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【宮光園】企画展「明治の鉄道王 雨宮敬次郎展」を見に行く

はじめに

 2023年は甲府まで中央本線が開通して120年の節目の年でした。甲州市では勝沼の宮光園を会場に、企画展「明治の鉄道王 雨宮敬次郎展」(2023.10.4~11.27)を開催しました。
 甲州市塩山からは「甲州財閥」と呼ばれる明治時代の経済人のひとり雨宮敬次郎あめみやけいじろうが出ています。雨宮は多くの鉄道経営に携わったことから「鉄道王」と称された人物です。八王子から甲府までの笹子トンネルを通る現在のルートの立案者でもありました。また、経済的手腕を「天下の雨敬」と大隈重信にいわしめましたが、甲州市塩山では親しみを込めて「雨敬さん」と呼びます。
 そんな雨宮敬次郎について、パネルや関係者からの貴重な資料で紹介する展示です。

のぼり旗の翻る宮光園の表門

 宮光園は甲州市で管理公開している醸造所と観光ぶどう園の跡です。詳しくはこちらをご覧ください。


明治の鉄道王 雨宮敬次郎展

 この雨宮敬次郎展は、日本遺産「葡萄畑が織りなす風景」としての事業のようで、のぼり旗など宣伝物がたいへん多く、力の入れようが感じられます。

 甲州市には、甲斐大和(旧初鹿野)、勝沼ぶどう郷(旧勝沼)、塩山と3つの駅があります。勝沼は甲州街道の宿場として発展しましたが、塩山は中央線の開通とともに発展した町でした。
 少しややこしいのですが、今回の展示は塩山出身の雨宮敬次郎について、勝沼の文化財施設の中で展示しているのです。

宮光園の建物の外観

 宮光園の一階の広間には、展示ケースやパネルを配置して企画展示会場としています。

パネルが並ぶ広間
貴重品な史料が並ぶガラスケース
肖像写真を使ったチラシ
裏面は雨宮と宮光園の紹介

 注目はチラシ裏面にある「甲州市のワイン産業の発展と、」です。ではどのように貢献したのか、展示全体からもキャプションからも具体的に分かる解説はありませんでした。

こちらも「と、」です。しかし雨宮によるワイン産業への発展はみつかりません。

 雨宮は勝沼駅が設置されぶどうの出荷が盛んになるより前に亡くなっています。また雨宮の活躍の場は横浜や東京でした。
 そこでふと気になったのが「と、」です。日本語的に不自然な句読点です。「と、」は「ワイン産業の発展」で一度切るためのものでしょう。雨宮に掛かるのは「日本の鉄道敷設に貢献した男」なのです。日本遺産「葡萄畑が織りなす風景」の関連事業にするための苦心が伺えるというか、紛らわしいキャッチコピーです。

雨宮敬次郎(1846年~1911年) 出典 : 山梨近代人物館HP

 筆者の理解している雨宮の山梨に対する貢献です。明治20年代、ほかの地域より出遅れていた甲府までの鉄道建設について、八王子-甲府のルートを主張して請願書を出しました。一度は却下されるものの軍事的な理由から雨宮の主張した現在の中央線ルートが国家事業として採用されます。また、中央線ルートを主張するにあたり自費にて測量するなどしています。
 また、伝承にすぎませんが、中央線が塩山駅に向かい北に大廻りをしているのは雨宮敬次郎が政治力により郷里に鉄道を通したとの逸話が有名です。逸話の真偽は終盤で触れますが、言うならば中央線の駅とともに発展した塩山地域にはたいへん貢献したと思われています。しかし、鉄道の駅から大きく外れた甲州街道沿いの勝沼地域からは恨まれはすれど、貢献したとは思われていません。
 下記地図は、塩山駅の位置です。東側の甲斐大和駅からは甲州街道と離れ山肌を沿うように北へ向かい迂回していることが見て取れます。

