六事件における戒厳の目的が治安維持であったことを述べ、では東京警備司令部が当初行った治安出兵で事足りえたのではないかと指摘している。東京警備司令部は事件発生直後から、陸軍大臣の指示に基づき第一師団に治安維持のための警備出動命令を下令していた。この際、蹶起部隊も第一師団の指揮下に組み込まれ、名目上歩兵第一連隊隊長・小藤恵大佐の指揮下に置かれた。このことが後に事態を複雑化させるが、それはまた別の話である。
 当時、地方長官である知事には軍に対する治安出兵請求権があった。かつて戒厳が宣告された関東大震災では、発生から二時間後に東京府が治安出兵を請求した。東京府に限って出兵請求権は警視総監が持っていた。
 震災時の戒厳宣告を主張したのも、当時の警視総監・赤池濃だった。時の内務大臣・水野錬太郎はこの進言を容れた。しかし、水野は震災5年前の米騒動の際、戒厳を布くべきではないかという意見が上がったとき、反対している。
「国内の擾乱危殆に瀕し内乱状態に陥りたるの如き非常の場合に於て施行すべき」
 というのが米騒動の際の水野の主張であり、水野にとって米騒動はそうでなく、関東大震災はその事態と解したということになる。
 関東大震災は未曽有の災害であり、政府要人との連絡もつきにくく、交通も遮断され、根も葉もない流言蜚語が飛び交って、それが更に治安を乱していた。まさに「国内の擾乱危殆に瀕し」である。警察の治安維持能力には限界がある。軍隊の人員と武威による威圧感が必要とされた。
 二・二六事件時の警視庁幹部である安倍源基の戒厳反対理由は、前述したとおり「戒厳を名目に軍政を布くことを恐れて」としか回顧録に書いていない。ただこの理由は、事件後の軍部の政治介入とその果ての敗戦を踏まえてのものだと思う。ちなみに安倍の回顧録『昭和動乱の真相』が出版されたのは昭和52年である。実際の理由は、以上のような「関東大震災ほどの非常事態ではない」というのが、警視庁の判断だと思われる。
「首相や天皇側近が殺害されたのに非常事態ではないとは何事か。事態を軽視しているのか」と思われるかもしれないが、東京全域が混乱していた震災に対し、二・二六事件の騒乱は永田町周辺のみと限定的だった。蹶起部隊もそこから占領地域を拡大してはいない。名目上とはいえ第一師団麾下の警備部隊とされ、律儀に警備に当たっていたのである。
 蹶起将校の同志は全国の連隊にいたが、今回の蹶起は東京の将校中心であり、地方の同志、特に大物といえる和歌山の大岸頼好、鹿児島の菅波三郎、青森の末松太平、朝鮮羅南の大蔵栄一らの与り知らぬところだった。彼らは一様に蹶起に驚いており、同調した過激行動を起こしようもなかった。
 そして、司令部である警視庁が落ちたからといって、東京の警察組織が崩壊したわけではない。むしろ陸軍や憲兵隊よりも秩序を保っていた。
 安倍は回顧録の中で、たびたび「大局的立場に立って」と書いている。そうしたうえでの、「戒厳反対」なのだろう。警視庁の考えは、小栗からの説明もあっただろうが、後藤文夫も十分に理解していたはずだ。なぜなら、他ならぬ関東大震災の時、戒厳を布くべきという赤池の進言を水野に伝えたのは、当時内務省警保局長であった後藤なのである。
 北博昭は、関東大震災の戒厳と比較して二・二六事件は治安出兵で十分鎮圧できたと断じている。それでも戒厳は布かれた。その理由を北は、

