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【‘‘AIと芸術性’’/朱墨の美学とミッドジャーニー考】

生成AIにおける、画像生成技術はますます進化しています。
ある動画を見てから、画像生成AIのミッドジャーニーというものを初めて知りました。

画像生成AIミッドジャーニーとは、テキストに適当な言葉を入力することで、描いてほしい画像を自動で生成してくれるAIのことを言います。
しかも、わずか数分で完成度の高い絵を簡単に描けるところが驚きであり、高性能な画像生成能力により、絵をなりわいとしている画家や漫画家、芸術家にとっては驚異的な存在とも思えます。
こうしたミッドジャーニーと呼ばれる画像生成AIは絵を描く人たちを凌駕しているのかということを考えてみると、決してそうではないと思えます。
AIと人が描くものの違いは何かということを考える上で、AIでも描けないものは必ずあるものだと感じています。
私が個人的に尊敬している、篠田桃紅先生の薄墨の芸術というのはミッドジャーニーでは描くことが出来ないものがあると思ったのは篠田先生の最後の遺作である著書を読ませて頂いたことでそう痛感させられました。

篠田先生の朱墨の美学による作品に対する向き合い方というのは、次の作品への誘いが今作っている時に湧いてくるもののようで、だからこそ新しいものを作り続けられるということを痛感させられました。
墨が滲んで広範囲に伸びたり縮んだりすることで、ふわっとした面と非常に対照的に幅のない全く幅というものがないきちっと終わっている線の動き方がそれぞれ違うところも彼女の作品の特徴でもあり、
現時点のAIをもってしてもそうした絵を描くことは難しいものだと思います。
表現というものは、複雑でいろんな方法があり、どれが正解で不正解でもないものだと考えられます。彼女の創作として、墨はさっと描かないとせっかく 頭に浮かんだものがどこかへ消えてしまうというところがあり、それが先生の絵の源泉であることを本書では述べられています。
絵の力はそれを描いた人の生涯がこもっているものであり、その人の長年の修練したものなどが込められているものであり、そうしたところもAIとの違いだと考えられます。
見る人によって、絵は何か特別な力となって、見ることでしか得られないものを与えているものがあると感じます。
薄墨の根源にあるもの、それこそが抽象であります。
抽象は心にしたい感覚や言葉になりにくいはっきりしない不完全なものであり、それを表現するのが抽象画であり、抽象画というものを一言で言い表すことはとても難しいことだと思います。
文学や映画、音楽とは別に、芸術は言葉に置き換えられないものであり、絵を通して表現の意図を語る役割があるものだと感じています。
芸術とは何かということは、私には到底分からないし、そもそも芸術とは分からないものだと考えています。
分からないことだらけだからこそ、面白味があるものですし、興味深いものがあると思います。
‘‘自然の持っている匂いみたいな影みたいなその何かを見える形にする生み出すそれがアート。’’
本書では篠田先生は芸術というものはそのようなものだということを解いています。
そうしたことは、まさに抽象だと考えられますし、抽象とは何かと、また別視点から角度を変えて思考してもやはり分からないものがあります。
芸術にはAIが越えられない壁のようなものも必ずあるものだとAIと芸術性から、そう考えさせられるものがありました。


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