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【山梨県立美術館】年始に「ミレー館」を見に行く2024

はじめに

 山梨県立美術館の年始は1月2日より開館します。初日はミレーとバルビゾン派の作品を集めた常設展「ミレー館」の写真撮影が可能になるのですが、本年は1月3日に変更になりました。
 昨年に続き、普段は直接カメラに収めることのできないミレー館の様子を収めつつ鑑賞に出かけてまいりました。

年始の美術館

 なお、昨年の年始についてはこちらをご覧ください。


年始営業

 山梨県立の見学施設は例年1月2日より開館しています。その代わり美術館の場合、年末は12月26日~1月1日とやや早めに休館に入ります。
 例年、1月2日にミレー館の写真撮影が可能になりますが、本年は諸般の事情とのこので1月3日に変更になりました。年始の美術館は普段の休日より客足は多めです。とくに家族連れの姿が多く感じられます。

門松がお出迎え

 本稿、ミレーの生涯や作品の説明は昨年模様の再掲になります。ただし、画像は記載したもの以外すべて新規撮影しております。
 後半のバルビゾン派の作品は一部入れ替えられていますが、こちらもほぼ再掲になります。昨年は展示されていたミレーのエッチング作品は本年はありませんでした。

ジャン・フランソワ・ミレー

 ジャン・フランソワ・ミレー(1814~1875年)は19世紀のフランスの画家です。
 宗教や高貴なテーマで絵画を描くことが主流だった美術界において、農民の姿を描いたミレーの作品は、当初、批判にさらされました。
 ミレーはパリ郊外のバルビゾン村へ移り創作活動を続けました。ミレーのほかにもコローやルソーなど画家たちがバルビゾン村で活動をしました。彼らはバルビゾン派と呼ばれます。
 公園内には「バルビゾンの庭」がありミレー(右)とルソー(左)の記念碑があります。下記画像は秋に撮影したものです。

アンリ・シャピュ《ミレーとルソーの記念碑》1884 2022年11月

コレクション展A(ミレー館)

 常設展示をコレクション展と称しています。コレクション展AとBのうち、Aがミレーとバルビゾン派の作品を展示するミレー館です。
 ミレー館は、2009年(平成21年)に開館30周年を記念し本館2階の常設展示室をリニューアルしたものです。

エントランスからミレー館への階段

(1)ミレー生涯と作品

 山梨県立美術館が所蔵するミレーの作品は、油彩画12点、版画、デッサンなど58点、計70点(2022年現在)です。年4回の入替が行われるものの油彩画については通年展示しています。
 この美術館の開館にあたり、どのような作品を収蔵するかについて初代館長を務めた千澤楨治からミレーらバルビゾン派がよいのではと提案がありました。西洋画であれば当時ほかの美術館と差別化が図れること、また、バルビゾン派のテーマである自然の営み、農村風景が山梨の雰囲気と合うことなどが理由でした。

タペストリーと《種をまく人》

(1-1)画家としての出発

 ジャン・フランソワ・ミレーは1814年、農家の長男として生まれました。
 1833年、農家を出て美術教育を受け始めます。1837年奨学を得てパリの美術学校へ進みます。
 若いころのミレーはサロン(官展)での入選を目指して聖書や神話といった主題を手掛けていました。1940年、肖像画がサロンで認められると依頼が舞い込み肖像画を多く残しています。

人物画など初期の作品

 左の女性の肖像画はミレーの最初の妻です。モナ・リザを思わせる構図ともいわれています。1841年、ミレーは仕立て屋の娘ポーリーヌ・V・オノとに結婚し、2人はパリへ移ります。しかし、1843年、結核によりポーリーヌは亡くなります。

ミレー《ポーリーヌ・V・オノの肖像》1841~42頃
ミレー《ポーリーヌ・V・オノの肖像》1841~42頃 部分

 1845年、ミレーは家政婦をしていたカトリーヌ・ルメールと再婚します。二人の間には9人の子どもをもうけています。《眠れるお針子》はカトリーヌを描いた作品と言われています。

ミレー《眠れるお針子》1844~45
ミレー《眠れるお針子》1844~45 部分

 《ダフニスとクロエ》は古代ギリシャの詩人ロンゴスによる恋愛物語の一場面を描いたものです。カトリーヌと結婚して間もないミレーが生活費を得るために描いた絵のひとつです。

