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二・二六事件私的備忘録(十五)「内閣官房の二・二六」

事件発生

 昭和11年時の首相官邸敷地内は、表門は官邸、裏門は公邸に面していた。
 この裏門前には、内閣書記官長公邸はじめ、首相秘書官や内閣書記官の官舎が拡がっている。
 総理大臣・岡田啓介の女婿で首相秘書官であった迫水久常の官舎はちょうど裏門の正面にあり、二・二六事件時には裏門に突入する襲撃隊の姿を目撃した。
 この迫水の官舎の隣に、内閣官房総務課長・横溝光暉の官舎があった。
 横溝は田中義一の時代から内閣官房に勤めるベテランであり、五・一五事件も経験している。こうした場合、何をなすべきか知っていた。だが、官邸周辺は襲撃部隊に占拠されて身動きが取れない。そこで会計課長兼総務課員であった稲田周一書記官にただちに出勤するよう指示した。
 ここで資料を見ながら疑問に思うことがあった。迫水の回顧録『機関銃下の首相官邸』には襲撃時の公邸見取り図が載っているが、合わせて周辺の家が誰の官舎かも載っていた。そこに「稲田書記官」の官舎があったのだ。官邸周辺は動きがとれないとして、横溝は稲田を先に出勤させたが、稲田もまた官邸周辺に官舎があるではないか。
 稲田の伝記となる岸田英夫の『天皇と侍従長』には、稲田は「家」で横溝から連絡を受けたとある。そして当日は稲田の誕生日だった。官舎はあったが住んでいなかったのか、家族とは別居していて誕生日ゆえにたまたま家に帰っていたのかは定かでないが、ともかく稲田は事件発生時、官舎にはいなかった。
 内閣官房総務課の庁舎は宮城大手門内にあったが、稲田は大手門から入れなかった。門前を警備する守衛隊が通さなかったのだ。仕方なく迂回して坂下門に向かい、粘りに粘ってようやく通してもらった。
 無事、内閣官房総務課に到着した稲田は、なんとか出勤できた書記官たちと共に、他の閣僚の安否を確認し、参内を要請する。
 宮城は混乱していた。特に守衛隊は、門によっては人の出入りすら規制していたが、それは全門で徹底していたわけではない。稲田などはどうにか通れているが、拓務大臣・児玉秀雄などは坂下門で入門を拒否されている。当時守衛隊にどのような指示が出ていたかは定かではない。ちなみに陸軍大臣・川島義之は、児玉より前に坂下門から入っている。
 その頃、横溝は首相公邸で総理の遺体を確認してきた迫水から、総理の生存を伝えられた。迫水は生存を伝えたかどうか覚えていなかったが、横溝ははっきり聞いたと語る。
 迫水が横溝を訪ねたのは、生存を伝えるためだけではない。こういう事態に際し、規定によって出される「臨時兼任内閣総理大臣(以後臨時兼任)」の辞令を、「内閣総理大臣臨時代理被仰付(以後臨時代理)」に変えてもらうためだ。

