見出し画像

二・二六事件私的備忘録(十一)「海軍大佐・佐藤正四郎と朱鞘の大刀」

 阿川弘之の『山本五十六』に次の記述がある。

 陸戦隊の指揮官は、井上と同じ同期の佐藤正四郎大佐で、佐藤は事件が収まるまで朱鞘の大刀を背負い、海軍を代表して東京で非常の活躍をし、山本五十六もこれをのちまで喜んでいたという。

 二・二六事件発生時、横須賀鎮守府が特別陸戦隊4個大隊約2千名を東京へ派遣した際の記述である。
 横須賀鎮守府参謀長・井上成美少将は、こうした事件が起きるのを警戒し、いざ変事が起きれば、すぐ陸戦隊を派遣できるよう、着任してから準備を整えていた。
 まず陸戦隊1個大隊を編成して顔合わせと訓練を行った。砲術学校からはいざというときすぐ海軍省へ急派して伝令や警備に当たれる掌砲兵20名を、即座に鎮守府に集まれるよう手配する。軽巡「那珂」の艦長にはいつでも芝浦へ急航できるよう研究を命じた。
 いざ事件が発生すると、井上はすぐ司令部に向かった。召集を受けた幕僚たちのうち、砲術参謀が東京へ偵察に向かい、予定通り砲術学校の掌砲兵20名の招集、陸戦隊の用意、軽巡「木曾」の出港準備と、矢継ぎ早に準備を整えた(当初予定していた「那珂」は出動中だったため「木曾」に変更)。
 だがここで、軍令部からの「待った」が掛かった。手続き上、横須賀が勝手に軍艦を出してはならぬというのだ。
 2月26日午前中の軍令部といえば、総長・伏見宮博恭が天皇に拝謁し、昭和維新の大詔渙発、すみやかな内閣の組織を進言して不興を買った頃だ。天皇の怒りを目の当たりにしたうえ、「海軍に問題はないか」とまで天皇に言われたため、伏見宮は前言を翻して「叛乱軍」の鎮圧に乗り出すことになった。
 横須賀に「待った」をかけた後、軍令部はただちに三つの大海令を発した。二つは、第一艦隊を東京湾、第二艦隊を大阪湾へ向かわせるもので、一つは横須賀の陸戦隊の東京派遣・海軍関係省庁の警備を命じるものだった。
 このとき、陸戦隊隊長に任じられたのが、井上とは海軍兵学校同期で、当時、横須賀にあった海軍砲術学校教頭・佐藤正四郎大佐だった。
 主題となるのは、この佐藤が背中に差していた、「朱鞘の大刀」である。
 筆者の知る限りでは、この大刀に触れているのは、阿川弘之の『山本五十六』だけだ。そして、特徴的なこの大刀の情報は、これだけである。
 4個大隊2千名の指揮官が自ら斬り込む武闘派なのかと思わせる「朱鞘の大刀」は、いったいどういう謂れを持つのか、気になって仕方がないので、その謂れを考察したい。なお、『山本五十六』の一文しかないため、全て憶測であることをご容赦願いたい。

伝来の刀?恩賜の刀?

 可能性の一つとして考えられるのは、「佐藤家伝来の大刀」である。
 佐藤は、山本五十六と同じ新潟県長岡の出身で、同じ長岡中学出だった。山本(当時はまだ高野姓)は武家の出で、佐藤も武家の出であったことは十分に考えられる。
 ただ、この可能性は低いと考えている。佐藤は陸戦隊指揮官になったが、元来は砲術の権威だった。常時、伝来の刀を持ち歩いているとも思えないのだ。
 次の仮説として考えたのが、「恩賜品」ではないかということだ。
 日本軍には、恩賜刀という軍刀が下賜されることがある。「朱鞘の大刀」もそれではないのか。
 ところが調べたところ、朱鞘の恩賜刀は無いようである。また、佐藤は兵学校時代、病気で留年していた。本来は井上の一期先輩なのだが、この留年で井上と同期になった経緯があり、しかも成績も下から数えた方が早く、到底恩賜品を下賜されるとは思えない。
 そもそも、「朱鞘の大刀」が軍刀なのかもわからない。「背負った」「大刀」から連想されるのは、「大太刀」だが、さすがに昭和の御代に大太刀を背負って戦場に行くなど、考えにくい。脇差が「小刀」と呼ばれるとき、長脇差は「大刀」と呼ばれる。恐らく「朱鞘の大刀」とは長脇差であろう。「背負った」のは、既に腰には軍刀か指揮刀を差していたからと考えられる。
 既に佐藤は軍刀・指揮刀を持っているとしたら、「朱鞘の大刀」は個人の持ち物ではない。そこで次の可能性は組織の所有物、つまり当時佐藤が所属していた海軍砲術学校伝来のものではないかということだ。

学校伝来の刀?

