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『思慮する読書』

-まえがき-読書三到の意義へ

本を読むことの本義について、これまであらゆる書物を読んできた中でも私にとって永遠のテーマでもあります。
何故、人は読書をするのか。
人は読書というものに何を求めているのか。
娯楽として楽しむ為や情報収集、学問を習得する為など目的は様々であります。
私にとっての読書というものの存在は両者の意味も含んでいます。
楽しみや学びによって、人間の心身性は大きく成長出来るものがあり、本を読むことによって人は何時からでも変われますし、成長することが出来るものだと私は考えています。
文学から人の様々な生き方を知り、自分の存在を俯瞰する。
私の読書の出発点は、まさに文学からでありました。文学から、本を読むことの楽しさを知り、同時に生きることの素晴らしさの意味を知りました。
色んなジャンルの書籍を読む中で、私が一番大切にしていることがあります。
それは、読書三到という教訓です。
読書三到とは、何か。
読書三到とは、宋代の朱熹が残した言葉であり、読書する上で内容を理解する為には、口到・眼到・心到の「三到」が必要だということを問いています。
 まず、口到とは声に出してはっきりと読むということ。眼到とは目で文字を把握するということ。
心到とは、文章の内容に集中するということです。
この教訓は、どのような書籍を読む場合においても必要不可欠なものだと私は考えています。
ちなみに、口到や眼到も大切な要素でありますが、心到がなければ本を読んでも内容を理解することが出来ないことは勿論、読むことの本来の意味から遠ざかってしまう恐れがあります。
読書は、書籍に記された言葉の意味を読むことで己が理解し、そこから新しい知見を深めることで、読むことで人は成長することが出来るものだと思っています。
本を読むことで、人はすぐに変わることは出来ないですし、容易く成長出来るわけではありません。
読書は、長い時間をかけてしっかりと読み込むことと、少しずつでも読んできた本の冊数を増やしていく中で、ある時自分が気付かない間に読書の素晴らしさを実感するものだろうと思います。
読書することは、自分の筋力を鍛えることに似ている要素があります。
毎日怠らずにしっかりとトレーニングすることで、努力が報われるものでありますし、一日で大量の本を読み込んだところで人はすぐにでも成長出来る生き物でもありません。
地道にコツコツと読むことの鍛練を継続していくことこそが最も大切なことのように思えます。
私自身も、読書の魅力にとりつかれた頃は、もっともっと数を読み込んでいかなければいけないと間違った思い込みを持っていました。
いくら、読了数を増やしたところで、本をしっかりと読み込んでいなければ、それはただ本に記された文字を眺めていたことにすぎないことだと気付いたことがありました。
読書は冊数を競うものではなく、自分にとっての心の指南となる本と出会い、ゆっくり向き合うことから私たちは始めなければいけないし、読書に対する考え方を一から見つめ直すことからリスタートしていくべきであり、読むことの本質に辿り着くまでに楽しさと学びの心を持ち続けることで読書から得たその先に進み続けることが出来ます。
私が読書三到の大切さを知るきっかけとなった本があります。
へルマン・ヘッセが記した『ヘッセの読書術』という本であります。

ヘッセの読書に対する精神的な向き合い方というのはとても学ぶべきことがありました。
読書三到に通じる、ヘッセの読書の考え方について特に感銘を受けた一文があるのでぜひとも引用したいと思います。

読書はほかのあらゆる娯楽と同じようなものである。

私たちが熱心に愛着を持って没頭すればするほど、それだけいっそうその愉しみは深まり、持続的なものとなるのである。

私たちは、友人や、愛する人とつきあうように書物とつきあい、どんな本でもそれがもつ性質のままに 尊重し、その本の持たない特性は何一つとしてその本に要求してはならない。

私たちは書物をのべつまくなしに見境なく読んだり、あまりにも性急に、次から次へと度を越した速さで読むのではなく、受容能力のある都合のよい時間にゆっくりと楽しんで読まなくてはならない。

そして私たちに特別にやさしい印象を与えて、親しみを感じさせてくれる言葉をもつ愛読書はいつも音読すべきであろう。

『ヘッセの読書術』へルマン・ヘッセ/フォルカー・ミヒェルス=編/岡田朝雄=訳/草思社文庫/【P.24~25より引用】

ヘッセの読書に対する考え方については、この一文に明確に示されていることが理解でき、同時に口到の大切さも説いています。
読書によって著者が記した文体に触れて、内心的な繋がりを通すことで、読み手は書き手の心身を作品から垣間見ること出来ます。
そして、ヘッセは自らの読書論から教養の定義について述べており、生きる能力と幸福になる能力を豊かにすることの大切さを考えています。
具体的には世界の文学作品を地道に読むことであり、文学作品の全体像としましては、思想・体験・象徴・想像の産物・理想像などが内包されており、文学を読むことで自分にとっての意味を与える助けとなるものがあり、どのような作品に触れなければいけないのかという答えはありません。
作品を読む上で、正攻法な読み方というものはありませんし、純粋に読書三到の教えに従いながら読み進めることしかないものだと私は思います。
ヘッセの記した『ヘッセの読書術』から付随して、『世界文学をどう読むか』という読書案内書も並行して読むと、ヘッセの文学観というものがより深く理解出来るものだと感じました。

文学に親しみ、精神的支柱をより強固にする為には文学を読むことの意味が求められます。
ヘッセの作品には、ヘッセ自身の感性が作品から表現されており、どの作品も胸を打たれるものがあり読み返したくなることがあります。
人生にとって文学は必要であるかという問題点に関して、私なりの考え方としましては文学は必要不可欠であると考えています。
心に寄り添ってくれる、温かさ、優しさなど、文学には文学でしか表現出来ない世界がありますし、映画や音楽に関しても、その世界でしか表現出来ない世界があるからこそ、私たちの人生を豊かにしてくれるものの存在に溢れているんだと思います。
読むものによっては、内容の理解が追い付かないものもありますが、そうしたものはまだ自分が読める段階に達していなかったんだと考えることがあります。
難しいものを読むことは、確かに苦痛でありますし、途中で読んでいても時間の無駄ではないかと思うこともあります。
私の場合は、読む本を変えて別の本に切り替えることもありますし、そのまま内容を理解していないのに読み通すこともあります。
ですが、そうした本はまた時間の取れた時にもう一度読み直す為に読み返す為の本のスペースとして自宅に置いています。
読書術というものについて、誰もが万人受けする特別な技術というものは存在しないというのが私なりの考え方であったりします。
読書三到は私にとって本を読むことの基点となる考え方であります。
活字に限らず、あらゆるものを読み解く上で、この教訓から活かしていくことが出来ます。



■1.自由の定義から考える読書

小さな本棚ひとつに収まる量の本さえあれば、心は満たされ、百冊あれば人生は豊かになれる。
数ある書籍を読み込み、自分にとっての正典となる本を選び出すことは難しいことではありません。
これまでに、たくさんの読書術に関する書籍を読んできた中でも自分にはない方法論を日々模索してきました。
速読や精読、積ん読のあり方、情報収集のコツなど、書籍から学び得たことはアウトプットさせて余計なものは削ぎ落として、自分にとっての一番ベストな読書のコツというものは何かを考えてきた中でも、とても良い本と巡り合うことが出来ました。
近藤康太郎さんが記されました読書の方法論をまとめた『百冊で耕す<自由に、なる>ための読書術』という本であります。

前述で記しました通り、本書では百冊読書家を目指すことが目的であり、自分にとって指南となる百冊を選別する為の読書の技法や読書に関する考え方が記されており、とても勉強になりました。
速読と精読の関係性では、‘‘静の時間’’というものをいかに創り出すのかということを前提に速読・遅読の技法はぜひとも試してみたいものがあり、私自身も知らないことがあったので、自分の読み方をもう一度見つめ直して取り入れていきたいと思いました。
そして、読書する以前に本を書店で買うことと、図書館で借りることについても言及されていて活用法などは興味深いものがありました。
積ん読に対する考え方は、人それぞれでありながら本書に記された‘‘理想的な積ん読’’と‘‘狂気の積ん読’’という項目も面白く読めましたし、そこから導かれた読書の実益、三大実益というものは百冊を耕すことへと考えに至った近藤さんだからこそ書ける新しい考え方だと納得させられました。
百冊を耕すという読書に関しての考え方は、近藤さんのオリジナリティであり、自分のスタイルを確立させるまでに至る上で大切なこと、オリジナルは憑依から生まれるということを述べていて、具体的に作家、批評家の小林秀雄のエピソードをもとにこう記しています。