 早期鎮定のための、やはりパフォーマンスという色彩が濃い。戒厳の与える大仰さと重々しさに加えて、武威による威圧感が利用されたのだとみなしたい。

 としている。


終結に向かって

 26日夜、京都に行っていた警保局長・唐沢俊樹たちが帰京した。特高課長・毛利基も帰ってきたが彼はさっそく安倍に対し、「300名の決死隊を募ってください。私が決死隊長となって警視庁を叛乱軍から奪還する」と提案した。その顔は悲壮な面持ちだったという。
 毛利は元々、この時期に東京を離れたくはなかった。相沢事件以来、時期はわからずとも青年将校たちが何かを起こす予感というのは、誰しもが感じていた。そんなときに東京を離れるのは、毛利は後ろ髪を引かれる思いだった。しかし、内務省からは警保局長と保安課長が出席するなど、かなり重要視している会議である。全国特高課長会議というからには、警視庁特高課長たる毛利が出ないわけにはいかなかった。
 特高課長会議は、前年の大本教を苛烈に取り締まったいわゆる第二次大本事件に関するものであったが、唐沢が保安課長を連れて出席するのは、その大本教取り締まりを主導したのが、唐沢自身だったことと無関係ではないだろう。後に唐沢は、あの時期の会議出席を内務省内外から批判され、いっさいの弁解もすることなく、その地位を去った。
 ともかく、二・二六事件発生を受けて、毛利は責任を感じていた。その勇敢さに安倍は感激したものの、この際それは警察の為にはならなかった。拳銃しか持たない300名の決死隊で、機関銃を持った完全武装の兵隊に戦い挑めば、犠牲者を出すばかりで勝てる見込みはない。また現状、蹶起部隊は警備部隊へ編入されている。つまり今は正規軍扱いなのである。それに戦いを挑むのは、いたずらに事態を混乱させるだけである。軍のことは軍に任せればいいと、安倍は毛利を宥めた。
 安倍は軍・憲兵と関連省庁の部課長級で構成される連絡会議の一員に名を連ね、他省庁との調整に当たった。こと鎮圧に関しては万事軍と憲兵に委ね、安倍は口出ししなかった。
 事件の鎮圧が近づくと、特高は俄かに忙しくなった。事件に関与したと思われる民間人関係者の拘束が始まるのだ。
 民間人の扱いに関しては、陸軍省と司法省の間で対立が生じていた。司法省側が関係者をまとめて処理する特設軍法会議(いわゆる東京陸軍軍法会議)の設置に反対し、軍人は軍法会議、民間人は普通裁判所で処理すべきと主張したのだ。
 結局は特設軍法会議の設置で決まったものの、妥協案として憲兵が逮捕した民間人は軍法会議の管轄、警視庁が逮捕した者は検事局に送致する、という取り決めがなされた。
 しかし、検事局の木内曽益は、司法権を擁護せんとする司法省首脳部の考えを理解しつつも、このような事件は普通裁判所に委ねれば裁判は遅々として進まず、急いでも判決が出るまで4、5年かかる。また一般国民や国際的にも関心が集まるこのような重大事件は、一日も早く結論を出すべき、と考えていた。
 そういう点から、木内は東京陸軍軍法会議の設置には賛成だった。そこで木内は、東京憲兵隊長・坂本俊馬大佐、警視庁特高部長・安倍源基、警視庁特高課長・毛利基と極秘に申し合わせ、事件の民間人主要関係者を警視庁が単独で逮捕しえても、まず憲兵隊に通報して、共同で逮捕し、憲兵隊が単独で逮捕したことにする、という取り決めをした。