「臨時兼任」と「臨時代理」

 総理大臣が在任中に亡くなると、閣僚中宮中席次で最も上席の者に「臨時兼任」の辞令が下る。「兼任」という語の示す通り、その閣僚が臨時で総理大臣に就任するのが、「臨時兼任」である。大正10年の原敬総理暗殺、大正12年の加藤友三郎総理急死の際には、どちらの内閣でも外務大臣だった内田康哉が、「臨時兼任」によって総理となり、後継内閣組閣までその任にあった。五・一五事件でも、犬養毅内閣大蔵大臣だった高橋是清に「臨時兼任」の辞令が下っている。
 これに対して、「臨時代理」は文字通り「代理」である。今回の変事の場合、順当に行けば総理は死亡しているため、「臨時兼任」の辞令が出る。だが、知るのは数名のみとはいえ、実際には総理は生きている。このまま「臨時兼任」の辞令が下り、その後岡田の生存が明らかになっても、岡田は「総理ではない」ということになるのだ。
 そうなれば、天皇に拝謁することも難しくなる。岡田の心情を思えば、拝謁し事態を招いたことを謝罪したうえで責任をとりたいはず。迫水は何としても、岡田を総理のままにしておかねばならなかった。
 横溝は稲田に電話し、「臨時代理」の手続きを進めるよう指示した。横溝も稲田も五・一五事件の頃から内閣官房に勤めている。総理死亡の場合の手続きはどちらが正しいか熟知していた。横溝は稲田に「まだ死亡を確認していないから」と言って、「臨時代理」の手続きを始めさせた。
 また、迫水が無事宮城に入れる手配をするよう指示した。稲田は早速皇宮警手に手を回し、迫水は平川門から宮城に入った。そして宮内大臣・湯浅倉平に岡田の生存を伝えた。
 迫水の報告は湯浅から天皇へと伝えられる。内大臣・斎藤実が死に、侍従長・鈴木貫太郎も重傷を負う中、思いがけない岡田の生存は天皇を安堵させた。
 救出をしようにも迫水としてはやはり軍隊を頼るほかない。湯浅に近衛師団長・橋本虎之助中将の協力が得られないかと相談したが、湯浅は今宮中に集まっている将軍たちは誰がどこを向いているかわからないとして、首を横に振った。
 湯浅に会った後、宮中の片隅で考え込んでいた迫水を、稲田が見かける。
 稲田と迫水は同じ第一高等学校出身の先輩後輩の間柄である。その気安さもあいまって、稲田は暗に総理の安否を迫水に聞いた。だが、迫水は答えない。
 そこで稲田は、既に横溝から指示されていたものの、「臨時代理」と「臨時兼任」、どちらを出すべきか意見を求めた。これに対し迫水は、「僕には死んだと思われない」と応え、これで稲田は総理生存を確信した。
 稲田は「臨時代理」の手続きをとるための上奏文作成を課員に指示した。だが、担当の石井は眉をしかめ、これは違うと異議を唱えた。彼もまた、総理が亡くなっている場合の通例を熟知していた。
 これを稲田は「まだ死亡が確認されていない」「総務課長命令だ」として押し切った。
 午後3時ごろ、司法大臣・小原直が宮城に入り、閣僚全員が揃った。しかし、出来ることは多くない。まずは内務大臣・後藤文夫に対する総理大臣臨時代理の任命を上奏するだけだった。
 後藤の総理代理任命は午後6時に公示されたが、この時点で陸軍は何の公式発表もしていなかったため、午後8時の陸軍省が発表した事件概要と合わせて、後藤の総理代理任命が発表された。
 翌27日朝、新聞各紙が事件発生を報じる。この時点では総理大臣・岡田啓介、内大臣・斎藤実、陸軍教育総監・渡辺錠太郎の以上三名は即死、大蔵大臣・高橋是清、侍従長・鈴木貫太郎は重傷と報じられ、合わせて後藤文夫の総理代理任命が発表された。
 高橋是清が重傷というのは、株式市場を考慮してのことだった。ここで岡田即死が報じられたことで、内閣官房で騒動が起きる。
 総理即死の新聞を見た件の石井が、これを盾にただちに臨時兼任の辞令を出さねばならないと主張したのだ。
 まさか真実を言えるわけもなく、稲田は「自分に任せてくれ」と言うしかなかった。石井は「あなたには任せられない」と頑張った。
 法制度に関わる識者、特に内閣調査局の調査官や法制局の参事官からは、総理が死亡しているならこの辞令は誤りだと、訂正要求があった。これらをどのように説得し、どう引き下がったのかは定かではない。ともかく、辞令の間違いを指摘するだけで、そこから「実は総理が生きているのではないか」と考える識者はいなかった。
 だが稲田にしても、確信が持てていたのだろうか。横溝からは「まだ死亡が確認されていない」と聞き、迫水の「死んだとは思えない」という言葉から総理生存を確信したというものの、稲田にとってもこれは賭けだったように思える。
 26日中に、迫水は海軍大臣・大角岑生、司法大臣・小原直、鉄道大臣・内田信也に岡田の生存を伝えている。大角は海軍による岡田救出を依頼されて知ったのだが、「聞かなかったことにしておく」としてそっぽを向いた。小原・内田は、迫水が信頼できる人物として真実を明かし、岡田生存を知ったうえで閣議を運営してほしいと頼んだ。