勝沼のワインと鉄道の関わり

 では、先に鉄道と勝沼のワインの関わりについて見ていきましょう。雨宮敬次郎は出てきません。
 勝沼ぶどう郷駅(旧勝沼駅)は菱山地区にあります。甲州街道とはだいぶ離れた山の上です。開業も塩山駅などから遅れること10年後の1913年(大正2年)に、勝沼町と一宮町の請願により信号所を駅に昇格させています。勾配の途中にあるためスイッチバック式の駅でした。
 駅の設置により、ワインの出荷は鉄道を利用できるようになりました。それまでは、馬に積み少量ずつ3日から6日かけて甲州街道で運んでいました。

ワインに使用される甲州ぶどう

 甲府までの開通のために、小仏峠と笹子峠を長大なトンネルで貫きました。笹子トンネルは当時日本最長のトンネルであり、工事には大量の煉瓦が使用されました。煉瓦は笹子峠の東側と西側にそれぞれ工場設けて製造されました。
 勝沼に残る、龍憲セラーでは煉瓦を利用した半地下式のワイン貯蔵庫が見られます。ほかにも勝沼の甲州街道沿いには煉瓦を利用した蔵や塀なども見ることが出来ます。トンネルの工事で作られた煉瓦が利用されているのです。

煉瓦を用いた龍憲セラー

 旧田中銀行の蔵も煉瓦造りです。詳しくはこちらをご覧ください。

 笹子トンネルから勝沼ぶどう郷駅の間にある旧深沢トンネルは煉瓦積みのトンネルです。1997年(平成9年)に新しいトンネルに切り代わったため現在は甲州市に払い下げられてワインカーブ(貯蔵庫)として利用されています。
 こうしたところに鉄道と勝沼のワインの関わりが見て取れます。

旧深沢トンネルのワインカーブ

雨宮敬次郎

 雨宮敬次郎の話に戻ります。雨宮の人物像を概観しながら、展示資料を紹介します。
 「投機界の魔王」「天下の雨敬」「鉄道王」これらは、雨宮敬次郎の人生を如実に表わした異名です。
 展示の写真は、雨敬というとよく見かける肖像写真の原本です。

「天下の雨敬」の写真

(1)投機界の魔王

 雨宮は、1846年(弘化3年)東山梨郡牛奥村(甲州市塩山)の名主の次男として生まれました。
 7歳で中萩原村(現在の甲州市塩山中秋原)の慈雲寺の住職白巌はくがんのもとへ通います。慈雲寺は樋口一葉の父も中萩原村出身でここに学んでいます。

慈雲寺(甲州市塩山)

 白巌住職が亡くなり、一宮村(笛吹市一宮町)浅間神社の神官古屋周斎のもとで13歳まで学びます。この塾には後に陸軍中将で「今信玄」との異名をとった田村怡与造たむらいよぞう(1854年~1903年、嘉永7年~明治36年)も通いました。

一宮浅間神社(笛吹市一宮町)

 田村怡与造についてはこちらをご覧ください。

 14歳になった雨宮は父からの1両を元手に玉子や繭、生糸の商いを始め、15歳の暮れには15両に増やし、19歳では600両を貯めるに至りました。その600両で大もうけを試みて蚕の種紙を仕入れて横浜へ売りにいきますが、相場が下がり、逆に300両の借金を作ってしまうことになります。
 その後、実家へ戻り25歳までさまざまな商売を経験し、1870年(明治3年)、26歳で再び横浜へ進出します。横浜では両替屋に居候し、維新直後の激しい時代にドル、銀などの相場を学びました。
 生まれ持っての豪胆な性格が功を奏し、生糸相場で儲けるかと思えば、失敗して一晩で一文無しなるなど、雨宮の人生の前半は相場による浮き沈みの大きい人生であり、そのような雨宮を横浜では「投機界の魔王」と呼びました。

(2)天下の雨敬

 雨宮の人生の転機は30歳のときです。手持ちの利益で1876年(明治9年)から半年間、ヨーロッパ・アメリカを見聞する旅に出たのです。
 帰国後は、漆器、陶器、製糸、蚕の種紙などを取り扱い、安定した商売を展開しました。そして、アメリカでの見聞をもとに製粉会社(日本製粉、オーマイ)を設立しました。
 「わたしは人よりは少し先が見える傾向がある。」は見分の旅から帰国した時に語ったと伝えられています。

