『感傷の寓意』-安部公房論-
■はじめに/-安部公房の作品を再読する-
安部公房という作家は歴代の日本人作家や現代作家、海外作家を含め、私自身にとっては特別な人という認識があります。
そもそも、私が文学に興味や関心を抱くきっかけにはなったのは安部文学に出会ったからでありました。
奇想天外な物語が魅力的なことは勿論、着想が他の物語作品にはない世界観と常識と想像をはるかに凌駕する登場人物たちの人間像、世界と人々の共存の中で作家、安部公房がつくりだす世界の虜となった私は彼の作品、エッセイや評論を含めて色々と読むようになりました。
安部氏の物語は、どれも難解であり理解するまでがとても困難で完全に理解したと呼べる作品は私の中ではあまり自信がありませんが、彼の作品に触れる度に彼の思想を知ることが出来ているという実感を覚えるようになりました。
あれから、月日が経って、ふとした瞬間に安部公房の作品を自分が持っている作品だけでも、もう一度読み返そうと思う時がやってきて、今この瞬間に文章を記している私は安部公房の作品を再読し終えたことでまた、安部文学の価値を再認識した自分がいます。
安部公房の作品に出会えたことを誇りに思います。
■再読了/-安部作品27冊の感想を語る-
私自身が安部文学を再読するにあたり、日々の生活の中で合間の時間でX(旧:Twitter)で140文字以内に感想を簡潔にまとめたものがあり、全27冊の感想は私がXにまとめたものを引用して記したものとなっており書き直しは行っていません。
小説やエッセイ、評論、戯曲に至るまで、様々なジャンルを書きながら安部公房が描くものは共通性のあるテーマがあるということを感想文を改めて全体を通して見てみると気付かされることがたくさんありました。
何故、安部公房は私小説は書かずに、自身が想像したものを描くのか。
作家の真意を汲み取ることは、読者にとっての課題でもありますが、逆に作家にとっての使命は読者に‘‘ある一つの世界’’を提供することなのではないかと感じることがありました。
テイストは違っても、書き手の安部公房が読者の私たちに伝えたいことは変わらないものがあり、作品から何を感じて、何を受け取るのかも、読者は自由な立場にあり、安部公房の作品から何か見えてくるもの、感じるものがあるのではないかと、ここにまとめ記しました。
#再読『壁』安部公房
S・カルマ氏の犯罪、バベルの塔の狸、赤い繭においても、諸作からは独創性のあるユーモアやアイロニーを交えながら死生観、疎外感、超現実主義などのテーマ性も帯びている。内省を寓話として形成させ提示された‘‘壁’’についての解釈は様々な読みが出来る面白い作品集だと感じた。
#再読『終わりし道の標べに』安部公房
‘‘存在の条件’’と‘‘故郷の問題’’について。日本の敗戦を故郷の満州で経験した安部氏の自己性。
終わりからの出発点。故郷との訣別により、真理へと到達することで、作家の誕生としても裏付けられるものだと本作から感じられました。
変革をもたらす真意を悟った。
#再読『砂漠の思想』安部公房
‘‘砂漠’’や‘‘辺境’’は原風景を変える特性があり、散りばめられたマティエールはリソースとして活かされていると感じられる。
ヘテロの構造から砂漠の思想に至るまで、意味に到達する以前の実態によるもの、即ち終局的な生命の連続性に近しい‘‘ある世界’’を体感しました。
#再読『人間そっくり』安部公房
ある日、ラジオ番組の脚本家のところに、火星人と名乗る男が訪問する。
狂気的な男の言動に翻弄されながら、彼は人間なのか、火星人なのかということが分からなくなってしまう。
位相幾何学的に、人間の深層心理を描きつつ、虚実が綯い交ぜされた現実と寓話の姿がある。
#再読『R62号の発明・鉛の卵』安部公房
人間の機械化、動植物の変身などを通して、思想や観念というものも自ずと混合され、物質的な意味を持つということを十ニ篇の短編から感じました。
『壁』から『R62号の発明・鉛の卵』にみる視線と空間認識の相違点が窺えられ、新たな転換期であると思いました。
#再読『砂の女』安部公房
仁木という教師は趣味の昆虫採集の為に砂丘に行くことになる。そこは砂に埋もれそうな部落があり深い穴の底にある民家に泊まることとなり、砂掻きに励む寡婦と知り合う。
女は何故、砂に固執するのか。
投影体として描かれる砂とは何か。
流動的に砂は肉体や精神を侵食する。
#再読『笑う月』安部公房
オートマティックで奇想天外な発想の原点から、自作のテーマ性や安部氏の論理が浮き彫りとなり『砂の女』や『燃えつきた地図』『箱男』が誕生するまでの軌跡を辿ることが出来る。