参内か、謹慎か

 27日午後、岡田は救出された。総理の遺体とされた義弟・松尾伝蔵の遺体も搬出され、新宿角筈の岡田私邸に運ばれた。
 角筈から舞い戻った迫水は、湯浅宮相を通して救出成功を天皇に伝えた。そのまま閣僚たちのもとへ向かい、堂々と総理生存を報告する。当然、閣僚たちは一様に驚愕した。
 迫水はただちに岡田を参内させると主張した。まさか反対されるはずもないと思っていたが、意外にも反対の声が上がった。
 これほどの大事件を引き起こし、一度天皇に死亡したと報告したうえは、このまま辞表を奏呈し、謹慎するべきだというのだ。
 既に天皇は生存を知っており、救出されたこともお喜びになっている。生存を前提にしているからこそ、「臨時代理」任命なのだと主張しても、閣僚たちは納得しなかった。具体的に閣僚の誰が反対しているのかは定かではないが、当事者の迫水は後藤文夫が同意しなかったことをはっきり書いている。
 また、内閣法制局長官・吉田茂(後の総理大臣とは同姓同名の別人・内務官僚)は迫水に、「もし生存が知られて、叛乱軍がそれを追って宮中に銃口を向けたらどうするのか」と反対した。
 結局、27日中の参内は見合わせることになった。そして翌朝、吉田が岡田の潜伏先に行き、辞表の提出と謹慎を勧めた。
 だが、岡田はなんとしても今回の不祥事を直接天皇に謝罪したかった。岡田と共にいた秘書官・福田耕は、再三迫水に電話で催促し、岡田とも話させた。そこで岡田は、参内できないのならば、と自決を匂わすことを言った。
 なんとしても参内させねばならないと、迫水は参内を強行する。福田にはすぐ潜伏先から宮城に出立させる。内閣の長老、商工大臣・町田忠治に「参内させます」と告げると、元々賛成だった町田は頷いた。
 侍従次長・広幡忠隆も「それは結構」と同意した。ところが侍従武官長・本庄繁が、迫水に総理生存と参内を確認して武官室に取って返すや、広幡は武官室が参内を見合わせるように言ってきていると迫水に伝えた。ここで引き下がれない。迫水は「もう出てしまいました」と返し、広幡も「なら仕方ない」と平川門の皇宮警手に手を回した。本当はまだ引き返せたのである。だが、広幡は迫水の嘘に気づいていたと、迫水は読んでいた。
 こうして岡田は参内した。稲田もこれを出迎え、宮内省の舎人が岡田を見て逃げ出すと、「今見たことはまだ口外しないように」と口止めした。この他にも岡田を見て怯えた様子の舎人が大勢いたようである。
 岡田の拝謁を受けた天皇も歓び、「何分の命があるまで職務をとるように」と告げた。
 その後閣僚たちに会うと閣僚たちは皆泣き、岡田の手を取った。劇的なシーンだったと稲田は回想する。
 だが、直後の閣議はそうした感動とは対照的だった。天皇の「職務をとるように」との言葉は既に後藤が総理代理であるから、後藤が引き続き職務をとるべきではないかという意見が出てきた。一方では総理が生きていたのだから、総理代理は免ぜられるべきとの主張もある。当の岡田自身、謝罪して満足したのか、あとは謹慎してもよい心地だった。結局、「職務をとるように」というのが誰を指しているのか、再び天皇に確認する羽目になった。そして天皇は、岡田が政務を見よと明言したため、ここに総理大臣臨時代理・後藤文夫は免ぜられることになった。事件発生から3日目、辞令を受けて2日も経っていなかった。


