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【根津記念館】東武を再建した「鉄道王」根津嘉一郎の生家

はじめに

 根津記念館は、東武鉄道の経営など実業家として名を馳せた根津嘉一郎の生家です。甲府盆地の東、山梨市に所在しています。一部の建物が国の登録有形文化財に指定されています。
 この生家は2003年(平成15年)に建物及び敷地が根津家より山梨市に寄贈されました。失われていた建物は設計図を基に復原(現存していた基礎の上に再建築)し、さらに根津の業績を紹介する展示棟なども整備され、2008年(平成20年)より一般公開されています。
 山梨市はこの建物を映画やドラマのロケに積極的に貸し出していて、最近ではドラマ「竜の道」(2022年)で登場しています。

ミュージアムショップ内のポスターと色紙

県内二番の大地主

 根津家は平等ひらしな村(現在の山梨市正徳寺)に本拠を構える大地主でした。農業不況で借金の肩に土地を手放す人がいる一方で根津家は所有地を広げ県内の養蚕地帯に多くの土地を有していました。最盛期(大正時代)には180町歩(1町歩=およそ1ヘクタール)を所有し、山梨県下第二位の所有面積を誇りました。ちなみに一位は「天秤棒を担いで一代で財をなした」という甲州財閥の若尾逸平(事項参照)した。
 ただし、小作争議や嘉一郎の財界人として活躍などから、根津家は収入源を地主経営から株式投資へと変化させています。所有地は少しずつ整理されましたが、それでも終戦時には60町歩も有していました。

記念館の駐車場から、養蚕地域のいまは桃畑

甲州財閥

 明治から大正にかけて東京や横浜で活躍した山梨を出身の実業家、投資家たちを「甲州財閥」と呼びます。財閥といっても経営的なつながりの意味ではありません。
 若尾逸平、雨宮敬次郎に次いで、甲州財閥の三番目に名前が挙がるのが根津嘉一郎です。
 甲州財閥は、鉄道や電灯など公共インフラに先見性を見て、経営に参画していきました。
 筆頭格の若尾逸平(1821年~1913年・文政3年~大正2年)は現在の南アルプス市出身で、東京馬車鉄道と東京電燈(後の東京電力)を買収しました。1990年代に経営破綻した山一証券の創業者の小池国三は若尾の秘書として経営を学び独立した甲州人でした。

若尾逸平(出典:山梨近代人物館HP)

 次に名の挙がる、甲州市塩山の雨宮敬次郎(1846年~1911年・弘化3年~明治44年)も甲武鉄道(都内の中央線)、川越鉄道(西武国分寺線)などを経営し、軽井沢、熱海の観光開発に携わっています。また、はじめは相場師と呼ばれましたが、事業家に転身してからは、伊藤博文や大隈重信らと交流を持ち、豪胆さは「天下の雨敬」と言わしめました。

雨宮敬次郎(出典:山梨近代人物館HP)

 嘉一郎は、若尾より「株を買うなら『明かり』と『乗り物』である」(根津翁伝)と投資家になるよう教えを受け、雨宮からは投資家よりも事業家になるよう勧められたといいいます。若尾と雨宮、ライバル関係二人から学んだことが嘉一郎の成功の背景にあったと言えます。

根津嘉一郎(出典:山梨近代人物館HP)

根津嘉一郎

 根津嘉一郎(1860年~1940年・万延元年~昭和5年)は根津家の次男として 生まれました。
 30代なかばで平等村の村長や県議会議員を勤めていましたが、前述の若尾と雨宮の影響で事業家となります。
 のちに「鉄道王」と呼ばれる嘉一郎は東武鉄道、南海電鉄など多くの鉄道事業に心血を注ぎました。特に東武鉄道は1905年(明治38年)、嘉一郎が社長に就任し経営を立て直したことが有名です。
 鉄道以外でも倒産寸前の会社の株式を取得しては、次々と経営再建した手腕を発揮しますが、世間からは「ボロ買い一郎」と揶揄されました。
 また、事業で得た利益を社会に還元することを考え、高等学校を設立したり、郷里山梨の小学校すべてにピアノとミシンを贈っています。県内の各地に今も残る根津のピアノは「根津ピアノ」と呼ばれています。

展示棟にある嘉一郎が贈ったミシンとピアノ

 下記、拙稿でも根津ピアノを紹介しています。

 また、中央本線で東京へ向かい山梨市駅に差し掛かる手前、並行する道路にかかる橋は1923年(大正12年)に竣工で、嘉一郎が14万円余りの私財で建設し山梨県に寄付したもので「根津橋」と呼ばれます。隣接する万力公園には嘉一郎の銅像があり列車の車窓からも見えます。

庭の片隅に移された初代根津橋の欄干
周囲を堀に囲まれた、巨大な嘉一郎の銅像

根津記念館

 前置きが長くなりましたが、根津記念館は、嘉一郎の生家を公開しているものです。
 ただし、嘉一郎の生まれた当時の生家ではなく昭和初期1933年(昭和8年)に建築された建物です。当時跡をとっていたのは、嘉一郎の兄・一秀の娘婿の啓吉(1874年~1954年・明治7年~昭和29年)でした。啓吉は嘉一郎の希望も取り入れて、現在の建物を建築しました。敷地は6700平方メートルあります。現存する主屋と土蔵、長屋門について国の登録文化財に指定されています。
 また、青山荘と茶室は設計図を素に、残されていた礎石の上に復原されています。

記念館敷地内の建物は配置

 この建物は近代和風建築と呼ばれます。昭和初期は近代工法に和風建築を融合させ建築が好まれ、根津の建物もそうした建築に仕上がっています。

長屋門(登録文化財)