ミレー《ダフニスとクロエ》1845頃
ミレー《ダフニスとクロエ》1845頃 部分

(1-2)農村の労働や暮らしを描く

 1949年、ミレーはバルビゾン村に移住し生涯暮らします。
 パリにいた頃より農民の姿を描くことが少しずつ増え、画風もやわらかなものから力強さが表れてきます。

代表作《種をまく人》と《落ち穂拾い、夏》

 《種をまく人》はバルビゾン村に移りはじめて手がけた大作です。《種をまく人》という題材にミレーはたいへん興味をもっていました。
 1851年のサロンで《種をまく人》が入選します。しかしこの入選について、農民の力強い姿を描いたと称賛の一方で、農民の貧しさを訴える政治的なものであると批判があがり激しい論争となりました。
 ボストン美術館にも《種をまく人》が収蔵されています。山梨とボストンどちらがサロン出品作かは議論が分かれています。

ミレー《種をまく人》1850
ミレー《種をまく人》1850 部分

 ミレーは生涯に3度、四季連作を制作しています。《落ち穂拾い、夏》は最初の連作の「夏」の作品です。
 これも貧しい農民の姿です。地主は刈った穀物の一割ほどの穂を地面に残しておきました。畑を持たない農民はそれを拾っていました。背後の収穫された穀物の大きな山と対照的に描かれています。

《落ち穂拾い、夏》1853
《落ち穂拾い、夏》1853 部分

 ミレーは、畑の労働だけではなく、家事や家畜の世話など農村の暮らし全般を主題として描くようになります。

生活と自然を描いた作品たち

 《角笛を吹く牛飼い》は開館30周年記念事業として2008年に購入したものです。

ミレー《角笛を吹く牛飼い》制作年不詳
ミレー《角笛を吹く牛飼い》制作年不詳 部分

 《鶏に餌をやる女》は開館20周年記念事業として1998年に購入したものです。農婦のモデルは、後妻のカトリーヌといわれています。

《鶏に餌をやる女》1853~56
《鶏に餌をやる女》1853~56 部分

(1-3)人々を取り巻く自然を描く

 1960年頃よりミレーの評価は上がってきます。経済的にも安定してきました。1867年のパリ万国博覧会では、一室を与えられて《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》ほか9点の代表作を展示し高い評価を得ました。
 また、1950年代後半から、人物中心から自然の描写にも重きが移ってきています。サロンにも風景画を出品するなどしています。
 1970年には普仏戦争の戦火を逃れ故郷へ疎開したこともありましたが、1875年バルビゾンの家で60歳の生涯を閉じます。

人々を取り巻く自然を描く 概観

 《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》寒さに耐えるかのような、厚手のマントの羊飼いの姿です。羊飼いは農民から距離を置かれた存在でしたが、聖書の中では「聖なる賢者」として描かれていてミレーが好んだ題材でした。

ミレー《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》1857~1860
ミレー《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》1857~1860 部分

 ミレーが風景を描き始めた1862年頃の作品です。バルビゾン村とフォンテーヌブローの森を区切っている古びた塀と、そこから顔を覗かせる鹿のほか、カエルやタンポポなどが描かれています。
 2012年に山梨県が購入しましたが、それまでアメリカの個人所有で公開されず「幻のミレー作品」といわれていました。

ミレー《古い塀》1862頃
ミレー《古い塀》1862頃 部分

 1870年、普仏戦争で戦火を逃れフランス北西部の港町シェルブールに半年ほど滞在しています。《クレヴィルの断崖》とはほど近い港町から描いた風景です。

ミレー《クレヴィルの断崖》1870
ミレー《クレヴィルの断崖》1870 部分
(ピンぼけご容赦)

(1-4)ミレーの注文制作

 ミレーは、注文により神話やキリスト教を主題にして描くことがありました。

注文による宗教画

 《凍えたキューピッド》はミレーが手がけた二番目の四季連作の「冬」です。古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩から着想を得ています。パリに新築する銀行家トマ邸の食堂装飾のために制作されました。