 そもそも佐藤は、最初から陸戦隊指揮官として派遣される予定だったのか。
 そうは思えない。井上は当初1個大隊を派遣する予定で、そのための部隊を編成していた。となると陸戦隊指揮官はその大隊の隊長ということになる。
 ところが、大海令によって、更に3個大隊を編成して送ることが命じられた。このために時間がかかり、陸戦隊の派遣は午後になってしまう。井上は残念がったが、叛乱軍は1500名もの大部隊である。しかも、陸軍がどう動くか、他に同調者が出るかを考えれば、軍令部としては4個大隊2千名でも不安だったろう。
 さて、命令によって4個大隊編成となった陸戦隊だが、これは陸軍の1個連隊に匹敵する。指揮官には当然、大佐級が求められた。しかも、天皇からは「指揮官は部下を十分握りえる人物を選任せよ」との注文まで受けていた。
 そうして選ばれたのが、佐藤だった。砲術学校教頭である佐藤は、砲術の権威である一方、幾度も砲術学校教官を務め、陸戦にも通じていた。恐らく指揮官人選は、鎮守府長官・米内光政、というより米内の信任を受けた井上が担当したのだろう。
 参謀には砲術学校教官・安田義達中佐がついた。安田は、後に「海軍歩兵大佐」と呼ばれ、沖縄戦時の海軍側指揮官・大田実中将と共に、海軍を代表する陸戦の権威者となるほどの人物だ。ちなみに、この頃大田実も中佐で、やはり砲術学校教官を務め、今回の編成においても1個大隊の指揮を委ねられている。こうして見ると、陸戦隊は砲術学校を中心に編成されたことが窺える。下士官・兵は海兵団中心、士官は砲術学校生徒、という編制だったのだろう。
 陸戦指揮の執れる高級将校はそう簡単に集められるものではない。そうなると、それを統括する指揮官も、相応の“格”が求められる。砲術学校教頭・佐藤正四郎が選ばれるのは当然だった。
 そうして出動に際し、佐藤に手向けとして贈られたのが、「朱鞘の大刀」ではないだろうか。
 陸戦隊2千名の指揮官が背負った朱鞘の大刀。実に象徴的である。これは、臨時編成の部隊にとっての「旗印」に比するものだ。であれば、それは中心となる砲術学校生徒にとってなじみ深いもののはずだ。
「朱鞘の大刀」は、砲術学校に伝わるもの。十分に考え得る。その由来も想像すると、砲術学校が創設された頃(当時は砲術練習所)の関係者縁の品、例えば初代所長・日高壮之丞の所有していた刀であるとか、陸戦も教える砲術学校ゆえに初期海軍陸戦隊縁の品だとか、可能性は広がる。
 手向けとして考えるのなら、鎮守府長官・米内光政が出発に当たって送った物ということもある。ただ、ならば砲術学校・鎮守府と関係ない人が手向けに送ったことも考えられるのだ。

結び

 ここまで憶測を並べたが、『山本五十六』にあった一文から推測するには、これが限界だった。ただ、筆者としては「海軍砲術学校縁の品」という仮説が、最も説得力があると考えている。
 今後、「朱鞘の大刀」について調べるのなら、海軍砲術学校と陸戦隊の線からあたるのがいいだろう。だが、そこに求める情報があるのか、確証はまったくない。
 「朱鞘の大刀」を調べることに、なにか歴史的意義があるわけではない。
 だが、その作業にこそ、歴史を調べる面白さがあり、その仮説が的外れであっても過程で得られる知識が決して無駄にならないのが、歴史の楽しさである。



よろしければサポートをお願い致します。いただいたサポートは、さらなる資料収集にあてさせていただきます。