本作で特に面白かったのは「発想の種子」という項目で、意識下から芽をふく創造力に圧巻した。
#再読『内なる辺境』安部公房
正統と異端の対立から浮かび上がるものは、ユダヤや都市性、差別構造などで、こうした問題点については、現代にも通じるところがあったりする。
三編のエッセイには、安部氏の意志や思想が全面的に反映されていることが窺えられ、かなり濃度の濃いエッセンスだと感じた。
#再読『夢の逃亡』安部公房
寓話性があり、童話的とも見てとれることはもちろん、名前の喪失や存在の消滅などからは「Sカルマ氏の犯罪」に通じるものがあると認識しても、どの短編も観念的で安部氏の作品の中でも非常に難解なものばかりだと感じた。
空虚なところから着想を得た物語は次へ活かされる。
#再読『友達・棒になった男』安部公房
表題作の「友達」はかなり秀逸でした。物語は一人暮らしの男の家にある日、知らない家族が闖入して、彼も家族だということを強要される。
男にとっての孤独感は彼自身の問題だけではなく現代人にとっての実存的な孤独感も描き考えさせられる興味深い内容でした。
#再読『箱男』安部公房
段ボール箱を腰までかぶって現代の都市を徘徊する箱男の奇妙な物語。
作中に登場する贋箱男や看護婦との関係性から、挿入されるスナップ写真と文章は何を意図しているのかと考えるもかなり難解であり、理解が追いつかなかった。
外ではなく、箱の内側から見える世界に魅惑する。
#再読『燃えつきた地図』安部公房
大都会は閉ざされた無限であり、地図も同様である。
失踪人を探す目的や解決から遠く離れていってしまい、探偵は次第に道を失い、自身の存在すらも曖昧になり、自分の存在すらも疑うほどになるまで陥ってしまう。
不安感や恐怖に苛まれた姿はまさに現代構図の風刺画。
#再読『水中都市 デンドロカカリヤ』安部公房
父親と名乗る男が奇妙な魚に生まれ変わり街が水中世界へと変わる「水中都市」やコモン君という青年が突然植物に変身する「デンドロカカリヤ」など、他の短編も変身をテーマとしており理屈や理論を外し、政治思想や社会風刺を絡めた着想は実に面白かった。
#再読『密会』安部公房
ぼくは、救急車によって突如連れ去られた妻の行方を探すべく、病院へと向かう。
奇怪な登場人物である‘‘馬’’や‘‘女秘書’’、‘‘少女’’と盗聴器が張り巡らされた巨大な病院内での数々の出来事は脳内に焼き付けられるものがあり、『箱男』にみられた視覚から次は聴覚へと幻惑する。
#再読『無関係な死・時の崖』安部公房
「無関係な死」から「使者」「人魚伝」が面白く、印象的な人魚伝では全身緑色の人魚に惚れた男が家の浴槽で人魚を飼うという話であり、その後にも予期せぬ展開が起こり楽しませてくれるのが安部文学の醍醐味だと感じた。
ブラックユーモア色が強い短編集でした。
#再読『死に急ぐ鯨たち』安部公房
生の構造によって、作家は何故文学を描くのかということを考えさせられるものがありました。『第四間氷期』から『方舟さくら丸』より安部氏の作品に込めた文明批評的な見識すらも垣間見ることが出来るエッセイでありました。タバコをやめる方法は、かなり面白かった。
#再読『他人の顔』安部公房
事故によって顔を失ってしまった男の内省からアイデンティティとは何かについて考えさせられた。自らの思考に溺れながらも見る見られることは「箱男」に通じるものがあり、仮面を被り別の人格者として妻と関係を築き分裂と対立の中で人間関係の本質を問うものがありました。
#再読『幽霊はここにいる/どれい狩り』安部公房
安部氏の描く小説にはない構造が本作の戯曲から窺えた。
戯曲の構造は近しいものがあり「制服」を除く「どれい狩り」では幻の生物ウエー「幽霊はここにいる」では幽霊を用いた詐欺であり、演劇において演者と観客の舞台の見え方の違いは考えさせられた。
#再読『カーブの向こう/ユープケッチャ』安部公房
安部氏の代表作である『砂の女』『燃えつきた地図』『方舟さくら丸』の原型となった作品であり、短編から長編へと文体、作中の世界観の変遷によってテーマ性が浮かび上がる。
テーマ性から作風への流れより、クローズアップして、磨かれ発展していく。
#再読『方舟さくら丸』安部公房
核戦争への備えの為に、地下に核シェルターを造りあげることを決意したぼく(モグラ)。
昆虫屋とサクラとの奇妙な共同生活が始まることになるのだが‘‘ほうき隊’’と呼ばれる清掃ボランティアである老人軍団の介入により、物語は予期せぬ展開へとなっていくことになる。