小林秀雄は、作品だけでなく、書簡も創作ノートも全て読むのだと書いている。

そこまでせずとも、生前に、著者が作品として公表した文章をすべて読む。

それだけでもじゅうぶん、作家に取り憑かれる。文体に慣れ、考え方が似てくる。

生活態度もー食事に風呂に睡眠に、服装や異性の趣味さえー影響される。まねしたくなる。

そうやって、完全に影響下に置かれる。数年すると、卒業する。飽きたわけではない。別の、まねしたいような巨人に出会う。

ある作家や学者、批評家に憑依される。数年経って卒業し、また別の作家に憑依される。それを、ニ度、三度と繰り返す。

そうしてようやく、<自分>になれる。自分らしい、オリジナルな問題意識、考え方の癖、文体、つまり 生き方の<スタイル>ができあがる。

『百冊で耕す<自由に、なる>ための読書術』近藤康太郎/cccメディアハウス/【P.128より引用】

学ぶことはすなわち、真似ることから始まります。先人の知恵から学んだことを自分の中に取り入れて、オリジナルとして確立させることに意味があるものだと私は感じました。
オリジナリティというものを確立させる為には、あらゆるものを真似るところから始めることは勿論、本書のタイトルにもある通り、‘‘自由になること’’で制約から解放され、オリジナリティが確立されるものだと私は思いました。
大前提に、‘‘自由’’とは何か。自由についての定義に関しては、ある本をもとに引用したいと思います。

「自」という字に「由る」が、自由です。  私は自由です。自らに由って生きていますから。

  ー自由になるというのは、超越するというのとはちがいます。客観視することができる、ということです。

ー客観視は、すべてのことを一歩離れて、すこし高い所から見ること。

だから自分の位置を客観視するためにも、自由でなければならない。

なにかにとらわれていては、客観視はできない。

『百歳の力』篠田桃紅/集英社新書/【P.25~26より引用】

自由という言葉の本義についてや人生観の考え方では、篠田先生の言葉には深みがあるものだと言えます。
『百歳の力』やその他の著作であります『 一◯三歳になってわかったこと』とその続編であります『一◯三歳、ひとりで生きる作法』も一緒に読んでみると、篠田先生の魅力を十分に理解出来ると思います。
つまりは、真似ることから得たものに関しても、いつまでも真似たものにとらわれ続けてもいけないことが分かります。
自由になる自らの読書の方法論を手に入れる前に、客観視する為の力を育んでいかなければいけないものだと感じました。

百冊を耕すこと、自由になる為に必要なこと、読書から得られるものは無限大でありますし、その可能性もまた無限大であるということが言えます。
百冊から得たものから、どのような世界を創るのかは自分次第であることを本書から学びました。



■2.詩と文学、美術との調和

詩というものに触れる度、詩は文学よりも難解であり、私の中では詩というものは感性によって描かれた特別な世界のようなものだと感じています。
難しくてよく分からない世界だからこそ、魅力があり、惹かれるものがあります。
ある時、私はある作品に出会いました。詩と小説のハイブリッドである新なジャンル、‘‘ヴァース・ノベル’’と呼ばれるもので、ノーベル文学賞の候補としても挙げられる、アン・カーソンの『赤の自伝』という作品です。

『赤の自伝』は私自身、未だかつて読んだことがなかった作品であり、文体や形式、作品に見られる特性などはかなり難解であるという印象を受けました。
アン・カーソンの作品のタイトルにある『赤の自伝』の‘‘赤’’というものの意味を読みながら、あることを考えていました。
私なりの読了後の感想としては、赤という色彩を捉える場合、作品の解釈に沿った基調は読み手によって色彩は異なるものになるのではないかと思いました。
例えば、有色残像の定義に従えば、赤は緑にも見える理論として考えるなら裏付けられるのではないかと考えられます。
『赤の自伝』という作品は、ゲリュオンとヘラクレス二人の青年の同性愛を現代へ再生させ描いた物語であり前衛的な物語だということが言えます。
本作は、詩と文学の特性を持ちながら、読み手の心へ訴えかけるものがあると感じました。
私にとって、文学と詩の関係性を読み解くことは大きな課題であり、文学や小説を読む場合、書き手は主人公や登場人物たちに説得力を持たせることで、読み手は自分の経験と照らし合わせる読み方をすることで、物語の人物たちに共感することがあります。
一方、詩を読む時、詩はどのような読み方をすればいいのか分からないものがありますし、正しい詩の読み方があるのかも分かっていません。
ですが、詩を読むことで分かることもあります。
詩は決して、言葉では表現出来ない価値が内在されているものがあり、詩情を通して私たちは情感を味わうことが出来るということです。
詩の概念、意味について学ぶ上で、オウエン・バーフィールドが記した『詩の言葉ー意味の研究ー』という書籍はとても参考になる一冊であります。

本書では、詩的要素に省察を加えたり、言語的性質、詩人の審美眼、内的経験によって生み出された想像力など、詩への意味への認識から理解へと展開され、極めて素晴らしい論考であります。
詩語の意味を知る上では、詩の意味について自らが触れなければいけない。
文学として機能される以前の言葉と詩の間には、様々な言語的、詩語的な理論が内在されている。共通性のある観念や意義が結合され、そして調和する。
調和というものについて、歌人として評価の高い、会津八一の短歌にも言えることがあります。
彼は、美術史家や書家としての才能もあり、自作の『自註鹿鳴集』という作品集を読むと学術的な性格が反映されていることが分かります。

作品の特性として、美術と学問が短歌と調和されており『赤の自伝』と比較すると、共通性があり興味深いことが分かりました。
『自註鹿鳴集』では、会津八一は自らの詩を注解している形式をとっていることは、かなり珍しいものがあり、‘‘自註’’という方式をとっていながら、自作では学術的性格によるものしか情感が浮き彫りになっていないという感覚を覚えました。
一方の『赤の自伝』における、‘‘自伝’’という言葉が使われながらアン・カーソン自身の自伝ではなく、お互いに独自性のある作品だと感じました。
『赤の自伝』では、詩と文学。『自註鹿鳴集』では、詩と美術。
詩は、あらゆるものと調和する力があり、詩は様々な形へと変容し表現されるものだと思いました。



■3.時間投資思考という概念

時間というものの概念について興味が湧いてから、しばらくの間、調べ続けていたことがありました。
私たちの日常において、時間は密接な関係性があることは事実であります。
時間を早めたり、遅くしたりすることは物理的に不可能な実体こそが時間です。感覚として、時間が長く感じたり、早く感じたりということは度々あります。
そうした中でも、時間の概念を知ることは面白い発見があるものだと思いました。
私がこれまでに時間についてまとめた記事ですと、【‘‘知力を磨く’’】や【‘‘新・時間術’’概論】に詳しく記しているので、ぜひ参考に読んで頂けると嬉しいです。

私が前述に記したもので、時間の共通認識として捉えてもらいたいところというのは、従来のタイムマネジメントやライフハックと呼ばれるものは生産性を落としてしまう恐れがあるということです。
では、改めて時間とは何なのかという疑問を考える上で参考になった一冊があるので、ぜひとも紹介したいと思います。
ロリー・バーデンが記した『時間投資思考』という本です。

『時間投資思考』の中で、マルチプライアーと呼ばれる人たちが紹介されます。
マルチプライアーとは、バランスの取れた人々という意味であり、そして本書で最も重要事項というのは‘‘収穫期’’というものであります。
収穫期とは、一つの優先目標に絞って能力や資金、時間、エネルギーを短期間集中することです。
バランスの取れた行動は、成果に結び付かないことがあります。
短期集中では、普段の2倍で活動して、あとでゆっくり自由な時間を過ごすという考え方が軸としてあり、能力というものは関係がないことが言えます。
必要なものは、‘‘効力’’というものにあります。
効力とは、意図した結果を生み出すことのできる性質という定義であり、望む結果を生み出さなければ成果とは呼べないものがあります。
こうした『時間投資思考』における考え方を通して、私たちは時間をマネジメントすることは不可能であり、そもそもタイムマネジメントという概念は存在しないものだと理解できます。
だが、タイムマネジメントとは別にセルフマネジメント(自己管理)の概念は存在します。
例えば、ToDoリストを作成し、物事の優先順位をつけて行動する方式は自己管理によるものです。
『時間投資思考』では、緊急性としてはどのように物事を処理する必要があるのか、重要性としてはどの程度重要なのかが問われます。
二つの考え方から、ある要素が浮かび上がってきて、それこそが三次元思考である‘‘シグニフィカンス’’(将来的意義)であります。
シグニフィカンスは、将来的な成功へと結びつけることが出来るメリットがあります。
ここで、シグニフィカンスと相乗効果を生む概念、それは時間の‘‘マルチプライ’’(増殖)です。
シグニフィカンスを考慮に入れることにより、必要事項のみに集中することで時間に余裕が生まれ、その余った時間を次の優先事項へと時間を投資することでより良いサイクルへと循環していきます。
本書で取り上げられているフォーカス・ファネルのメソッドは即効性があり、実用性のある優れたメソッドであることは明らかでありました。
これまでの時間に対する意識の捉え方というのは消費的でありましたが『時間投資思考』を読んでから、時間は自分の成果へと直結に繋げる為、投資していかなければいけないものだと痛感させられました。