無力だった内閣

 二・二六事件の最中における内閣は何をしていたのか、伝わることは少ない。その少ない情報が、事件時の内閣のすべてと見て差し支えないのかもしれない。事件時の関係各所の動向を網羅した岡田貞寛の『父と私の二・二六事件』も、内閣に関する記述は多くなかった。
 逓信大臣・望月圭介の伝記『望月圭介傳』(昭和20年出版)には次のことが記されている。

 二・二六事件の詳細な、そして歴史的批判の加はつた内容が明瞭になるのは恐らくずつと将来のことであらう。それが明瞭になつた日には當時閣僚の一人であつた君のとつたこの態度の細かいことも露呈されることであらう。

 「君(望月圭介のこと)のとつた行動」とは、宮城に入る際、叛乱軍の歩哨線で止められ、それを押し切って兵士たちを根負けさせたことである。皮肉にもそれから10年と経たずに二・二六事件に関する多くの書籍が世に出ることになった。だが、望月の件の詳細については、伝記に書かれた以上のことを見出すことは出来なかった。
 二・二六事件はわずか4日の激動だった。短いゆえに出来たことも少なかっただろうが、当事者の陸軍、宮中グループの動きなどに比べると、あまりにも動きが少ない。
 事件に際し、内閣は無力だった。また、事件時に出されたのが、憲法に規定されている「戒厳」ではなく、緊急勅令に基づく「行政戒厳」だったことに関しても、その違いを明確に認識していなかった。
 岡田生存を知らされた宮相・湯浅は、侍従次長・広幡、内大臣府秘書官長・木戸幸一ともその情報を共有していただろう。内大臣・斎藤実が亡くなり、侍従長・鈴木貫太郎が不在の中で、彼らは天皇側近として「叛乱軍」に断固たる姿勢をとり、天皇を支え、侍従武官長・本庄繁にすら岡田生存を伝えず、そして内閣にも伝えなかった。
 二・二六事件は4日、後藤臨時代理内閣は2日と経たずに終わったが、何もなせぬ内閣は蔑ろにされ、その余波は事件が終わってからも続いた。
 3月9日、岡田内閣は総辞職となり外務大臣だった広田弘毅が総理大臣となる。二・二六事件後とあって、誰も総理をやりたがらず、広田も最初は渋ったが、結局大命を受け入れた。
 だが、組閣の段階で陸軍から閣僚人事に口出しされるなど、その幸先は暗かった。

内閣官房

 事件に際し内閣官房は、「臨時代理」「臨時兼任」の件以外は、規定に則った対応をした。原敬の暗殺、加藤友三郎の急死、浜口雄幸の遭難、五・一五事件を経験したことが大きかったのだろう。こうした不祥事の際、すぐ閣僚たちが辞表を提出し、それを留め置くのは通例だったため、辞表文も内閣官房が用意している。辞表は定型文で、閣僚たちに違いはないのだが、結果、一番の当事者である陸軍大臣・川島義之の辞表文が他の閣僚と同じになってしまい、天皇に「川島は事態の重大性を理解していないのではないか」という不信を持たれてしまった。
「臨時代理」の辞令を巡って稲田に抗議した石井の行動は、規定では正しい行為だ。実際あの時点では、誰も岡田の死を疑っていなかった。岡田の生存を知り、石井が何を想ったかは、伝わっていない。
「臨時兼任」が出ていた場合どうなっていたか。恐らく大勢に影響はなかった。岡田は参内しないまま謹慎していたか、参内してもそのまま謹慎していただろう。だが、「臨時代理」の辞令が出たことによって、岡田は事件終結まで、総理大臣として責任を全うすることが出来た。
 身代わりとなった義弟・松尾伝蔵、迫水久常・福田耕ら秘書官、彼らと共に救出に協力した憲兵たちは、岡田の命を救った。内閣官房の横溝光暉と稲田周一は、規定に叛いて法制度上の総理大臣・岡田啓介を守り、その尊厳を守ったのである。


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