ミラノでの写真(1877年)、後列右端が雨宮
「わたしは人よりは少し先が見える傾向がある。」

 西南戦争の影響で不換紙幣の価値が下がっていた時期、雨宮は、五代友厚(大阪商法会議所会頭)の要請で相場を動かし、紙幣の下落の回復に奔走しました。一方で「甲州財閥」の若尾逸平はこのとき価値が半値に下落した紙幣を大量に購入し、価値が回復したときに倍にして儲けました。しかし雨宮は相場を動かす立場にあったにもかからず個人的な投機はほとんど行っていません。

(3)軽井沢開発の父

 1883年(明治16年)、雨宮は荒地だった軽井沢に1000町歩余りの土地を買い開拓に着手しました。そこで葡萄、麦など栽培を手がけるのですが、寒冷地のために失敗しました。その後、所有地にカラマツを植林しました。カラマツの植林事業は成功し、カラマツ林は軽井沢の風景となります。現在でも、開拓地に「雨宮新田」の名が残っています。また、別邸の「雨宮御殿」があり、裏にある小山は「雨宮山」と呼ばれ、雨宮と妻のぶの墓があります。

軽井沢の雨宮御殿
雨宮御殿のイチイの木とカラマツの景観

 ケースには雨宮の戸籍謄本があります。住所は長野県北佐久郡東長倉村(現在の軽井沢町)になっています。

戸籍謄本、敬次郎、亘ほか戸籍が分かる
息子敬三郎(夭逝か?)の命名書、明治35年
家族写真

 伊藤博文との交流は明治18年頃からといわれています 。大隈重信に「天下の雨敬」といわしめたように、人生の後半は、公共の意識を持ち事業に力を発揮していきます。「事業は政治よりも生命がある」とは、甲州財閥の後輩格にあたる根津嘉一郎への言葉です。政治家の功績はその時だけだが事業で残したものは長く残るという、事業を重視した言葉です。

(4)「鉄道王」

 「鉄道王」とも呼ばれた雨宮の鉄道との関わりは、甲武鉄道が始まりです。1886年(明治19年)、雨宮は甲武鉄道の株を購入し、経営権を手に入れました。その後、甲武鉄道は明治22年までに新宿-八王子と延伸開業したのです。

明治22年の開業時の沿線の名所を記した錦絵
甲武鉄道御茶ノ水駅(1905年)
甲武鉄道の車両ハニフ1号、現在は鉄道博物館が所蔵

 このほかに雨宮が関わった鉄道は、川越鉄道(西武国分寺線)、北海道炭礦鉄道(函館本線の一部)、大師鉄道(京急大師線)があります。

(5)軽便王

 雨宮は「軽便王」とも呼ばれました。軽便鉄道や市街鉄道の経営としては、豆相人車鉄道(熱海)、仙人鉄山(岩手県)、東京市街鉄道(都電)、江ノ島電鉄があります。1908年(明治41年)には軽便鉄道会社8社を合併し大日本軌道を設立します。また軽便鉄道用の車両の自社生産も行いました。
 雨宮の鉄道経営の考え方は、輸送力と資金に合わせて通常の鉄道か軽便鉄道かを選択するというものでした。地方交通には初期投資が少なくて済む軽便鉄道を積極的に採用しました。

(6)熱海と人車鉄道

 熱海梅園には熱海の発展に尽力した雨宮敬次郎翁碑があります。その始まりは、豆相人車鉄道でした。この人車鉄道とは、客車を人が押す鉄道で、芥川龍之介「トロッコ」にも登場しています。雨宮が1896年(明治29年)に小田原から熱海まで開通させました。

1957年(昭和32年)に行われた記念碑除幕式の挨拶状

 180センチ、100キロを超える体格の持ち主であった雨敬ですが、実は病気がちで軽井沢の開拓へ至る前の明治14年に結核を病みました。湯治のため熱海を利用していましたが、熱海へ向かうには小田原から駕籠か人力車を利用していました。そこで考えついたのが人が押す鉄道でした。駕籠の1円よりも60銭と安く、熱海温泉からは歓迎されました。その後、軽便鉄道へ改修しました。のちに丹那トンネルの開通により熱海を東海道線が経由することになり現在も温泉の町として繁栄しています。