■4.徒然なる兼好法師論

兼好法師を語るにあたり、自作の『徒然草』を読み解くことから始める必要があると思われます。
『徒然草』には、作者自身の趣味や人生観などが反映されており、兼好法師の思想には仏教的な無常観というものが根底にあるものだと言えます。
無常観を通して、時代ごとに『徒然草』や兼好法師についての解釈や評価は異なるものであり、肯定的でもあり、否定的な意見もあります。
そうした理由として考えられるのは、彼の随筆にみる共感性に合致するか、しないかという問題であるのでないかと感じました。
兼好法師の『徒然草』の序段は、誰もが聞き覚えのあるフレーズでありますが、彼が記した一文からは彼の心情は赤裸々に語られるものがあります。

【序段】
つれづれなるままに、
日くらし硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。

心に浮かぶとりとめないことをあれこれと書き連ねることに対して、苦しい気持ちになってしまうということを感情的に言語化し吐露しています。
随筆と呼ぶべきものは、本来心に浮かんだことや見聞きしたものについてのことを指す言葉ではありますが、兼好法師は『徒然草』の書き出しから既に文体は確立されており書き連ねていく度に自身の思索や体験は融和され、読み手を魅了するものがあると感じます。
兼好法師が『徒然草』という作品を通して、様々な時代に生きる読者の私たちの心を鷲掴みする力は何なのかということを改めて考えていました。
それは、随筆=エッセイが持つ形式や特質だと思います。
エッセイは、自分が体験したエピソードを話したり、虚構を交えたりしながら話すことで、自分を俯瞰することが出来ます。
俯瞰することによって、何を知り、何を得られるのか。
それは、俯瞰的に人生の振り返りが出来ることによって、自分を見つめ直すことが出来るということであります。
『徒然草』は兼好法師という一人の人間が体験した人生録であり、兼好法師自身であるという考えが導かれます。
自分がこれまでに歩んできた人生を自らが語るという行為はとても難しいことであると思います。
第三者を介して、私という人間の生きざまを語ってもらうことに関しては恥ずかしさはあるものの難しいことではないように感じます。
『徒然草』を読み直すにあたり、私はマンガ版を参考にしました。

序段と二四三段の形式である『徒然草』は、作者の長谷川先生が描く筆致により、古典文学に苦手意識がある方々にも読みやすく描かれているものだと見受けられました。
原作から読み進めることは古典に慣れ親しむ上で王道なのかも知れませんが、私はマンガから古典作品の全体像としての概要を知ってから理解を深め、楽しみ学ぶことが大切なのではないかと思います。
無常観を描いた古典文学では『平家物語』や『方丈記』が挙げられますが、『方丈記』は私自身もお気に入りの作品であり年に数回は読み直す愛読書の一つでもあります。
『方丈記』については、【『方丈記』の魅力について】と題してまとめ記した過去の記事があるので、そちらも参考に読んで頂けると嬉しいです。

『方丈記』と『徒然草』に見られる共通性は、無常観であることが言えます。
移り変わりゆく時世、この先の未来について兼好法師や鴨長明は既に悟っていて、作品から自らの意思を読み手に伝えたかったのではないかと思いました。
小説や文学から窺える、私小説的なリアリズムとはまた違ったもののように感じます。
体験の抽出度によって、作品の価値というものは大きく変わってくるものだと思います。
抽出度が高ければ、高いほど物語性は濃くなり、同時にその作品で描かれる人物たちに共感を覚えるか、批判的な印象を受けるのかという二面性が浮かび上がってくるものだと感じます。
文学と随筆にはやはり、異なる特質というものがあり、読む場合も、書く場合も、求めるべきものが自ずと変わってくるのではないかと考えられます。
『徒然草』から、兼好法師という人物がどのような思想を持って生きてきたのかということは読み手の判断に委ねられるものだと思います。
出版社別に刊行されているものを読み比べて、そこから感じた相違点などをまとめて考えてみれば、また新しい発見があるのではないかと感じます。
論じるにあたり『マンガ古典文学 徒然草』をテキストとしまして、『徒然草』から兼好法師論を徒然なるままに書き記し、ここで筆を擱くこととします。



■5.心の旅路から見えるもの

読書は私にとって、書くことと同じく生きがいであり、本の魅力というのは一言では言い表せないものがあります。
辛いときや悲しいことがあっても、本を読むことで現実から逃避することができ、現実から遠ざかれる安全で静かな居場所へと行き、疲れきってしまった心を癒すことは読書の魅力の一つでもあります。
『草子ブックガイド』という漫画は、本好きな人たちにとって誰もが共感を抱く素敵な物語です。

読書好きで文学少女である内海草子を通して、青永遠屋という古本屋を舞台に、草子は無断で本を持ち帰り、その本の感想を記したメモを挟み本棚に返すということを繰り返しています。
店主は草子の感想文を気に入っており、青永遠屋という場所が草子にとっての心の居場所でもあります。
作中における草子自身、本はかけがえのないものだと分かるシーンはとても印象的であったので、ぜひとも引用したいと思います。

生きてる本の中でならあたしは……
誰とでも会える…
生きてる本の中でならあたしはー
どこにでも行ける

『草子ブックガイド 1』/玉川重機/講談社【P.25より引用】

店長の目と心で選び抜かれた本は、草子にとって息をしているかのように、全部の本が生きていると信じています。
そして、店長は草子が持ち帰った本に挟まれた感想文を読むことが楽しみであり、お互いに本を通しての絆がそこで繋がれていることが理解出来ます。
一冊一冊の本に対して、草子は丁寧に読み解いていきます。
本を読むことで、その本を書いた人の心を感じ取ること、それこそが草子にとっての本の旅であるということが分かります。
『草子ブックガイド』において、草子が西行の『山家集』を読むところで、私にとってのお気に入りのシーンがあります。

誰かの心にさわれる
「本の道」を歩くと
私は誰かを信じられる
気持ちになれる時があります
だから私はー
この道を
旅できるだけで
十分だと思っています
人の心があふれてる
この道で私もー
一番いい形の「心」を
自分の中に
見つけたいー

『草子ブックガイド 1』/玉川重機/講談社【P.206~207より引用】

本を読むことは、心の旅路であるということを実感した一文でありました。
読者である私たちは、書き手の心へ入る手段として、その人が書いたものを読むという行為により、心に寄り添うことが出来るものだと感じます。
草子は様々な人たちと本との出会いの中で成長していきます。
自分にとっての一番いい形の心というものは、自分でしか探し出すことが出来ません。
『草子ブックガイド』から、読書の楽しさ、意義を改めて再確認させられた良い読書体験でありました。



■6.戦争構造学からみる『地図と拳』

地図というものは、太古から存在していました。
狩人が獲物を捕らえ、数日後にも同じ場所で獲物を見つけてから、狩人はその場所が猟場として良いところであるということを知りました。
猟場としての位置や情報を書き込んだもの、それこそが地図の始まりだということを本作から学びました。
時代が経つにつれて、国家は形成され、地図の情報網は広範囲になっていき、地図は世界を示す重要な役割へと変わっていきました。
『地図と拳』という作品から読み取ることが出来るのは、人類の歴史の歩みと共に過去、現在、未来へのあり方までも考えさせられるエンターテイメント小説としても楽しめました。
物語の舞台は、満州を通して軍事的な地図を作るために潜入工作をした細川と高木、青龍島という島が本当に実在するのかという調査を依頼された須野らによって話は進んでいく。

物語の鍵を握る地図とはなんなのか、そして‘‘地図と拳’’に込められた意味を巡り、歴史小説としてまたは冒険小説としても読めるものもあり、読み進めるつれてよりディープな世界へと引き込まれていく魅力は稀有な読書体験でありました。
本作で描かれる戦争構造学と呼ばれる学問については考えさせられるものがあり、特に気になった箇所で戦争構造学について、詳しく解説しているので引用したいと思います。

