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【‘‘熟読と熟考の関係性’’】

調べものを行う場合、参考文献として専門書や学術書を数冊併読しながら、特に気になる箇所や知らない言葉が出てきた時に私はそういったところを重点的に熟読する。
熟読とは、私が以前に記した記事で精読とは別に、更に発展的な読み方として‘‘深読術’’というものがいかに重要かということ主張しましたが、熟読と深読、そして精読にも通じるものがあるのではないかと考えています。
深読術というものに関しては、以前の記事を参照して頂けると幸いです。↓

まさに、熟読などの読みは熟考と相互関係があるのではないかと考えたものが今回の記事のメインテーマでもあり、【読書における‘‘深読術’’】の姉妹編と言っても過言ではありません。
例えば、文献を読むとき何か気になる一文や語句に触れた場合、私たちは自ずと熟読する。その文脈から何か読み取れないかと、思考を巡りながらひたすら考える。
その考えることこそが、熟考と呼ばれるものであり、熟読をすれば必然的に熟考する。
つまりは、読むことと考えることは相互関係でもあり、熟読するからこそ熟考する。
熟考するからこそ、もう一度熟読する。
そうした心理は、知的好奇心に近いものがあるのではないかということが私自身の考えでもあります。
熟考は、多様的な視点で物事を読み解くことで効果が発揮されるものであり、読書に限らずコミュニケーションの一貫としても非常に大切なものだと言えます。
会話から、相手の気持ちを受け取り、その言葉に対してどのような受け答えをしなければいけないのかということは、円滑なコミュニケーションのやり取りの上でも熟考は必要だと感じます。
熟読を踏まえての熟考は、思考力を磨き上げる場合、様々な効用があるのではないかと考えられます。
精読や深読、そして熟読。対照的な乱読は、自分自身の興味や関心のテーマを飛躍的に広げることが出来る反面、全体的に手薄な知識しか身に付けられないのではないかと思われます。
そうしたことを踏まえると、熟考は今後私たちにどのような価値をもたらしてくれるのかということは大きな課題なのかもしれません。

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