 まず、道路から横に広がる建物の姿をした長屋門が目に入ります。長屋門は受付と事務室、ミュージアムショップ平等|《ひらしな》を兼ねています。
 屋根が微妙に凸状に湾曲しているのですが、数寄屋建物にみられる起|《むく》り屋根という形です。 

受付のある長屋門の中央
内側から見た長屋門、ゆるく屋根が湾曲しています

主屋(登録文化財)

 波紋の描かれた砂利の上を、主屋おもやに向かいます。主屋は地主経営のための機能と居住としての機能を併せ持った建物です。
 近代和風建築で、コンクリートの布基礎で作られ、埋め込み電気配線、消火栓、ボイラー設備など最新の技術を取り入れています。

母屋から青山荘の渡り廊下に消火栓ホースが
勝手口近くにあるボイラー

 正面入口が土間になっていて、靴を脱いで上がると畳敷きになっています。これは地主経営のための帳場です。

母屋の正面入口
帳場、象牙の鷲の彫刻があります

一階の居間

 帳場から奥へ進むと廊下一直線の廊下があり手前から「茶の間」「婦人の居間」「主人の居間」と部屋が並びます。その先が土蔵に繋がります。部屋は有料で貸し出しもしています。訪問時には琴や尺八の演奏の方々が稽古をされておりました。「主人の居間」「婦人の居間」には入れませんでした。

琴、尺八を聞きながら散策
茶の間
中庭に面した廊下

仏間、トイレ

 「主人の居間」より廊下を挟み仏間があります。仏壇があるべき場所は空いていました。ここでは昔の母屋の写真などを展示しています。

工事の写真などが展示されています

 廊下の先に当時のトイレが残されています。見学用のため使用できません。ちなみに見学者用のトイレは洋式のものが館内の別の場所に整備されています。

台所

 帳場から左に入ると台所や女中の部屋などがあります。
 台所は大変広いです。かまどは2つあります。地下貯蔵庫があったり、氷式の冷蔵庫もあります。

勝手口から撮影
地下貯蔵庫への階段
勝手口と使用人の出入口だけでもりっぱな作り

洗面所と浴室、女中の部屋

 使用人のための部屋が台所の近くにあります。何人で住み込んでいたのか分かりませんでしたが、質素で小さい部屋です。

使用人の出入口
女中の部屋、偶然にもそれらしく散らかってます

 洗面所と浴室があります。昭和初期のためタイル造りになっています。風呂釜は五右衛門風呂です。

銅板製でしょうか
タイルは昔のたいへん大きなもの

二階の書斎と座敷

 二階へ上がると書斎と座敷が二間続きます。書斎にある大きな机は東武鉄道の社長の机です。

東武鉄道の社長の机が置かれた書斎
座敷が二間あります
二階から見た中庭

土蔵(登録文化財)

 母屋の奥に土蔵があります。木造三階建ての土蔵は登録文化財となっています。内部では嘉一郎及び啓一など根津家に関する資料を展示しています。
 また、蔵前には金庫が展示されています。

土蔵の外観
母屋と土蔵の間の蔵前
蔵前に置かれた巨大な金庫
嘉一郎に関する品々
貴族院議員も務めた啓吉に関する品々
伊藤博文の書「琴書を友と為す」

 伊藤博文の書があります。伊藤が中央線開通直前の1903年(明治36年)に、親交のあった雨宮敬次郎の塩山の生家と甲府を訪問した折に嘉一郎がしたためてもらったものです。

展示棟「八蔵」

 展示棟が奥にあります。外観は米蔵の姿をしていますが、入口は自動ドアで内部は美術品のための空調が行き届いています。

外観はかつて存在していてた第八倉庫を再現

 中央に入口があり、常駐はしていませんが案内用のカウンターがあります。常設展示室では嘉一郎の生涯をパネルで解説しています。企画展示室は正月には貴重な屏風が飾られるなど美術品の展示に使用されます。

外観とは異なり自動ドアです
カウンターから見た常設展示室

青山荘と茶室

 財界、政界の富裕層が茶の湯をたしなんでいました。彼らを近代数寄者すきしゃと呼んでいます。嘉一郎も近代数寄者と呼ばれました。
 青山荘は「青山せいざん」の号で茶の湯をたしなんでいた嘉一郎のための茶室を備えた迎賓館的建物です。母屋とは廊下で繋がっています。
 基礎しか残っていませんでしたが、2006年(平成18年)に残された基礎の上に建物が復原されました。

青山荘の入口
庭から見た青山荘
中庭から見た青山荘
二間あり、廊下の先に茶室があります
手前の間から奥の間
書院造りの奥の間

 奥に進むと茶室「燕子花かきつばた」があります。数寄者の嘉一郎は要人を茶でもてなしたことでしょう。

富士山を借景とした庭が見えます

 外は富士山を借景とした庭園が見えるのですが、訪問時は見えませんでした。大きな松は「大磯の松」といいます。建築時に嘉一郎の大磯の別荘から移した松です。

大磯の松

おわりに

 生家と聞くと江戸や明治の頃の建築をイメージしますが、意外にも昭和初期の建築物です。それでも、和風を取り入れた建物は圧巻です。また、嘉一郎がここで客人をもてなしていたことからも、東京と山梨を行き来していたことが伺われます。
 余談になりますが、冬の見学は畳が非常に冷たいです。土蔵は中がとくに冷えています。スリッパの用意はないので、自前でルームカバーなど用意していくとよいです。

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