戦争構造学とは、地図と拳の両面から、日本の未来を、そして人類の未来を考える学問です。

戦争構造学とは、地理学、政治学、歴史学、軍事学、 物理学、人類学などを含む、領域を横断した学問です。

『地図と拳』小川哲/集英社/【P.342より引用】

戦争構造学については、『地図と拳』を描くにあたり生み出された新しい概念であることが理解出来ます。
地図から派生した国家形成のあり方から、法や理想、理念、歴史的文化的な特性があることが考えられます。そして、作中において地図を作成することと空間を設計する建築には共通性が窺えられ、論理的にまた新たな解釈として加えることも可能だということが分かりました。
地図や建造物から感じ取れるものとは、過去と現在へと繋ぐ歴史的背景を物語ることが出来るところにあります。
世界から‘‘拳’’がなくならない答えは地図にあるという問題点についても納得させられるものがありました。
『地図と拳』の作品構造について言えば、虚構と現実が入り交じる中で、都市国家や理想郷のあり方などに関しても考えさせられるものがありました。
『地図と拳』にて考察する上で、当時の時代性や社会的状況に生きる人々の思考や心理、行動様式についてはセンシティブに捉えてしまう可能性があるものの、膨大な参考文献によって紡ぎだされた大作から、‘‘地図’’や‘‘戦争’’の意味を知ることができ、戦争文学としての新たな世界を『地図と拳』は切り開いてくれた素晴らしい作品であることを実感させられる力強さがありました。



■7.芸術的美学考ー民藝から陶説までー

柳宗悦は、文学や芸術、神秘主義、西洋哲学、仏教思想などを踏まえて民藝=民衆的工芸と呼ばれる西洋美学を対象化させた美の思想を形として残しました。
民藝の在り方において、宗悦は芸術活動の過程で人の身体に神が宿るという心理を探求していました。
こうした心理というのは、単に民藝が内在する美の発見だけではなく、文明論にまで範囲が及び、思想的な根幹を明らかにしようとまでした人物でもありました。
宗悦が記した著作として挙げられるものであれば、『工藝文化』『民藝四十年』『柳宗悦茶道論集』など、私が持っているテキストとしましては以下の三冊があります。

宗悦が提唱した民藝には概念が発見され、民藝運動が始まるまでに宗悦が影響を受けた詩人ホイットマンやブレイク、前述でも記した文学、芸術、哲学の領域にまで遡ることが出来るものだと自著や研究書から窺えました。
宗悦が追い求めて、導かれた美の思想の終局というものは一体何なのかということを考えていました。
考えるにあたり、私は柳宗悦の思想に迫った研究書を調べていくうちに、ある本と出会いました。
松竹洸哉さんが記されました『柳宗悦 「無対辞」の思想』という本であります。

美学的思想というものは、元は抽象的概念によるものだと位置付けられます。
ですが、宗悦が提唱した民藝は具象であり、抽象から具象へと思想を民藝へと形作った業績はまさに発明であったと言えます。
こうした宗悦の理論と実践には、工藝美や美学と工藝の関係性、宗悦が歩んできた民藝の歴史、茶道の在り方など、独自の陶説は体系的に結び付くものがあります。
人の身体に神が宿るとされる思想、この無対辞は宗悦に相応しい言葉であり、彼の思想は芸術、美学すらも超越したと言っても過言ではありません。
あらゆる論考は一つにまとまり、論理的にまとめ述べられます。
美食家であり、かつ陶芸の分野にも精通していた北大路魯山人が記した自著に『魯山人陶説』と呼ばれる本があります。

魯山人が提唱する陶説には、美的価値、思想的な芸術陶器としての両面があることを説いており、魯山人は‘‘食器は料理のきもの’’という言葉を残していて、美食以前に陶器に対する熱い思いが込められています。
魯山人は陶芸を鑑賞する際、自身の美的鑑賞法を述べていて、芸術作品を鑑賞する上で大切なことは、美術眼を高め、自然美に親しむことが重要だという考えを持っています。
そうした鑑賞眼を持つまでに至った魯山人の根幹には美食を求めていたからこその長い道のりがあったことが考えられます。
そして、陶芸から派生して同じく陶芸の世界にはある名人職人がいました。
それこそが、加藤唐九郎という人物です。
彼は、桃山風の志野茶碗の再現として志野茶碗の‘‘氷柱’’という作品を製作し、その作品が評価され個人作家としてデビューします。
だが、実際に陶芸家として地位を確立したのは戦後のことであり、それまでには長い道のりがありました。
作品が世に認められた要因としましては、唐九朗自身の個性が目覚めたからであると考えられます。
加藤唐九郎の自伝でもある『自伝 土と炎の迷路』の中で、職人と芸術家の定義、精神の解放は作品の完成度を高めるものだと述べています。

魯山人や唐九郎、そして宗悦の人生を通して、彼らは美や芸術から何を追い求め、どこまでたどり着いたのか、そういった芸術の本質に終わりはなく、あらゆる著作に触れることによって芸術の持つ力というものは想像以上の可能性があるもので、今の私が持つ言葉では語れないものがあると痛感させられました。
残された芸術作品から、私たちはその方の人生を知ることで、未だ到達したことがない美の概念の向こう側から新たな世界へと飛翔する。



■8.鎮魂歌ー珠玉の運命ー

音楽と文学の調和により、未だかつて見たことがない世界は広がっていく。
音楽を奏でる意味、音楽には生きていく為の希望さえもあり、人生を照らし出す灯りのような存在でもあります。
音楽には、音を通じて思想を表現することであり、音によって感情を表示することが可能であることも音楽が持つ力だとも呼べます。
高野麻衣さんが描いた作品『F ショパンとリスト』には特別な魅力があります。

物語は、十九世紀のパリを舞台に、二人の天才音楽家であるフレデリク・ショパン、フランツ・リストが、お互いの才能に惹かれながらも、共に音楽の革命を起こすまでを描いた作品です。
作中において、フレデリク・ショパンがピアノに向かうシーンで音楽に対する思いが表れたシーンで気に入っている箇所があるので、ぜひ引用したいと思います。

音は、空気の振動でしかないけれど、言葉を凌駕する存在であり、純粋で、美しい。

人は、言葉を頭で理解しようと、千差万別なイメージを膨らませるけれど、音は皮膚や感情、さまざまなものに直接作用する。

音は、絶対なのだ。

『F ショパンとリスト』高野麻衣/集英社文庫/
【P.79より引用】

言語を通して、人は対象的に言葉の意味を汲み取り、理解する特性がある生き物であります。
言葉で表現出来ないものも、音ならば表現出来ることというのは、音楽にでしか表現出来ない特別な力であることが裏付けられます。
思考する以前に、言葉ではなく音というものが受容され、音はまた自分の中で変容されます。
創成され、音楽として奏でられ、私たちに感動を与えてくれるもの、それこそが音楽の魅力だということを痛感させられました。
ショパンは、リストに作中で書簡を通して、音楽に込めた自分の思いを語っています。

俺は、音楽という使命にすべてを捧げた。

名前など、忘れ去られてもかまわない。

ただ俺の音楽が、誰かの心を震わせ、彼ら自身の新たな物語となって生き続けてくれるなら、それだけでいい。

俺はずっと自由にー音楽そのものになりたかったのだから。

『F ショパンとリスト』高野麻衣/集英社文庫/
【P.202より引用】

ショパンのレクイエムは、後世の音楽家たちに多大な影響を与えたことはもちろん、音楽に人生の全てを捧げた一人の男、リストとの交流を描いた素晴らしき物語に出会えたことはこの上ない喜びと、幸せな時間でありました。



■9.小さき者へ・生れ出づる悩みについて

結核で亡くなってしまった妻の思い、そして私たち親子の愛を手記という形で我が子に託す「小さき者へ」は有島自身の子に対する父性愛というものがより鮮明に描かれています。
「小さき者へ」に描かれる愛情について愛情というものは好きよりも深い意味合いがあり、愛情の対象は恋人、家族などの特定の相手に向けられる言葉であり、父である私は手記を通して我が子に愛情表現を示しています。
何故、手記という形をとったのか、それは有島本人の作家性の反映であり、残された子がゆくゆくは成長して大人になり、私と妻の思いの真意を汲みとってほしいという願いを込めたものが作中から窺えました。
小さき者とは、今の我が子に宛てたものであり、未来に生きる我が子と私は手記を通して対話することを心から望んでいるという気持ちが感じられました。
いづれ、私はこの世を去ることを予期している。
私の肉体は失っても、私の意思は手記に宿り、君たちをこれからも見守り続けていく。
「小さき者へ」は有島の精神性が色濃く表れた作品であり、私の意思をどうか引き継いでほしいというような有島の心の声が本作から感じられました。