 結局は全員、軍法会議の元で裁かれるのだが、現場レベルではそうした政治的判断がなされていた。
 3月4日、逃亡していた西田税が警視庁特高課によって逮捕された。2月29日には北一輝も憲兵隊に逮捕されており、二人は憲兵・特高の双方から聴取を受けている。
 西田の逮捕前後が、二・二六事件の一区切りとなった。岡田内閣は総辞職をして、後継の広田弘毅に軍・内務省では関係者の処分が始まった。
 内務省警保局長・唐沢俊樹は懲戒免職、警保局の保安課長・警務課長も異動となり、外地に送られたことから、左遷とささやかれた。警視庁も警視総監・小栗一雄は休職の後、翌年に退官。警務部長・本間精は北海道庁総務部長、官房主事・矢野兼三は岡山県総務部長に異動となった。安倍源基は譴責処分を受けた後に静岡県総務部長へ異動した。ただ、警視庁幹部は左遷というわけではないようだ。
 内務省・警視庁の首脳部はほとんど入れ替わったわけだが、事件後、警視庁と内務省警保局の間で諍いが起こった。安倍が静岡県総務部長へ異動した後、全国警察部長会議の席上、警保局警務課長が「警視庁を占拠されて、そのまま泣き寝入りになったのは意気地がない」と警視庁を批判したのだ。あんまりだと感じた部長の一人は「内務省はどうでしたか」と聞くと、誰も答えなかったという。
 また安倍は、後藤文夫が晩年、「警視庁との連絡はなかなかつかず、警視庁からの連絡もなかった」という談話を、後藤と連絡がつかずに混乱したのは警視庁のほうだ、と反論した。
 事件が落着した後、安倍は毛利特高課長と共に、陸軍省軍事課の武藤章中佐に料亭に招かれた。武藤は「警視庁が自重してよくやってくれたから、二・二六事件も永田町一帯の騒動ですんだが、もし警視庁と叛乱軍が衝突したとすれば大変なことになった」と、安倍たちを慰労した。
 安倍は二・二六事件における警視庁の対応は適切だったと胸を張る。確かに、安倍の回顧からは警視庁は終始冷静に対応しているように見えるが、迫水久常などは、救出した岡田啓介の参内時の護衛について28日に錦町警察署を訪ねた際、「幹部一同の様子をみると、みんなしょげかえっていて、まったくたよりにならないありさまである」と記している。この際、小栗一人に岡田生存を明かし、警視庁の警護を要請したが、「この事態はとてもわれわれは責任をもてない。むしろ、憲兵隊にたのまれたほうがよいと思う」と答えた。
 また、矢次一夫が内務大臣の所在がわからず地団駄を踏む警視庁幹部たちを見ている。安倍の回顧は、当事者として多少の“見栄”が混じっていても仕方がない。対処こそ適切ではあったが、そこに至るまでには、他に負けない混乱があったのだろう。事件では、内閣官房、陸軍・憲兵隊など、関係する部局はそれぞれに混乱していたのだから。
 警視庁占拠は、警察がマヒした印象を与える。だが実際は機能を錦町警察署に移しただけだった。二・二六事件関係の書籍を見ると、警察についての記述は少なく、存在感は薄い。だが、永田町以外で目立つ騒乱はない。安倍自身が適切と誇り、武藤章が礼を言ったように、「軍のことは軍に任せ」たことが、治安の乱れを生じさせなかった。
 警察に関する記述は少ない。しかし、警察の無力を批判する記述もまた皆無である。永田町以外で混乱が起きていないことを合わせて、警察の治安力が問題なく機能していた証左だろう。