ミレー《凍えたキューピッド》1864~1865
ミレー《凍えたキューピッド》1864~1865 部分

 《無原罪の聖母》はローマ教皇のピウス9世のための特別車両の礼拝室に設置するために制作を依頼されたものです。

ミレー《無原罪の聖母》1858
ミレー《無原罪の聖母》1858 部分

(2)自然を描く画家たち-バルビゾン派を中心に-

 バルビゾンには、ミレーより先にテオドール・ルソーをはじめとする画家たちが先に移住していました。
 隣の展示室ではコロー、テオドール・ルソー、クールベ、ドービニーなどのバルビゾン派と呼ばれる画家たちの作品18点が展示されています。

タペストリーとバルビゾン派作品の概観

(2-1)バルビゾン派以前の風景画

 バルビゾン派に影響を与えた画家の風景画から3点紹介しています。

バルビゾン派以前の風景画

 クロード・ロランは17世紀の風景画家で光に満ちた独特の風景画を確立しました。
 《木を伐り出す人々(川のある風景)》は人々が伐採した木を船に運び込ぶ姿とともに夕暮れの寂しげな情景が表現されています。

クロード・ロラン《木を伐り出す人々(川のある風景)》1637頃
クロード・ロラン《木を伐り出す人々(川のある風景)》1637頃 部分

 ライスダールは、17世紀オランダを代表する風景画家で、バルビゾン派や後世の風景画家たちに影響を与えています。
 《ベントハイム城の見える風景》は、オランダ国境に近い小さな村ベントハイムの城の風景を描いています。ライスダールはこの城を、しばしばモチーフとしています。

ライスダール《ベントハイム城の見える風景》1655頃
ライスダール《ベントハイム城の見える風景》1655頃 部分

 ジョルジュ・ミシェルは、バルビゾンでの制作はしていませんが、バルビゾン派の先駆者ともいえる画家です。

ショルジュ・ミシェル《風車のある風景》1920~40頃
ショルジュ・ミシェル《風車のある風景》1920~40頃 部分

(2-2)バルビゾン派の画家たち

 バルビゾンで活動した画家たちの作品を紹介しています。それぞれに描いた作品テーマが異なることや、定住する画家と一時的な滞在の画家がいるなど異なります。しかし共通するのは、自然をテーマとして表現しているところでした。
 バルビゾン村の解説タッチパネル方式で紹介する装置が導入されていました。

タッチパネルで見るバルビゾン村
バルビゾン村はパリからおよそ60Km
バルビゾン派の作品
ペーニャ《フォンテーヌブローの森》
デュプレ《森の中-夏の湖》
デュプレ《海景》

 《フォンテーヌブローの森》のペーニャは、始めアカデミックな絵画を学び、次にロマン主義者とロココ美術の復興を試み、その後ルソーの影響を受け、ロココ的な要素を残しながらも写実的な画風になり、自然主義の風景画家として認められるようになります。
 バルビゾンに家を買ってパリから通い、コロー、トロワイヨン、ジャックらと親交を結び、ルノワールなどにも影響を与えました。

ペーニャ《フォンテーヌブローの森》1862
ペーニャ《フォンテーヌブローの森》1862 部分

 デュプレは、ルソーやコロー、ミレー、ドービニーらと親交を深め、大樹や波、荒れた空などをテーマに、厚塗りや激しい筆使いによって劇的な雰囲気をもった風景画を多く描いています。
 《森の中-夏の湖》は画面いっぱいに背の高い木々が描かれていて、枝や葉が絡み合って、ひとつの塊のようになっています。

デュプレ《森の中-夏の湖》1840頃
デュプレ《森の中-夏の湖》1840頃 部分

 《海景》はデュプレのもうひとつのテーマである波を描いています。

デュプレ《海景》1870頃
デュプレ《海景》1870頃 部分
バルビゾン派の作品
テオドール・ルソー《フォンテーヌブローの森のはずれ》
トロワイヨン《近づく嵐》
ジャック《森はずれの羊飼いの女》

 《フォンテーヌブローの森のはずれ》はアプルモン渓谷と考えられます。放牧地として人気があった場所で、ルソーは、1830年代に初めてバルビゾンを訪れて以来、アプルモン渓谷の景色を多く描いています。