主夫が押す人車鉄道
豆相人車鉄道の解説
人車鉄道記念碑と豆相人車鉄道根府川駅跡

 熱海へ向かう交通の変遷が絵葉書で紹介されています。それによると、小田原-熱海の変遷は
 駕籠(明治14年迄)、約6時間
 人車鉄道(明治29年~40年)、約4時間
 軽便鉄道(明治40年~大正14年)、約3時間

左から、駕籠、人車鉄道、軽便鉄道
左から、汽車鉄道、電気鉄道、湘南電車

 汽車鉄道(大正14年~昭和3年)、53分
 電気鉄道(昭和3年)
 湘南電車、東京-熱海 90分

(7)中央線甲府延伸へ尽力

 甲武鉄道を延伸する形で八王子から甲府までの山梨鉄道設立の請願書を提出したのは前述のとおりです。それより先に、甲州財閥の若尾逸平は甲信鉄道を設立し、御殿場から甲府へ向かう鉄道の計画を申請しました。
 1892年(明治25年)、中央線は軍事的な理由から国による建設が決定されましたが、その経緯について、雨宮は「鉄道国有の素論」の中で、「二度まで鉄道庁へ出願した(ママ)二度とも却下にはなつたが今の中央線は全く私の発見した線路だ、政府は私達の調査した線路をそのまゝ使用したのだ」 と、山梨鉄道の出願にふれ中央線に関する自負がうかがえる発言をしています。
 山梨鉄道設立(八王子ルート)の請願書の一部です。雨宮の計画では小仏峠は越えずに、橋本から甲府盆地へ向かっています。また、塩山付近の大回りはなく笹子峠を抜けると甲州街道へ向かっています。

山梨鉄道設立の請願書の一部

 小仏トンネルと笹子トンネルの工事が難所でした。完成当時、笹子トンネルは日本最長を誇り、複線化された現在も下り線用として現役です。
 トンネルの入り口に掛かる扁額は、
 東側大月方面「因地利」(地の利に因って)揮毫伊藤博文
 西側甲府方面「代天工」(天に代わって工事する)揮毫山縣有朋
となっています。

当時と現代も現役の笹子トンネルの姿
右2枚、大月方面「因地利」
左2枚、甲府方面「代天工」

 甲府開業の明治36年3月、元総理大臣の伊藤博文が雨敬の生家を訪問しています。生家付近に臨時の停車場を設け、試運転列車に乗りやってきました。生家までの道には玉砂利を敷かれ、宿泊のための離れが新築されています。伊藤が訪れたことに地元はたいへん沸き返り、さすがは雨敬と報道されています。また伊藤は翌日には甲府へ移動して歓迎を受けています。
 その3か月後の明治36年6月9日、中央線は甲府まで開業しました。駅前にはアーチが築かれ盛大な式典が催されました。

開業当日の甲府駅

(8)総持寺との関わり

 総持寺は横浜市鶴見区にある曹洞宗の寺院ですが、かつては石川県能登にありました。大火災にて焼失し1911年(明治44年)鶴見に移転しています。
 明治35年、雨宮は妻のぶの一周忌を管長へ依頼したところ能登の総持寺の再建を依頼されます。雨宮は京浜電鉄(現京浜急行)の経営もしており、鶴見の土地10万坪と資金5万円(16億5000万円)を寄付しました。
 総持寺は雨宮の銅像を建立し、雨宮の三周忌には、還暦時の色紙(後述)に書いた「志存濟物」(志あればすべて救う)を碑にしています。銅像は戦時中の金属供出により台座のみが残ります。