『ユープケッチャ』から『方舟さくら丸』へと繋がりモグラのファシズム的思想から『方舟さくら丸』で描かれるナショナリズムや男女差別化による問題がグロテスクに描かれているところも着目点であり安部氏が作品に込めたユートピアとも見てとれる指向性などと絡めながらも読めるのではないかと感じた。
#再読『けものたちは故郷をめざす』安部公房
生存における、精神の自由さとは何か。戦争の果てから、青年が日本へ帰還しそれは、けもののようであり安部氏の満州での体験が本作では色濃く反映されていると感じられました。
不安や恐怖感を抱きながらも、政治によって生み出された権力に抗う姿がある。
#再読『第四間氷期』安部公房
私たちの未来像を考えるとき、楽観的に捉えるのか、悲観的に捉えるのかという判断を下すことは難しいことを本作から痛感しました。
予言機械が語る‘‘水棲人’’とは何か。
冷戦の時代風潮や現代に通じる、高度なCOMPの発明による安部氏の未来予測が絡まり合うSF大作でした。
#再読『緑色のストッキング・未必の故意』安部公房
『砂の女』に通じる共生の狂気を描いた「未必の故意」や安部氏が得意とする変身譚の中でも人格の変容を描いた「緑色のストッキング」など長編や短編にとどまらず、戯曲でもかたち作られた世界を通して見えるものも、また変わってくるものだと感じた。
#再読『石の眼』安部公房
安部氏の作品に見られる不条理の世界から離れて、本作をパースペクティブとして考える場合、稀有な推理小説だと感じました。
物語としては、ダムで起きた殺人未遂事件をめぐって登場人物たちが、お互いを疑いながら話が進められ、諸作品とはまた異なるテイストな作品でした。
#再読『飢餓同盟』安部公房
ファシズムとユートピア思想の両極が混合して、花井の姿を通して彼の革命の計画から人間の狂気性、現実にみる挫折感を教訓的にかつ、寓話を交えて描いているところはとても面白く、当時の政治活動や芸術運動などにも影響が本作から見られるものなのではないかと感じました。
#再読『榎本武揚』安部公房
榎本武揚とは何者なのか。
作者の私は元憲兵の旅館経営者に出会い彼は元兵士が書き残した榎本に関する資料を送ってくる。
私は資料と史実を読み考察を深めながら榎本武揚という人間像を浮き彫りにしていく。
推理小説の『石の眼』と並び、異色の歴史小説として読めました。
#再読『カンガルー・ノート』安部公房
夢でみた記憶や思い出、感情の全てを一本の糸として紡がれたもの、安部氏がたどり着いた先にあったそれは死をテーマとした‘‘私小説’’だと考えさせられました。
一般的な意味としての‘‘私小説’’というわけではなく、外形と内形を語る‘‘私’’の存在意義について。
キーン氏の解説において、「この小説で死を嘲笑して、死の無意義を暗示したが、勝負は死の勝利に終わった。」という言葉がある通り、安部氏は自らの予感を小説へと投影させることで自らを語ることにしたんだと感じた。
ユーモアと不条理による融和性、この時に私は安部文学より文学の奥深さを学んだ。
■総括/-作品論にみるモチーフについて-
安部公房が描く作品としての構造性と作家、安部公房という人間像との結び付きを考えるとき、ある矛盾が生じることになる。
それは、作品と作家の因果関係が成り立たないということについてであります。
安部氏の『壁』や『夢の逃亡』、『水中都市 デンドロカカリヤ』に見られる、名前の喪失による問題、突然変異による主題から、『人間そっくり』や『R62号の発明・鉛の卵』、『方舟さくら丸』から『第四間氷期』にみるSFの特性、『砂の女』や『箱男』、『燃えつきた地図』、『密会』や『他人の顔』による現代人の抱える孤独感、不安感、劣等感などといった負のイメージによるもの。
そして、『終わりし道の標に』や『けものたちは故郷をめざす』晩年の『カンガルー・ノート』は安部氏の自己性というのが色濃く反映されているといえます。
エッセイや戯曲、その他の短編や長編にも、分類化させることは可能であり、属することによって安部氏の本来から抱えるテーマ性の型へとはめられる。
だが、そもそも安部氏の思想や概念、観念的な感情論を作品から読みとき解釈するにはかなり難しいものがあり、寓話や寓話性を用いて読者の私たちに何を伝えるべきなのかは、きちんとした判断力を持って物語を描いていると作品から窺えるものがあります。
そもそも、安部公房の人柄や作品の魅力を語る上で最も大切なこととは何かと言えば、作品の独自性を語る方法しかないと私自身は考えています。
安部氏の作品に見られる政治思想や芸術論の観念的なメッセージ性の解釈については、安部氏の生きてきた時代風潮に沿って読みとき考えれば、彼は何を作品に残したかったのかということが自ずと見えてくるに違いないと私は思っていたりします。