5人の殉職者

 二・二六事件における犠牲者は、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監・渡辺錠太郎、首相私設秘書・松尾伝蔵の4人の名が上がるが、警察官5人も命を落としていた。
 首相官邸詰めの村上嘉茂左衛門巡査部長、土井清松巡査、清水与四郎巡査、小館喜代松巡査、そして神奈川県湯河原で前内大臣・牧野伸顕を守った皆川義孝巡査である。
 事件当日、まず官邸裏門の詰め所にいた小館巡査が抵抗の末に殺された。特別警備隊を呼ぶ非常ベルを鳴らしたのは、彼である。
 騒ぎに気付いた他三名は、松尾伝蔵と共にすぐ岡田啓介の寝所に駆け付けた。軍隊がきたと知って、「もうどうにもならない」と岡田は諦めたが、「何を言いますか」と松尾は叱咤し、警官たちと共に、予定通り庭の端にある非常門から岡田を逃がそうとした。
 だが、庭に先行していた清水巡査が、庭の官邸側から出てきた蹶起部隊の銃撃で倒れ、即死した。村上たちはすぐ屋内へ引き返し、岡田を風呂場へ隠した。
 岡田が気づいたときには、松尾も姿を消し、岡田は一人になっていた。この間、村上巡査部長は銃撃戦の果てに銃創を受けて即死した。土井巡査は拳銃を撃ち尽くした後、通りかかった蹶起将校・林八郎少尉に飛び掛かり、これを組み伏せたが、林の部下に背中を銃剣で突かれたうえ、マサカリの一撃を食らって倒れた。それでも土井は抵抗を止めず、林に斬りつけられて、ついに倒れた。
 だが土井はまだ生きていた。風呂場前の廊下に倒れた土井は、風呂場にいる岡田に「まだ出てきてはなりませんぞ」とうめく声で言った。
 林八郎は返り血を浴び、見知った憲兵軍曹・青柳利之に会うと、興奮と共に刀を見せていた。刃こぼれはしていなかったが、鍔元から柄にかけて血糊がついていた。
 その青柳が、土井がまだ息をしているのに気付いた。すぐに病院に搬送したが、結局、土井は家族に看取られて、息を引き取った。
 湯河原の旅館別館で牧野伸顕を警護していた皆川巡査は、銃声で飛び起きると、すぐに牧野を裏口から逃がし、表門に向かって銃撃を加えた。この銃撃で襲撃隊指揮官・河野寿大尉が傷を負ったが、皆川も反撃を受けて倒れ、牧野の看護婦に看取られて息を引き取った。
 皆川の前任は、牧野家の人々から気に入られ、半ば家人同然に扱われていた。これではいざというとき勤めが果たせぬと、警視庁は前任者の異動を決めたが、これを受け牧野家は「変えないでくれ」と小栗警視総監に抗議してきた。小栗は警務課長と相談のうえで、牧野家の要請を断って異動を断行し、皆川の着任となったのである。
 警視庁にとって、5人の身を挺した働きで、岡田と牧野が助かったのは、蹶起部隊の前に成すすべがなかった警察の面目を保つものだった。高橋是清邸では玉置英夫巡査が重傷を負い、斎藤実邸では3、40人の警官たちが武装解除されてしまっていた。
 当然、内務省・警察は彼らを称揚したが、国民も5人の殉職警官の死を悼んだ。

 殉職警官の合同警視庁葬が後日築地本願寺で盛大に行なわれたが、一般市民の焼香者も数万名に及んだ。
                   安倍源基『昭和動乱の真相』より

 5人に寄せられた弔文は十万通、弔慰金は総額21万9800余円に上り、弔慰金の受付が打ち切られると、新聞に抗議の投書が寄せられたという。

余談

 冒頭で望月圭介が竹橋門で「叛軍」を一喝して門を通った話を紹介した。しかし、蹶起部隊が押さえていたのは永田町一帯のみで、宮城へ続く門は制圧していなかった。坂下門には中橋基明がいたが、すぐ怪しまれて単身去っている。
 つまり竹橋門で望月を止めたのは、「叛軍」ではなく、宮城を警備する近衛師団の衛兵なのである。このとき宮城の各門で情報が錯綜していたのか、拓務大臣・児玉秀雄は参内するよう言われたのに衛兵から入門を拒否され、内閣官房に連絡している。竹橋門での望月も、同じように入門を拒否されたが、そのために衛兵たちを「叛軍」と勘違いした可能性がある。

主要参考文献

安倍源基『昭和動乱の真相』中央公論新社
岡田貞寛『父と私の二・二六』光人社
北博昭『戒厳 その歴史とシステム』朝日新聞出版
迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房
山田邦紀『岡田啓介』現代書館
林茂編『二・二六事件秘録 (一)』小学館
望月圭介伝刊行会『望月圭介伝』羽田書店

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