総持寺の解説

 下記、左の写真が雨宮の碑です。右の写真は、雨宮亘(娘婿)の銅像なのですが、なぜ亘の銅像があるのかは分かりませんでした。

雨宮の「志存濟物」の碑と雨宮亘の銅像

(9)還暦祝い

 1906年(明治39年)、雨宮は還暦祝いを東京九段のそで行い、その宴の規模は当時の人々を驚かせました。

『風俗画報』345号に掲載された宴の画

 還暦祝いの招待客は2千人で高さ23メートルの富士山が設けられて富士山の内部がパーティの会場でした。
 また、還暦を祝って故郷へ寄付したのが、塩山駅から生家に向かって東に伸びる雨敬新道と重川に架かる雨敬橋です。この資金は甲武鉄道が国有化されたときの売却代金25万円(現在の価値で8億2000万円)が当てられたといいます。
 余談ですが、雨宮の自宅は後に大火災事故を起こしたホテルニュージャパンが建った場所です。

 還暦を祝った色紙帖の写しが公開されています。雨宮の交友の広さを示す色紙です。いままで展示されるきかいはあっても、中の色紙をすべてパネルにして見せることはありませんでしたので大変貴重な展示です。

両側に並ぶ色紙の写し

 雨宮のために寄せた色紙には錚々たる人物が並びます。

伊藤博文
大山巌
高橋是清
井上馨
雨宮敬次郎「志存濟物」(志あればすべて救う)
渋沢栄一
若尾逸平
松方正義
犬養毅
桂太郎

 1911年(明治44年)、雨宮は66歳で永眠しました。雨宮の手がけた事業は婿養子らが継承したものの昭和の恐慌など時代の変化の中で次第に振るわなくなっていきました。
 個人蔵の書には「志在不朽」(志があれば朽ちない)とあります。

雨宮敬次郎書「志在不朽」

 「雨宮敬次郎苦闘六十年物語」は、雨宮信一郎(養子)から見た雨敬の生涯を記したものです。速記者となっている桜内幸雄は雨敬唯一の自伝で著書である『過去六十年事蹟』を出版した人物です。

「雨宮敬次郎苦闘六十年物語」
「雨宮敬次郎苦闘六十年物語」

土地を提供し迂回させた?

 本展示にある「甲武鉄道の開業と反対運動」というキャプションボードの内容は、甲武鉄道の反対の経験から中央線の敷設にも反対運動が起きて、それを収めるために自身の土地を提供し生家のある塩山へ向かい大きく迂回させたという内容です。

江宮隆之『天下の雨敬、明治を拓く』抜粋

 この引用は江宮隆之『天下の雨敬明治を拓く』河出書房新社2012、からの引用です。江宮氏は映画化された『白磁の人』などの著作で著名な作家です。しかしこの内容は小説のためフィクションの可能性が高いです。
 そもそも甲州市は、勾配がきついので大廻りしたと公式に説明しています。しかしこの展示方法では反対運動のために雨宮が北に迂回させたとする説を掲げています。
 筆者は反対運動はなかったと見ています。反対運動があるなら紙切れひとつあっていいはずです。ないので小説の抜粋から紹介していることに注意してください。

 下記パネルは、雨宮の生家から塩山の町を見下ろす風景です。勝沼ぶどう郷から塩山へ向かう下り列車に載っていると一気に地平に降りてくるように感じるところです。写真の真ん中に見える小高い山か塩山の由来になった塩ノ山です。大回りしてもこれだけの急斜面を下っているのです。