安部公房が様々な作家から影響を受けて、彼の独自性は形作られたといっても過言ではありません。
カフカやリルケ、ルイス・キャロルなどの作家による作品の特性は影響を受けていることは事実であり、彼の作品に登場する登場人物の心理による内面性について焦点を当てる場合、それはどの作品にも通じるものがあるのではないかと考えさせられるものがありました。
それは、‘‘感傷と寓話性’’によるものでした。
安部氏が描く登場人物たちは皆どこか感傷的であり、心の奥底に穴が空いているような印象を見受けられるところがあるのではないかと全体を通して考えさせられるものがありました。
感傷という抽象的概念を言葉に置き換えることは非常に難しいものだと思います。
だが、安部公房という人物は外形としての寓話を創造することによって、感傷の形というものを小説の中で表現しようとしていると考えさせられるものがありました。
寓話というのは現実とかけ離れた対象として見なされていますが、私にはそうは思えませんでした。
むしろ、寓話というものは、現実世界の残酷さや負の情念というものを介して伝えることが出来る作用があるのではないかと考えさせられるものがあります。
シュルレアリスムという概念の大枠を考える場合、時間と空間は歪み、現実の概念を覆す力を秘めたるもの、それこそがシュルレアリスムの役割である気がします。
そういった意味でも、安部氏は近い未来の都市にみるデザインのようなものを作品に描いてみせたことは驚きだと思います。
シュルレアリスムに限らず、小説という異なる世界で、読者は体験と経験を同時に得られることができ、ユートピアとしてか、逆ユートピア的にもベクトルを向けることを可能にさせている安部氏の作品にかけた筆力は感嘆とさせられるものがあります。
シュルレアリスムをテーマにすることによって、現実と夢の境界を曖昧にさせる働きがあり、読者が自由に創造の世界に浸れる体験を提供することは安部氏の願望であるような気がしたりします。
安部氏の得意とするシュルレアリスムの要素を多角的に取り入れることによって、私たち読者は飽きることなく、その魅力にとりつかれるものがあるのではないかと考えさせられるものがありました。
安部氏は何故、私小説を書かずに敢えて、非現実的な要素を取り入れたかったのか。
それは、視覚的でもあって聴覚的でもあって、嗅覚的としても捉えることが出来る価値を作品に投影させて小説の持つ可能性を提示したかったからなのではないかということと、安部氏の人柄的なユーモアも表れているのではないかと考えさせられます。
全体の作品を通してみると、シュルレアリスムの手法を使われているものは、たくさん見受けられますが、どの作品がどのような手法によって活かされているのかという具体的な解釈を加えることは非常に困難であると思います。
ですが、読者であるわたしたちは自由な発想と思考を持って、新しい視点から安部氏の作品の読み方とその方法を作品から直接学ぶことができるものだと感じます。
シュルレアリスムというと奇抜な発想や非現実的な世界観という印象があると思いますが、安部公房が描く世界や様々な人たちは現実というものきちんと捉えられていることを痛感させられるものがありました。
私は彼の作品を感傷と寓意という二つのキーワードで、彼の思いをなぞらえて、一つの解釈として加えてみることにしました。
数年経っても安部公房の描く作品の魅力は色褪せることはなく、またいずれ彼の作品を読み返す時には私の中の価値は大きく変わっていることだろうと思います。
■総括Ⅱ/-不条理とユーモアの融和性-
安部氏の描く不条理な世界観というのは、あまりにも現実世界と浮世離れしていて、なかなか実感を持って物語を楽しむということが難しく感じる方もなかにはいらっしゃるのではないかと感じます。
私たちは、安部氏の不条理な世界に触れる以前よりも、そうした不条理な状況に遭遇することに慣れていないのではないかと考えられます。
もしも、自分が不条理な出来事を経験することになれば、上手く対処することは不可能でありますし、安部氏の創られた世界に溶け込む自信もありませんし、安部氏が描く人物だからこそ、世界と付き合っていけるのではないかと思います。
では、どのような心構えでいれば、不条理を乗り越えられるのでしょうか。
安部氏が作品で描くテーマには、私たちに対して問題提起を投げ掛けて返答を求めているのではないかと考えられます。
不条理な状況に直面したときにポジティブな考え方や柔軟な思考を持つことの重要性を伝えることは大切なことのように思えます。