「生まれ出づる悩み」は「小さき者へ」における有島の心身性が作品と一体化したものだと言っても過言ではない感覚を覚えました。
物語は、仕事を捨て文学者になり、思うように創作活動が出来ずに悩む私のもとに、ある日スケッチ帖と手紙が届くところから始まります。
十年前に私が札幌に住んでいた時に絵を見せに来た少年であった君からでした。
私は君に会いたいという思いを伝えて、再会を果たすこととなります。
そして、君は逞しい青年となり、故郷で漁夫として働いていたことを私は知りました。
スケッチ帳は仕事の合間に描いたものであり、絵を描きたくても時間がなく、漁夫の仕事を諦めてまで自分に絵の才能があるのかも分からずに君は苦悩しています。
私は君が漁夫として働くのか、芸術家として働いたらいいのかという問題については‘‘僕は知らない’’と言い、君と同じ悩みを持って苦しんでいる人々の上に‘‘最上の道が開けよかしと祈るものだ’’と言って共感を示しています。
人生における最良の道というのは、自分でも分からないし、他者にとってはより分からないものがあると思います。
読み手である、私も君の気持ちに共感するものがありました。
「生まれ出づる悩み」は、人間である私たちにとって形や大きさによるものはそれぞれ違うが、悩みがあるからこそ、日々精進していけるものだということを実感しました。




■10.『もうすぐ二〇歳』における、青春がもたらすもの

青春について、アラン・マバンクが記した『もうすぐ二〇歳』という小説はその意味を問う物語でありました。
コンゴ共和国の大都市である、ポワント=ノワールで生まれ育ったミシェル少年はランボーの『地獄の季節』を愛読し、ブラッサンスを愛聴しており、ホテルの受付主任ロジェの第二夫人のママン・ポリヌの連れ子であります。
そして、同級生にガールフレンドのカロリヌという少女がいます。
彼が生きる時代は、1970年代の終わり頃であり、ソ連崩壊になる混沌とした一時期でもありました。
マルクス・レーニン主義一党独裁体制やテヘランアメリカ大使館人質事件、イラン皇帝シャーの死のニュースが流れる中、ミシェルが体験するものは作家アラン・マバンクの青春と重なり、彼の思い出はまさに『もうすぐ二〇歳』という物語によって生まれ変わったといっても過言ではない青春小説でありました。

作中でのミシェルは十二歳であり、二〇歳までは八年という長い歳月がありますが、そのうち二〇歳になるという意味合いがタイトルには込められています。
純真無垢な少年の視線を通して、彼は大人になったらこうした大人になりたいという、きちんとした理想像を持っているところはとても新鮮味が感じられました。
『もうすぐ二〇歳』では、ミシェル少年が感じる世の中の雰囲気、様々な人間模様は物語を読み進めるにつれて読者の私たちは彼の生き方に憑依していることに気付くこととなります。
マバンクが経験した当時の街並み、家族や友人たちとのやり取りの思い出は『もうすぐ二〇歳』で活かされていることを実感させるものがあります。
思春期に抱える葛藤、悩み事というのは当時のこととして振り返れば、どうしてあんなにどうでもいいようなことを気にしていたのかと感じることが度々あったりします。
ですが、当時の自分にとっては重大なことであり、勉強や恋愛観といったものも大人になるまではまるっきり違ったものだと考えさせられるものがあります。
青春というものは、すなわち心の持ち方であり、私たちは人生の中である一定の期間を過ぎると心の持ち方が変わる特性があり、それは人間的な特質であるからこそだと思います。
ミシェル少年の生き方は、彼だけの特別な人生であり、旅路はこの先も続いていきます。
彼がいづれ、二〇歳を迎えて年齢を重ねる度に心の持ち方というのは常に変化していきます。
青春というものには、終わりはなく、我々はミシェル少年の生き方を通して彼の持つ独特な感性に魅了されるだろうと感じました。
そして、『もうすぐ二〇歳』に見られる特別な魅力、それはミシェル少年の視線から彼の生きる街並み、彼に携わる人たちとのやり取りから第二の人生観というものを探索出来るという点があります。
例えば、その地元にしかない伝統料理や文化に触れたり、その場所で生活する人々と何気ない日常的な話をしたりすることで、その町の魅力を十分に理解することが出来ます。
ミシェル少年の好奇心さを見習い、 自分だけの特別な興味関心に沿ったアクティビティを見つけることも大切だということも本作から考えさせられるものがあります。
スポーツやコンサート、映画鑑賞に料理教室など、なんでもいいので、自分自身に新たなチャレンジを与え、成長する機会を増やすことで生きがいを感じられます。
家族や友人と一緒に過ごすことは、当たり前のことである一方、まだ行ったことのない新しい場所に行ったり、新しい活動を試したりすることで、より親密な関係を築くことができ、大きな発見もあったりします。
静かに自然を楽しみながら、キャンプに行ったり、ハイキングやサイクリングをしたりすることで心も身体もリフレッシュすることができますし、視点を変えて新しい文化や言語を学ぶことも面白いものがあったりします。
留学先でのホストファミリーや現地の人々と交流したり、新しい言語を学んだりすることで、そうしたことも自己成長を促すことができるものだと思います。
こうした側面における『もうすぐ二〇歳』には、私自身の趣味で大切なこと、好きなことでもある読書について改めて考えさせられるものがありました。私は読書をする際の場所として、カフェで過ごす時間が長いことが実感としてあります。
たまに、場所を変えて自然豊かな公園で読書をすると、人間関係のストレスも解消されて心地よい時間を過ごせることがあります。
場所をふと変えるだけでも、読書によって充実した人生に繋がるアイデアが得られる可能性も広がるものがあることに気付かされることがあったりします。
例えば、読書によって人生の幸福感というものが、どれほどあるのかいうことを自らが調べた上で、結果をまとめた考えを文章として作成したりします。
調べることで、自分でも知らなかった幸福感がもたらす効果というものにより興味が湧き、多角的な視点を持つことが出来ます。
普段から何気なく行っていた読書から人生観が変わることは読書の魅力であり、読書自体はいつからでも遅くはないですし、いつからでも変われる可能性があるのも読書の魅力でもあると思っています。
文学や小説、ノンフィクション、学術書を記した著者の経験、体験談などは一冊の本によって集約されるものであり、読者に勇気や希望、またある時は学びさえも教えてくれるものがあったりします。
そうしたあらゆる視点を持つことは、長い歳月を有するものだと感じられます。
だが、『もうすぐ二〇歳』ではマバンクが描くミシェル少年には少年期特有の優れた観察眼を持ち合わせていることを本作から痛感させられました。
そして、私は『もうすぐ二〇歳』を読み終えて、自分が二〇歳だった頃の思い出を振り返り、青春というものの意味について、ようやく理解出来るようになったのは本作のおかげだと感じました。



■11.70年代から、Chat GTPまでの時代思潮を読み解く

エッセイには、その書き手の人間味が最も表れた小説よりも濃度が高い読みものだと感じられたのは、作家の庄司薫さんが記されました『バクの飼い主めざして』というエッセイ集を読んでから、私がこれまでに思い描いていたエッセイの価値観を変えた一冊だと言っても過言ではありません。
バクという生き物は、空想上の生き物であり、人々の大切な睡眠を守るために悪夢を食べ続ける生き物であります。
本作のエッセイ集『バクの飼い主めざしては』著者が生きてきた70年代の時代風潮が主に描かれており、未だ生まれていない私にとっては新鮮味が感じられる赤裸々なエッセイという印象を受けました。

