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二・二六事件私的備忘録(十四)「菅波三郎と蹶起将校」


『二・二六事件裁判記録』には、青年将校たちが如何に革新思想に目覚めたかが証言されている。そこで頻出する名が、青年将校・菅波三郎だ。北一輝よりその才を愛され、西田税・大岸頼好と並ぶ青年将校運動の先駆者であり、血盟団の井上日召、海軍側同志の藤井斉からも一目置かれた彼が、二・二六事件の青年将校にどれほど影響を与えているか、『裁判記録』から見ていこう。
 なお、衝動的に書いたため、証言の概要を羅列しただけの文章になったことをご容赦願いたい。

 村中孝次は菅波三郎とは陸軍士官学校第37期の同期生。原隊は旭川歩兵第26連隊。陸士本科卒業間際、菅波から北一輝の『日本改造法案大綱』を見せられ、国家改造思想に触れる。昭和4年12月より陸士予科生徒隊附となり上京。桜会の会合に出席するも、十月事件に関する計画(便宜上、十月事件のクーデター計画を十月計画と呼称する)のことはこの時点では知らなかった。
 昭和6年8月、菅波が鹿児島第45連隊から麻布歩兵第3連隊に転属。村中は菅波と再会し、彼を通して十月計画を知り、行動を共にする。

 磯部浅一は陸士38期。原隊は朝鮮大邱歩兵第80連隊。陸士在学中から菅波・村中と接触を持ち、国家改造を志している。この時点で磯部は北一輝とは接触を持たず、先に西田税と会っている。この頃の西田は、大川周明の世話になっており、彼と決別する前だった。
 昭和7年6月、東京で運動をすべく、主計科への転科を希望し、経理学校へ入学するため上京。菅波から『日本改造法案大綱』を手に入れ、以後北一輝の思想に傾倒する。

 栗原安秀は陸士41期。原隊は麻布歩兵第1連隊。誰の影響を受けたわけでもなく、独学で国家改造運動に興味を持ち、第3連隊の菅波がそうした思想の持主と知り接触。以降、菅波の指導を受け、運動に参加する。

 香田清貞は菅波と同じ陸士37期。原隊は麻布歩兵第1連隊。十月事件発覚前、歩一将校間で時局に関する研究会合があり、その席で同連隊の栗原が国家革新について話し、先輩将校に叱責された。これがきっかけで香田は栗原と話し、彼から菅波に会うことを薦められ、菅波と再会し、その思想に共鳴して運動に参加する。

 安藤輝三は陸士38期。原隊は麻布歩兵第3連隊。かねてから兵士たちと心通わせ、除隊後の部下たちの面倒を見、彼らの困窮を憂いていた。菅波が第3連隊に転属してくると、彼は安藤を見込み、最初の同志にする。安藤は菅波の薫陶によって革新思想に目覚めた。

 二・二六事件蹶起将校首魁の一人で、事件終息間際に自決した野中四郎。陸士36期で、原隊は宇都宮歩兵第66連隊。しかし任官後1年と経たず宇垣軍縮で連隊が廃止されたため、第3連隊に転属する。安藤と同じく菅波によって革新思想に目覚める。自決し、当人も普段から会合に出席することも稀だったため、革新思想に傾倒した過程は不明なれど、菅波が歩三内で同志を獲得する際には安藤と共に同席し、菅波が後輩に革新思想を啓蒙する際は、官舎の自室を会合場所として提供している。

 以上は二・二六事件蹶起将校と民間同志であり、自決した野中を除く全員が首魁として処刑されている。以下は、事件後軍を追われた彼らの同志将校で、菅波が関わった将校である。

 直前まで蹶起に反対し、計画から遠ざけられた新井勲。陸士43期で、原隊は麻布歩兵第3連隊。陸士卒業と菅波の第3連隊への転属は同時期で、野中の自室で開かれた会合において菅波を知り、革新思想に傾倒する。

 二・二六事件直前まで革新派の中枢にあり、事件の前年に転属で東京を離れた大蔵栄一。菅波・村中・香田と同じ陸士37期で、原隊は朝鮮羅南歩兵第73連隊。十月事件前後には戸山学校で教官をしており、そのとき桜会の会合に参加、十月計画に関与していく。会合の席で同期の菅波と再会し、彼の紹介で西田税と会う。その後の十月事件の発生、橋本欣五郎と西田税の対立を間近で見、結果として橋本一派への不信と西田の人柄に惹かれたことから、革新派に参加する。

 確認できた限り、菅波と出会ったことがトリガーとなっている青年将校は以上である。また、五・一五事件に関与した陸士生徒・後藤映範は、鹿児島で士官候補生だった時、菅波によって国家革新思想に目覚めたと証言している。また、菅波と同じ37期の同志に、朝山小二郎がいる。同期生というだけで菅波の影響と判断するのは軽率だが、村中・香田・大蔵の例がある。特に菅波・香田・大蔵・朝山は、陸士どころかその前も熊本陸軍幼年学校で同期だった。菅波の影響としても不思議ではない。他にも菅波の啓蒙で革新思想に目覚めた将校はいただろう。
 磯部を除けば、ほとんどは昭和6年、菅波の東京転属がきっかけとなっている。村中・栗原・香田・安藤・野中・新井は菅波経由で十月計画を知っている。新井と大蔵は橋本一派に反発して、菅波が幹部と組み打ったのを見ているが、他のメンバーも見ていただろう。
 菅波は十月事件に関与していたことと、その後の五・一五事件もあって、わずか一年で東京を離れることになった。
 以降、彼は東京に戻ることはなかった。西田と大岸頼好が『日本改造法案大綱』の解釈を巡って対立していた時も、彼は大陸にいて、ほとんど関わることはなかった。
 だが、彼の指導を受けた者たちが何をしたかは、言うまでもない。
 二・二六事件後、菅波三郎は拘束され、「叛乱者を利す」として禁固5年となり、軍を追われた。

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