甲州市塩山牛奥、雨宮の生家の風景

塩山迂回は伝承にすぎない

 中央線が塩山のある北へ大きく迂回している理由にご興味があれば、もう少しお付き合いください。
 政治家や有力者が出身地に鉄道を引いたり、新駅を設置したりする「我田引鉄」の言い伝えというのは各地にありますが、雨宮についても塩山へ鉄道を回させて駅を作ったと伝わっております。特に年配の方に伺うととほぼ間違いなく、そのとおりだと答えます。
 結論から言うと、伝承にすぎません。当時の蒸気機関車の登坂能力が足りず、甲州街道のある勝沼へ向かうには勾配が急過ぎたのです。勾配をゆるめるために塩山へ大廻りしたのが本当の事情です。甲州市(合併前の塩山市時代から)の公式な見解です。「塩山市史」に記述があります。
 また、八王子から笹子トンネルの工事に至る工事記録に関する史料からも地形の問題を裏付けることができます。
 鉄道作業局八王子出張所所長の古川阪次郎の演説(『工学会誌』第211巻に収録)に依れば、笹子トンネルから甲府へ向かうルートについて、1893年(明治26年)2月に鉄道省で内定した計画では笹子トンネルから一気に勝沼宿へと下るとされていました。しかしその後、当初予定していたアプト式(碓氷峠で採用、歯車をかみ合わせて勾配を上る方式)の鉄道では輸送力が落ちるとして、陸軍より変更を迫られ再調査が行われて変更に至っています。

鉄道忌避運動もなかった

 また、かつては養蚕が盛んであったため、勝沼地域の住民が鉄道の煙を嫌ったという鉄道忌避運動が起こっていて、むしろ鉄道が塩山をまわることに歓迎したという言い伝えもあります。言い伝えだけです。こちらも住民運動を伝える史料はひとつも出ていません。
 反対運動が起きるなら、石和でも山梨市、甲府でも沿線すべてで反対運動が起きるはずですが、反対運動を示す史料はありません。
 ただし、笹子トンネルと鉄道工事に使用する煉瓦を製造する工場からの煙に関する反対運動の史料は残っています。工場は、現在の塩山西野原地区にありました。『塩山市史』によれば、明治30年に西野原地区の総代から東山梨郡長に「御願」が提出されていて、工場の煤煙による桑の葉の枯渇や煤煙の臭気の被害を訴えるもので、養蚕期間中に工場の休業を求め、協定が結ばれています。
 鉄道敷設への反対運動についても、もし実際に行なわれていたとしたら、そのことに関する文書史料が残されていてもおかしくないはずです。

いつから始まった言い伝えか

 「雨敬」が鉄道を塩山に引いたという伝承がは大正時代にはあったようですが、昭和時代の30年代から40年代に活字媒体により全国的に広まり有名になっていることは確認できています。詳細は伏せますが、大本になった著述とその広がり方もほぼ特定できています。
 当時の山梨は郷土研究の黎明期で研究家が乏しかった事情もあり、そうしたことが伝承をひろめてしまった一因にあります。
 しかし現代においても、展示における『天下の雨敬明治を拓く』の引用がそうですが、こうした著述によっていまでもまことしやかに塩山に鉄道を曲げたという雨宮の伝承が続いていくのです。

おわりに

 雨宮敬次郎の企画展の紹介でしたが、後半は雨宮の伝承に対する筆者の持論を展開してしまいました。長らくお付き合いくださりありがとうございました。
 そもそも、甲州市には雨敬の業績についての史料はほとんどありません。東京、横浜、軽井沢を本拠にしていたからです。
 「天下の雨敬」の異名もあるなど、功績も多い人物です。伝承よりも実際の功績が取り上げられるよう甲州市は史実に沿った雨宮をもっと掘り下げていくべきだと思うものです。

参考文献
山梨県『山梨県史』通史編5 近現代1、山梨県、2005
塩山市史編さん委員会『塩山市史』通史編 下巻、塩山市、1998
勝沼町誌刊行委員会『勝沼町誌』勝沼町役場、1962
一宮町『一宮町誌』一宮町役場、1967
雨宮敬次郎『過去六十年事蹟』桜内幸雄、1907
江宮隆之『天下の雨敬、明治を拓く-鉄道王 雨宮敬次郎伝』河出書房新社、2012

参考資料
小畑茂雄「シンボル展生誕200年若尾逸平」関連イベント・かいじあむ講座「若尾逸平の鉄道事業」(山梨県立博物館生涯学習室、2021.5.23、13:30~15:00)配布資料
小畑茂雄 令和5年度第3回「山梨近代人物館教育普及事業」山梨近代人物額講座「近代日本を駆け抜けた山梨の鉄道人たち」(山梨県庁別館「正庁」、2023.6.11、13:30~15:30)配布資料

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