庄司薫さんの代表作と言えば、芥川賞を受賞した『赤頭巾ちゃん気をつけて』が有名であり、処女作『喪失』との共通点を挙げるとすれば、青春期にみられる特別な若さの力というものが窺えられます。
若さというものは、構造的に捉える場合、それは自己の在り方、生きざまというものが考えられるだろうと思います。
心身と共に成長するに従い、アイデンティティが確立されていきます。
そして、読者の私たちは『喪失』や『赤頭巾ちゃん気をつけて』から70年代特有の若者の複雑な感情を読み解くことが出来ます。
複雑な感情というのは、抽象的な言い方ではありますが例えば、悲しみや憎しみといった負の感情などが挙げられるだろうと考えられます。
こうした感情が芽生え始める要因としましては、人間の上下関係によってもたらされる重圧感、それに対する無力感などが時代背景として理由付けられるのではないかと思われます。
いつの時代でも、若者の抱える生きづらさといったものは、永久的に失われることはなく続いていることは今後の課題でもあると感じます。
SNS世代の私たちにとって、スマホは必需品であることは明らかであります。
近年、noteやTwitterが協業して新たなコラボ機能を開発してアイデアは続々と展開され、進化し続けています。
ライティングにみる新たな可能性を広げる為、文章作成が得意なnoteユーザーやTwitterならではの140字制限に慣れたTwitterユーザーが交流する場も提供され、実現化されてきています。
両サービスを組み合わせた新しい情報発信スタイルを創造するため、noteは新たな新機能、AIアシスト機能が導入されnoteでの文章作成の作業効率化やアイデア発想の手助けにもなっており、私たちはより良い環境下のもとで書くことの可能性が大きく広がりつつあります。
こうしたAIアシスト機能の導入の背景には、Chat GTPが考えられます。
Chat GTPの機能を囲碁に例えるなら、AIと人間の対戦をサポートするために使われたり、Chat GTPによって、より高度なAIとの対戦が可能にもなります。または、人間とAIの対戦に加え、AI同士の対戦も可能になることで、AIはより進化していき、競争力も高まっていきます。
そして、マーケティング的視点を考えれば、囲碁好きな方々にChat GTPを知ってもらうことで、新たな市場さえも開拓することが出来ます。
異文化を通して、異なる文化圏の囲碁好きな人たちが集まって、交流できる機会が作られることもメリットとして考えられます。
話が大きく脱線してしまいましたが、こうしたChat GTPというものが導入された新時代、許容範囲を越えた民主主義の時代を比較的に考察すると、見えていなかった時代の特色を垣間見ることが出来るのは『バクの飼い主めざして』をたまたま読んだことがきっかけであり、本作は夢現のような読書体験でありました。



■12.集中力から没頭力へ

集中力について読書や勉強している際、何かしらの物事に取り組んでいる場合、集中力にはどこかで必ず限界というものがあります。
ですが、自分の中で本当に好きなことに取り組んでいる時間、例えるなら大好きなポケモンのゲームをプレイしていたり推しのキャラが登場するアニメを見ている時など、自分が何かに夢中になっている瞬間というのは集中力を越えて、没頭している没頭力というものが働いていることが理解出来ます。
集中力が働いている時というのは、なんとなくとしたつまらなさや不安感というものを無意識に抱えており、時と場合によって心身に負荷がかかる場合があります。
ですが、没頭していることは自分の好きなことに時間を割いていることでもあり、幸福感でもあることが分かります。
没頭力というものを知る上で、私が以前に記した集中力というものはどういったものかという記事を踏まえて、没頭力について解説していきたいと思います。

まず、没頭というものを掘り下げる上で参考になった書籍で吉田尚記さんが記されました『没頭力』というものがあります。
本書では、心理学会会長のマーティン・セリグマンという心理学者が提唱したポジティブ心理学という概念をもとに、没頭力はすなわち幸福感に直結するものであって三大要素として挙げられる、快楽、意味、没頭があり、これこそが幸福感を感じるための必要不可欠な要素であることを説いています。

そして、セリグマンの提唱したポジティブ心理学を踏まえて著者の吉田さんが考えた答えというものが‘‘上機嫌でいること’’が大切であるということを本書では述べられています。
上機嫌でいる状態としましては、感情が既に楽観的であることが分かります。
楽しく生きることで、自然と集中している状態から、没頭している状態へと移り変わり、極限の集中状態というのは没頭力であることが考えられます。
没頭している状態というのは、別の言い方として言い表すのであれば、チクセントミハイが提唱したフロー状態を示しており、本書では没頭するための状態として以下の8つの条件を述べています。

①ゴールが明確で、進捗が即座にわかる
②専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中
③活動と意識の融合が起こる
④自己の認識や自意識の喪失
⑤時間感覚の歪み
⑥状況や活動を自分でコントロールしている感覚
⑦行動そのものに本質的な価値を見出している
⑧能力の水準と課題の難易度とのバランスがいい

『没頭力』吉田尚記/太田出版/【P.58~59より引用】

チクセントミハイのフロー状態の定義では、8つの条件を満たすことでフロー状態になることができ、つまりはゾーンに入ることが可能であります。
このことから、没頭とは自分が本当に好きなことに夢中になっている、自分にとってこれは快感であるという状態こそが没頭力であることが分かります。
前提として、没頭する上で自分の趣味探しではないということを主張されており、自分にとっての楽しさ探しという考え方に置き換えることが大切であるということが言えます。
没頭する条件を踏まえて、没頭する技術というのは以下の6つの考え方によりまとめることが出来ます。

①楽しいと思ったことを書き出してみる
②まずは手を動かす=行動すること
③挑戦になっているかどうか確認する
④不可能な挑戦をできそうな挑戦に変える
⑤自分がいつもモチベーションが上がるかモニタリングする
⑥適度なストレスをかける

このような考え方は、没頭する為の技術で著者の吉田さんによって導き出された独自のメソッドでもあります。
こうしたメソッドには、明確な自分なりのルールとゴールがあり、集中力を越えて没頭している瞬間というのは無意識的に自分ルールに沿ってゴールへ向けてひたすら前進しているものだということが理解出来ます。
集中力というものは、現代の私たちにとって貴重なスキルの一つであることが考えられます。
ですが、SNSの普及に伴い、スマホの魅力によって集中力というものが次第に失われつつあることは確かなことであります。
集中力の限界によって、読書や映画に割く時間がもったいないと感じるタイムパフォーマンスを重視する思潮が広まり、解説動画による理解や映像作品に対しての早送りによって本質的に作品に向かう姿勢が失われつつある恐れがあることも視野に入れて、今後考えていく必要があると私自身は感じています。
集中力というのは、あらゆる条件やメソッドを駆使して取り組むもので、ある程度の時間やスキルが求められる難しさがあると思われます。
ですが、没頭力というものは集中力よりも求められるものはなく、純粋に自分の好きなことに時間を割くことで誰でも身に付けられる素晴らしい価値のあるスキルであると本書から感じました。



■13.創造性とは何か-白洲正子『たしなみについて』における創造の意味から-

創造というものを考える上で、多義的な意味合いがあるものだと感じられます。
この世にはない、新しいものをつくるということが創造という意味ではなく、既につくられたものをもう一度、思考を巡らせ再構築させて完成させていくものだと考えられます。
例えば、誰かと直接的に言葉を交わしたり、文学や映画での物語を通して受容と傾聴、そして共感によって、人と人の意思は初めて繋がるものだと考えることが出来ます。
現実や非現実での繋がりの中で友情を築いたり、異性と恋をしたりと、体験や経験を積み重ねていくことは自身の成長へと結び付くものがあると思います。
文学や小説において、時として、その書き手の思想や感情、判断までも越える力があるものだと私は思っており、文学や小説でしか表現出来ない特別な力があるものだと感じます。
文章を記していると、ふと思うことが何度もありますが、自分の記した文章が時に自分の存在さえも追い越してしまうのではないかと実感することがあったりします。
私が記した文章は私が記したものではありますが、それは言い換えれば既にかたちある存在のものを新しく創造していることでもあると思います。
思考していく過程の中で、自ずと思慮することは必然的でもあります。
書物から書物へと繋がっていくことで、知性は深く磨かれていくものだと思います。
私が過去に記した【‘‘自己表現’’としての創造力】から続編である【備忘録としての‘‘自己表現’’】そこから派生して生まれた【新たなエクリチュールへ】から続編の【続・新たなエクリチュール】までの変遷を辿ると、これらの作品は特に創造性によって生まれたものだと言っても過言ではありません。

創造性というものを考える中で、白洲正子さんが記されました『たしなみについて』という本で創造の意味という章があります。

肉体と精神とは、密接な関係性があり、創造物を生み出す為には心と腕の協力を必要とするものです。
創造する為に、私たちは本を読み、そこから自分で言葉を探すという行動をしています。
自分で探すことというものも、創造の一つであると考えられます。
私が創造性について、深く感心させられた箇所があるので、ぜひ引用したいと思います。

