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二・二六事件私的備忘録(九)「総選挙と蹶起に関係はあるか?」

 二・二六事件前の昭和11年2月20日。第19回衆議院議員総選挙の投開票が行われた。
 選挙の結果、立憲政友会は惨敗し、立憲民政党が第一党になると共に、無産政党である社会大衆党が議席を得た。
 政友会の惨敗ぶりたるや凄まじいもので、議席は67席も減少し、他ならぬ総裁・鈴木喜三郎までもが、神奈川2区で落選してしまった。
 その一週間と経たずに、二・二六事件が起きた。このように書き出すだけでも、政友会の敗北と二・二六事件の蹶起には関連があるのではないか?と考えてもしまうのは致し方ないことだ。
 では関連があったのか、考察していきたい。

第19回衆議院議員総選挙

 衆議院が解散したのは1月20日のことである。
 直接的理由は、政友会が不信任案を提出したためだった。
 この時期の政友会は、天皇機関説問題、国体明徴問題で岡田啓介内閣を追求し、親軍的な性格を帯びていた。しかし、政友会と軍部が密接に協力し合っているわけではなく、軍部・在郷軍人・右翼団体の機関説排撃を岡田内閣倒閣の材料にしていただけだった。いわば便乗していたのだ。
 五・一五事件以前、第18回衆議院議員総選挙において300議席も獲得していた政友会だったが、五・一五事件で総理大臣にして政友会総裁・犬養毅を失うと、政情の不穏から元老・西園寺公望は、海軍大将・斎藤実を首相に推薦した。斎藤内閣は挙国一致内閣として政友会・民政党双方から閣僚が選出されたが、政友会は議会第一党でありながら与党の地位を失うことになった。
 政党政治に復帰すれば軍部の抵抗を受け、安定した政権運営が出来ないとの判断だったが、政友会は総裁・鈴木喜三郎の下、政権獲得を諦めはしなかった。
 斎藤内閣が倒れ、岡田啓介内閣になると、政友会は野党宣言をするなどして明確に協力を拒否し、閣僚を出そうとはしなかった。このままでは岡田内閣は流産すると噂される中、政友会の大物・床次竹次郎が、党内の反対を押し切って逓信大臣に就任。山崎達之輔・内田信也も入閣を承諾した。他にも12人が脱党したため、政友会は彼らを除名した。更には政友会総裁として総理大臣も務めた高橋是清までも入閣してしまう。
 岡田内閣期において、政友会は徹底して内閣を攻撃し、先述したように便乗も躊躇わなかった。結果として岡田内閣は危機的状況に陥り、衆議院解散となったのだが、結果は惨敗である。
 各地で天皇機関説・国体明徴両問題で岡田内閣を批判する集会が開かれていたが、結局目に見える世論と、有権者の意識は必ずしも同一ではなかった。2月24日の朝日新聞は、政友会の敗因をこう分析する。

「……政友会が選挙戦に当って特に旗印とした国体明徴問題は国民の関心をひかなかったと共に、所謂美濃部問題以来政友会のとった国体明徴戦術はその動機に何等か不純なものを連想せしめ反感をのみ挑発していたことは所謂明徴派前代議士の多くが落選している事実からも想像できよう」                       山田邦紀『岡田啓介』より

 民衆もまた政党政治を倦んでいた。だがそれ以上に政党政治に何の期待もしていなかったのが、軍部の革新派青年将校たちだった。

目指すは天皇親政

 二・二六事件を起こす蹶起将校たちは、天皇機関説・国体明徴問題において岡田内閣に批判的だったが、だからといって政友会を応援しようとはしなかった。
 解散から投開票までの一ヶ月。将校たちにとって重要な問題は、相沢事件の公判であり、後には蹶起の準備に忙殺され、選挙など話題にも上らなかった。
 そもそも、青年将校たちは政党政治に何の期待もしていない。彼らが期待するのは天皇親政であり、皇軍たる自分たちがその先駆けになるのだという使命感が彼らを駆り立てていた。
 将校たちが蹶起を決断したのは2月10日(もしくは9日)とされている。以降は同志の説得にあたり、2月22日に歩兵第3連隊革新派将校の中心人物、安藤輝三大尉が蹶起に同意したことから蹶起準備が本格始動する。
 安藤が蹶起に同意したのは22日と、選挙の後であり、関連があるようにも見える。だが、将校たちを動かしたのは、常々言われてきた第1師団の満州移駐が近づいてきたためだった。
 北一輝・西田税の影響を受けた革新派将校の主力は、歩兵第1・第3連隊の将校であり、両連隊は第1師団に属していた。師団の満州移駐は既に内命が下っていたが、これが22日に正式に移駐が決定した。奇しくも安藤は決定が下される前の22日朝に蹶起に同意していたのだ。
 2月10日時点で蹶起を決意した将校たちが、「選挙の結果如何によっては中止」などと考えるとは思えない。相沢事件以来、「相沢中佐に続け」という機運が同志間で高まっており、西田にすら止められる状況ではなかった。
 2月12日に開かれた磯部浅一・村中孝次・安藤輝三・新井勲の四者会合においても、慎重派の安藤・新井から、「選挙を待っては?」などという言葉は出なかった。北一輝の「日本改造法案大綱」に基づけば、まず天皇の名の下に、戒厳令布告と3年間の憲法停止が、青年将校たちの望む未来像である。そこに政党が入る余地はなかった。

全てを策謀することは出来ない

 軍部と政友会という、大きなスケールで見れば、二・二六事件後に陸軍が発言力を強めたことから、「親軍的な政友会の惨敗を受け、状況を打破するために陸軍が青年将校を使嗾した」というストーリーが成り立つ。だが現実には、陸軍は統一された政治勢力ではなく、統一された政治思想・意識などは持ち合わせていなかった。
 将軍連、幕僚級、青年将校。それぞれに思想の違いがあり、しかも同階級の中で更に相違があった。これらの違いは皇道派・統制派で括られるが、実際は個々の思想が互いにシンパシーを感じている程度の感覚だった。遠大な策謀を練るには、強固な組織力が必要だが、当時の陸軍中央にはそれがない。二・二六事件前後の動きをコントロールすることは不可能である。
 かくいう筆者も、選挙の直後に二・二六事件が起きたことを知り、陸軍の遠大な謀略を疑ったことがある。だがそのような考えは、蹶起将校たちを細かく調べていく過程で霧散していった。
 恐らく、蹶起将校たちは選挙で政友会が勝ったとしても、蹶起しただろう。かつて五・一五事件を起こした古賀清志・三上卓ら海軍革新派将校たちは、犬養毅が統帥権干犯問題で政友会を率いて浜口雄幸内閣を攻撃するなど、親軍的な運動をしていたにも関わらず、「政府の長」であるがゆえに殺害した。仮に政友会が勝利し、26日段階で岡田内閣が総辞職して別の者が総理になっていたとしても、その新たな総理が殺害されていただろう。
 建設案を持たない彼らにとって、まず破壊することが重要であり、如何なる内閣であろうと破壊していた公算が高い。


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