テオドール・ルソー《フォンテーヌブローの森のはずれ》1866
テオドール・ルソー《フォンテーヌブローの森のはずれ》1866 部分

 トロワイヨンはルソーと知り合い、フォンテーヌブローの森で制作するようになった画家です。動物画家として有名であり《近づく嵐》は牛の毛並みの見事さに圧倒されます。

トロワイヨン《近づく嵐》1859
トロワイヨン《近づく嵐》1859 部分
ジャック《森はずれの羊飼いの女》
ジャック《森の中の羊の群れ》
コロー《大農園》
ドービニー《オワーズ河の夏の朝》

 ジャックは羊を描くのを得意としました。森のはずれで羊飼いの少女がくつろぐ様が描かれています。

ジャック《森はずれの羊飼いの女》1870~80年頃
ジャック《森はずれの羊飼いの女》1870~80年頃 部分

 ジャックがサロンに出品した大作です。羊の個性と毛並みが丁寧に書き込まれた作品です。

ジャック《森の中の羊の群れ》1860年頃
ジャック《森の中の羊の群れ》1860年頃 部分

 《大農園》は、コローの特徴でもある銀灰色を用いた詩情溢れる作品のひとつです。描かれているのは、コローがたびたび訪れていたパリの西郊外の小さな町の田園風景とされています。

コロー《大農園》1860~65頃
コロー《大農園》1860~65頃 部分

 「水辺の画家」と呼ばれるドービニーは、各地を旅しながら戸外制作を行い、度々バルビゾンを訪れました。
 《オワーズ河の夏の朝》は、定住したオワーズ河の風景が描かれており、小さな蒸気船が浮かんでいます。

ドービニー《オワーズ河の夏の朝》1869
ドービニー《オワーズ河の夏の朝》1869 部分

(2-3)写実主義の展開

 写実主義画家としてヨンキントとクールベらの作品が並びます。

「写実主義の展開」の概観

 クールベはのちの美術家に大きな影響を与えた写実主義の画家です。クールベは海の風景を数多く描きました。
 《嵐の海》は嵐で波立つ海にヨットが翻弄される大自然に対する人間の小ささのが表されているといいます。

クールベ《嵐の海》1865
クールベ《嵐の海》1865 部分

 クールベは海のほか、狩猟画家としても成功を収めました。《川辺の鹿》は、狩人に追われて逃げ場を失い、川に飛び込む寸前の追いつめられた鹿の様子が描かれています。

クールベ《川辺の鹿》1864
クールベ《川辺の鹿》1864 部分

 ヨンキントはオランダの画家、版画家です。1846年にパリに出て、バルビゾン派の画家たちと交流がありました。
 《ドルトレヒトの月明かり》は中央の川に浮かぶ何艘もの舟に月明かりが水を照らしています。こうした、光と影の表現は、クロード・モネなど、印象派の画家たちに影響を与えています。

ヨンキント《ドルトレヒトの月明かり》1864頃
ヨンキント《ドルトレヒトの月明かり》1864頃 部分

 ジュリアン・デュプレは印象主義の時代に、ミレーやクールベの影響を受け、農民や風景などを写実主義的作風で描き続けました。
 《牧草の取り入れ》は、干し草作りに携わるさまざまな役目が描きこまれている作品です。

ジュリアン・デュプレ《牧草の取り入れ》1890年~95年頃
ジュリアン・デュプレ《牧草の取り入れ》1890年~95年頃 部分

 レルミットはミレーの影響を受け農民を描いた画家です。印象派へつながる明るい色彩が特徴です。
 《洗濯する女》は洗濯のため川辺にやってきた農家の女性たちが描かれています。

レルミット《洗濯をする女たち》1910
レルミット《洗濯をする女たち》1910 部分

おわりに

 昨年に続き、本年も年始にミレーの作品を撮影に行きました。開館初日から変更したためか昨年よりはミレー館の撮影者が少なかったように思います。
 疲れたのでレストランでコーヒーとケーキのセットを注文してしばし休んでから美術館を後にしました。
 特別展「アーツ・アンド・クラフツとデザイン」(2023.11.18~2024.1.21)も開催中です。

南館への通路


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