造物主のわざをみよう見真似で、人間や花や木を、人間が自らの手でつくろうと欲する、これは正に創造であります。

『たしなみについて』白洲正子/河出文庫/
【P.159より引用】

芸術や人々の精神の中から、それぞれの‘‘個’’というものを探して取り出す行為こそ、私たちが求められる創造の意味だと考えられるのではないかと感じます。
探して取り出すことが創造であるならば、人間や花や木から見えてくるものそれは自然な純粋性によるものだと考えられます。
物事を観察する為には、観察眼、もしくは観察力が求められます。
観察眼、観察力を身に付ける必要性がある理由としては、偽りのない純粋性を自らが探し当て、取り出すまでにはそうしたスキルがなければ、創造することは不可能であるからだと考えられます。
アイデアの発想については、既存のアイデアとアイデアを組み合わせて相性が合うことで、初めて新しいアイデアが生まれるものであり、創造する意味が問われる具体的な例だと思い浮かびます。
言葉を自らが生み出し、生み出された言葉は作品として表現されます。
表現性というものを考えることで分かることは、その人にでしか表現出来ないものというのは必ずあります。
創造とは、自分という存在を俯瞰して、自分を理解し、表現のプロセスを積んでいかなければいけないものであると思います。
日本の伝統芸能、武芸を習得する考え方である‘‘守破離’’に通じるものがあり、守破離について守というのは、師や流派の教えに従い、型や技を忠実に守っていき確実に身につけるまでの段階を示すものであります。
破については、他の師や流派の教えから学んだ様々な考えや自身にとっての良いものを取り入れ、心技をより発展させるまでの段階であります。
最後の離というのは、これまで学んできた教えや流派から離れて、新しいものを生み出して確立させるまでの段階であり、創造とはつまり、守破離という言葉でも言い換えれられるのではないかと考えられます。
創造の意味を考えていく中で、私がこうして様々な書物から得た学びも創造されて新しいものへと生まれ変わって表現することが出来ているということは実感しています。
『たしなみについて』における創造の意味は白洲先生のお言葉から、多角的に創造の可能性も広げられるものだと感じました。
創造することはこの先も、必ず求められるものであり、生みの苦しみはあらゆる人が直面する問題であることが分かりました。
私は自分がこれまでに信じてきた言葉を頼りに創造し続けていきたいと思っています。



■14.読書論から文学論へ

読書をする上で、私は自分なりの読書方法や読書の本来の目的などを年に数回考えることがあります。
それは、そうした数ある書籍の中で読書術や読書論について記された本を読んで俯瞰的に考えてしまう癖があるからだと自覚しているところがあったりします。
吉田健一さんが記された『本が語ってくれること』という本を読み、考えることのきっかけを与えてくれました。

本書では吉田先生の文芸時評を中心に、吉田先生流の読書の在り方というものを詳しく述べられています。
読書の本来のあるべき姿というのは、読者=読み手が本を読むことの喜びや楽しさを心から実感することこそが究極であることはとても共感させられる箇所がいくつもありました。
読書は自らが思考し、読書の究極の在り方というものを追求するものではなく、読書の喜びや楽しさを味わうことで本が自ずと語ってくれるものだということを考えさせられました。
読書という言葉自体は広大な意味合いがあり、文学を含め、様々な学問分野に通じるものであって、読書論を語る上でこれが正解というものはないものです。
読書論をより分けて、考えをまとめる際に、大江健三郎先生と古井由吉先生との対談集である『文学の淵を渡る』という本は文学の真意が込められた名著です。

文学は言葉で書かれるものだということは当たり前であり、誰もが理解していることではあります。
私たちは、文学に限らず本を読む時には、言葉のかたまりに向かっていくと論じています。
文章が難解であっても、明快に、確実に、ある言葉にたどり着くことができれば、愉快な気がすると指摘されています。
では、明快な言葉が何故、難解になるのでしょうか。
言葉がその人自身の形を持っており、逆に難解でないものは、説明的で形がないと解釈されています。
表現の知覚によって、私たちは形があるか、ないかと判断し言葉の真理を探求する事が文学には可能であることが理解出来ます。
日本の近現代文学、海外の古典文学を始め、自作を語ることで、過去と現在までの変遷から、伝承された文学の未来というものが明らかになっていきます。
小説家の立場から、これからの文学への在り方について学べる本については本書以外では思い浮かばないほどの文学論としてまとめられています。
読書論から文学論へ、論考の旅路に決して終わりはないものだと感じさせられました。



■15.読書と習慣、そして乱読と精読

習慣的に読書する時間を作ることについて、学生時代の頃に比べると、社会人になってからは読書に費やす時間を捻出することが難しくなってきたと実感することがあります。
ですが、習慣的に少しずつではありますが、読書時間を作ることを早くから養ってきたおかけで、空いた時間が出来れば、活字を読むことに関しては意欲的になっていることを考えてみると、習慣が多くのことを為していることが理解出来ます。
哲学者の三木清さんが記された『読書と人生』、『人生論ノート』を読み改めて感じました。

読む上で大切なことは、閑暇を見出だす必要があるということを三木先生は述べています。
確かに、仕事に追われながら、空いた時間を見つけて本を読むことが難しいと考えている自分にとって、読書の時間がないと言っているのは読書しない為の口実に過ぎないのではないかと感じるところがありました。
例えば、朝の通勤時はもちろん、夜寝る前やトイレにいる時間など、読書の為に時間を作ろうと思えば何時でも作れるものだと思いました。
本当に読書が好きな人であるならば、自分の中で閑暇を作る手段を知っているものだという論考は胸を打たれるものがありました。
つまりは、閑暇を作り出し読書する為においては習慣は最も大切なことであることが分かります。
読書の習慣は読書の為の閑暇を作り出し、読書習慣を手に入れた者にとって、読書における真の楽しさや喜びを見出だすものだと思われます。
そして、読書と習慣の関係性について考えることでもう一つ関連のあることは、本の読み方として表すことの出来る技術力というものが大切になってきます。
読書術、読書方法は様々なジャンルの本を読む場合、その本を読むにあたっての適した性格が求められるものであり、個人の読み方としても異なるものがあると思います。
技術的な本の読み方を身に付ける為には、長い時間を有するものであり、習慣的な継続が求められるものだと考えられます。
乱読においては、自分にとっての本の読み方を身に付ける上で避けては通れない壁があり、読書家にとって自分の専門分野の本だけを読むのではなく、あらゆる古今東西の本を読むことで、世界についてや全体的な思想や正しい見通しを得る為には多くの書物を読む乱読は大切な教えであるということが理解出来ます。
古典的名著と呼ばれるものや新刊として出ている本について、どちらを優先して読むべきかという問題に関してはどちらも同列に読むべきであるというのが答えでもあります。
古典には、その当時の鑑識眼を養う上では大切であるし、新刊には今起きている感覚に触れる為、現代の問題点は何であるかということを知る為にも必要になってきます。
ですが、古典を好む人たちや新刊を好む人たちなど、読み手の年齢層についての問題も私たちは考える必要があると思われます。
本能的に、何を読むべきかという問題よりも、どのような本に関しても親しむべき精神を養うことが大切であるということが理解出来ます。
乱読というものは、あらゆる書物を片っ端から読むこと、すなわち速読すべきであるということではありません。
どんなに長い時間をかけてもいいので、本を読むことで学ぶ為に、批評する為に、楽しむ為にという意味においても最初から最後まで読み通すことには価値があるものだと思われます。
精読によって、その本に書かれている真の価値を見出だすことが出来ることはもちろん、精読とは別に再読することで精読では気付けなかった新しい発見に気付くきっかけにもなると感じます。
『人生論ノート』において、習慣についての考え方はとても考えさせられるものがあったので、ぜひ引用したいと思います。

習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。

『人生論ノート』三木清/新潮文庫【P.37より引用】

習慣というものは、かたちあるものであるのと同時に、技術的なものであることを述べられています。
連続的な行動、行為を繰り返すことによって、古い習慣は新しい習慣へと生まれ変わっていきます。
読書に技術的な側面を求めることに、抵抗を感じられる方は多くいらっしゃるのではないかと考えられます。
ですが、技術的な読書を考えて読書するというよりも、文学や小説、学術書やノンフィクションなどのジャンルに触れる際に、無意識的にこれまでに培ってきた読書経験は習慣によって形成されているものだということは理解出来ます。
哲学的な鑑識から、読書と習慣、乱読と精読の意味など、求めるべき学びや価値を自己に反映させる為には習慣というものは、あらゆる物事に対して有益に働かせる為には重要視しなければいけないものだと感じました。