仮に、不条理な現実に直面した時に、そうした状況に向き合うための対応力が求められ、あらゆる作品にあらゆるモチーフを内在させてテーマの持った作品を描くことを目的として、絵画や映画などに込められた不条理なテーマを扱った作品などもかなり、影響を受けていることが考えられ、そうした文学作品から私たちが不条理を受け入れるためのヒントや発想の転換を得ることを期待しているのではないかとも考えられます。
では、安部氏の描く不条理の魅力について語るということは、どういうことなのでしょうか。
不条理な世界によって、不条理な出来事に私たちが引き寄せられる理由や不条理によって生まれた現実の状況を自らが体験し、経験することで読者にとって不条理の魅力というのが実感出来るのではないかと感じます。
安部氏の不条理には、ユーモアが持ち合わされており、不条理とユーモアにはどのような因果関係があるのかというのも、一つの疑問なのではないかと思います。
不条理な状況や出来事に対して、どのようにユーモアを取り入れて、私たちは笑いを通して不条理とユーモアを受け入れるという方法についても探求する必要があるのではないかと考えられます。
そして、安部文学は何よりも不条理とユーモアの親和性が高いということは魅力的なことの一つでもあると思います。
■総括Ⅲ/-物語における寓話の座標-
安部氏の文学は、寓話としての座標位置の割合を占めている。
現代の社会問題を取り上げながら、メタファーとして置き換えて、様々な生物の生存権をかけた寓話をかたち作り、人間との共存を描き、同時に人間の持つ特有な狂気性までも描くところなどは圧巻といっても過言ではありません。
寓話というものの本来のあるべき姿というのは、子どもたちに寓話の魅力やその楽しさ、教訓などを伝えるためにあるものだと考えられます。
寓話を題材にした文学を始めとして、映像媒体としても寓話を表題させることは可能であり、時代とともに寓話は現代に沿って進化してきたものがあると考えられます。
過去から、現代へ。昔話の魅力を現代の子どもたちに伝えるべき方法は寓話を語るという術しか思い付くものがありません。
壁や砂、箱というものを使って寓話を描いて見せるという奇抜な発想が思い浮かばないのはもちろんのこと、無関係と思わせたものがまさかの展開で最後には繋がるということもなかなか出来るものではないと思っています。
そこには、安部氏の心身性というものは窺えないのだか、確かに作品には安部氏のエッセンスが十分に詰まっているものがあると感じさせられる。
作家と作品に対する因果の有無についてはあまり重要視するべきことではなく、作家の書き記した作品にこそ焦点を当てて研究するべきことで作家研究や作品研究にも通じるものがあり、作品は作家の本人そのものではないということは明確でありながら、書き手としての作家の思想や感情を読みとく上での重要な手掛かりのように考えられます。
そして、安部公房は晩年の『カンガルー・ノート』で自らの死を予感して、死をテーマとして作品を残し、文学の開拓地を広げてくれた特別な存在へとなり後に、後世の作家たちに多大な影響を与えていく。
一貫性があるように見えて、安部氏の描く作品にはそれぞれ様々な色が色褪せていることに気付かされることとなります。
言葉は、世界をつくりだすための糸のようなものであり、細い糸は長い時間をかけて紡がれ、固有の繭(世界)へと姿を変えるものだと感じました。
世界も感情も、一つのものとしてまとめられ、全てが繭となる。
安部公房の『赤い繭』のように、繭は最終的におもちゃ箱に仕舞われるが、ここでは作品として仕舞われ一冊の本となり誰かのもとへ行き届き今もこうして読み継がれていく。
■あとがき
安部公房の作品を今回読み返すにあたり、作品の制作順に沿って読むということはせずに、私自身がその日の気分で読み返したもの、『壁』から始まり『カンガルー・ノート』の順番で読み返しました。
安部氏の諸作品は、私が持っていないものも調べてみると、まだあるようでしたが、安部公房の代表作からその他のマイナーな作品まで幅広く再読するという行為において気付けていなかったことも今になってからようやく気付くことができたと実感しています。
文学を読む行為は、その他のジャンルの本と比べると時間や労力も相当なものだということを改めて再確認したことと同時に、安部公房の作品に出会えなかったら今の私は形作られていないとそう思わせる特別な存在であると感じました。
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