■16.これからの読みを模索する

様々な読書術がある一方、読書する上で本というものが存在する以上、本というものはページを捲って読まなければいけないということは当然であります。
ですが、膨大な書物の中から自分にとってのベストの本を見つけ出し読むことはかなりの時間と労力を費やすものだと思います。
私自身は、ビジネス書や学術書を読む際には基本的に拾い読みの方法をとっており、私の読み方の基盤となった参考文献を挙げれば、M・J・アドラー/C・V・ドーレンが記した『本を読む本』という読書術に関する手引き書であります。
本書では、拾い読みを点検読書と呼んでおり、点検読書については表題や序文を読むことに加えて、目次を読むことの大切さを説いています。
こういった表題、序文、目次というのは本にとっては骨組みのようなもので、表面的な拾い読みによって作品構造を理解する上では大いに役立つものであります。
その他にも、精読に特化させた読み方の一つとして分析読書と呼ばれるものもあります。
読書術は本を読む上での技術の一つでありながら、技術力を向上させればさせるほど、自分自身の能力をどこまでも高められることは可能であります。
『本を読む本』での点検読書や分析読書から学んだノウハウはこうして、私自身の血肉となっている実感があります。
ですが、点検読書や分析読書以上に役立つ読書術というものがありました。
それは、本書で紹介されているシントピカル読書と呼ばれる読書術であります。
シントピカル読書は、研究分野についての主題を考えて、文献表を作成し、作品構造的な観念を掴み、それを明確化させるところから始まります。
そして、主題を軸にして最高レベルの論点へと読み手を導くことがシントピカル読書の目的でもあります。
点検読書から、分析読書、シントピカル読書へと手順に沿って読み方をレベルアップさせることで何が起こるのか。
それは、読み手の精神的な成長であります。
精神的な成長を促進させる為の手段としては読書が有効であり、映画や音楽、芸術も読書とは別に作り手や受け手側に精神的な成長を反映させる力があるものだと考えています。
ですが、一方的に本を読まない上で本の内容を語るという方法論も存在します。
ピエール・バイヤールが記した『読んでいない本について堂々と語る方法』という本であります。
本書は、あらゆる有名作品を取り上げて、知識人がどのようにして本を読んだふりをしたのかということを紹介しています。
現代では、気になる書籍や映画についての内容もインターネットを通して、書評やブログ、ファスト映画などで簡単に内容だけを抜き取って理解することが出来るのが現状であります。
知識や知恵というものは、SNSを介していくらでも拡散され、そして得ることも簡単なのは確かであります。
このようなテキストの大まかな概要を押さえるというのは、現代のあるべき教養の在り方であり、それを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは、今後の課題でもあると思われます。
『本を読む本』では、あるテキストを細部にまでこだわり分析して結論を導くまでが本書の特徴であり『読んでいない本について堂々と語る方法』では、あるテキストの大まかな概要だけを掴むことだけが目的としていて比較すると、対照的な読み方だということが理解出来るのではないかと思います。
両者の特性をどのように活かすのかは、読み手の私たちが思慮する必要があると考えさせられるものがありました。
読み方を試行錯誤しながら、自分だけのオリジナルな読み方を確立させることで、読書の世界はより広がっていくものだと感じます。




-あとがき-思慮することについて

思考することは、読書や書くことに限らず、あらゆる物事に対しても機能的な働きがあると考えられます。
無意識的にも、人は何かを思考する時、自分なりの判断で結論を出すまでには思考のその先にある思慮することが求められるのではないかと私自身は感じることがあります。
人生の時間は、誰しも限られているものであり、限られた時間を冷静に計算することを誤り、せっかくの貴重な時間を無駄にしてしまうという現象を起こしがちであり、私は何度も経験しています。
では、私たちにとって何が求められるのかと問われれば思慮することだと考えています。
俯瞰的な立場に立つこと、外側から自分の行動を観察する為の観察眼は現代にとって、必要不可欠なスキルの一つだと思われます。
注意深く思いを巡らしても、答えに辿り着けるとは限りませんし、そもそも思慮することがあらゆる物事を解決させることが出来る手段でもありません。
では、何故、思慮する必要があるのか、思慮する以前の思考の段階では私たちは誰かの考え方に寄り添っているだけに過ぎないからだと考えられます。
本や映画の中で描かれる人たちの表情や行動から心理を汲み取り、どのような心情を抱いているのだろうかと考え、自分なりの解釈で納得することは一方的に無理があるものだと感じます。
考え方は、自分以外の人たちの意見もしっかりと受け取り尊重することが大切であると思います。
AやB、CやDといった考え方を捉える際には、肯定的である一方、否定的なものも中にはあるものだと思われます。
ですが、多角的に考えることで自らが否定的であると捉えていたものが逆転して、正しい解決策であることを痛感する瞬間が訪れることも可能性としては十分考えられるだろうと思います。
私がこれまでの人生の中で取り組んできた読書や書くことは、そうしたヒントを与えてくれたものであり、自分なりの答えの出し方へと導いてくれたものがあったと実感しています。
本や映画に触れて、その瞬間に思ったことを感情のままに、面白かった、感動した、とワンフレーズで唱えていた学生時代の頃の自分を振り返ると作品に対して純粋に向き合っていたんだなということが感じられます。
好きなことに全力で取り組んできたからこそ、私は読書や書くことには同じく等しいものが存在することに気付きました。
それこそが、思考のその先にある思慮することでありました。
『思慮する読書』は、あらゆる書物を巡り、関連のある共通項目を結び付けて、もう一度再構築させて論じた書評集という認識で捉えて頂ければ幸いであります。
これまでに記した感想や書評は、ある一つの主題を決めてから主題に沿った私なりの書き方でまとめてきました。
『思慮する読書』という自分が記した作品を読み返して、思慮すると考えさせられるものがあり、どのように分かりやすく表現すれば、自分の気持ちを言語化出来るのだろうかと考えてみても、いざ書き変えようと思っても上手く言語化出来ないのが現状であり、今でも書く上での悩みの一つでもあります。
ですが、思考段階から思慮までの段階へとステップアップすることで、私は自分が本当に書きたいものが書けたことに、とても嬉しく感じています。
思慮することをこの先も継続していく中で、今まで到達出来なかった目的地へと、いつかは到達したいと心から思っています。





【参考文献】
『ヘッセの読書術』へルマン・ヘッセ/フォルカー・ミヒェルス=編/岡田朝雄=訳/草思社文庫
『世界文学をどう読むか』へルマン・ヘッセ/高橋健二=訳/新潮文庫
『百冊で耕す<自由に、なる>ための読書術』近藤康太郎/cccメディアハウス
『百歳の力』篠田桃紅/集英社新書
『 一◯三歳になってわかったこと』篠田桃紅/幻冬舎
『一◯三歳、ひとりで生きる作法』篠田桃紅/幻冬舎
『赤の自伝』アン・カーソン/小磯洋光=訳/書肆侃侃房
『詩の言葉ー意味の研究ー』オウエン・バーフィールド/松本延夫/秋葉隆三=訳/英宝社
『自註鹿鳴集』会津八一/新潮文庫
『時間投資思考』ロリー・バーデン/ダイレクト出版
『マンガ古典文学 徒然草』長谷川法世/小学館
『草子ブックガイド 1』/玉川重機/講談社
『草子ブックガイド 2』/玉川重機/講談社
『草子ブックガイド 3』/玉川重機/講談社
『地図と拳』小川哲/集英社
『工藝文化』柳宗悦/岩波文庫
『民藝四十年』柳宗悦/岩波文庫
『柳宗悦茶道論集』柳宗悦/岩波文庫
『柳宗悦 「無対辞」の思想』松竹洸哉/弦書房
『魯山人陶説』北大路魯山人/中公文庫
『自伝 土と炎の迷路』加藤唐九郎/講談社文芸文庫
『F ショパンとリスト』高野麻衣/集英社文庫
『小さき者へ 生れ出づる悩み』有島武郎/新潮文庫
『もうすぐ二〇歳』アラン・マバンク/藤沢満子・石上健二=訳/晶文社
『バクの飼い主めざして』庄司薫/中公文庫
『没頭力』吉田尚記/太田出版
『たしなみについて』白洲正子/河出文庫
『本が語ってくれること』吉田健一/平凡社ライブラリー
『文学の淵を渡る』大江健三郎/古井由吉/新潮文庫
『読書と人生』三木清/新潮文庫
『人生論ノート』三木清/新潮文庫
『本を読む本』M・J・アドラー/C・Vドーレン/外山滋比古・槇未知子=訳/講談社学術文庫
『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール/大浦康介=訳/ちくま学芸文庫


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