見出し画像

【八田家書院】石和温泉にほど近い豪商の書院、紅葉とともに(2022.11.13)+八田家の雛人形(2023.2.25)

はじめに

 甲府盆地も紅葉が進み見頃を迎えました。盆地の紅葉スポットとしても有名な八田家書院を訪ねました。
 八田家書院は、笛吹市石和町にある県指定の文化財です。また、八田家書院の周囲は八田家御朱印屋敷と呼ばれ、県指定の史跡に指定されています。
 御朱印屋敷の一部は市の八田家御朱印公園として整備されています。また、唯一現存する書院の建物が、八田家書院として笛吹市により管理公開されています。
 石和といえば温泉の町ですが、この公園からは温泉街の喧騒は感じられず、初夏には菖蒲、夏には蓮が咲き、秋は紅葉見物に多くの人が訪れます。

八田家と御朱印屋敷

 八田家は、武田の時代以降この辺りの土地(笛吹市石和町八田)の所有を認められていた豪商です。武田の時代には財政を預かる蔵前衆の一人でもありました。
 御朱印屋敷は、八田氏の城館跡です。建物は1601年(慶長6年)の建築と伝わる書院のみが現存します。立派な表門がありますがこれは明治初期に移築されたものです。ほかの遺構としては、東辺および北辺の土塁と堀跡が残っている程度です。1969年(昭和44年)県指定の史跡に指定されています。

公園側から書院への入口、右の建物は表門の側面
屋敷の一部は公園に

 御朱印屋敷の「御朱印」とは「朱印状」のことで、花押に代わり朱印が押されている戦国時代以降用いられた公式様文書のひとつの形式です。武田家では「龍」の朱印が使われていました。
 八田家には、武田勝頼によりこの地を安堵するという朱印状が残っていますが、1582年(天正10年)に武田氏が滅ぶと織田信長の手の者により屋敷は焼失しました。その後、徳川の天下となり家康から朱印状を得て建物を再建しています。以降は徳川将軍が代替わりするたびに所領安堵の朱印状を受けていました。
 八田家はおもに運送業を営む商人として成功し地域の豪商となるまでに盛り返しました。

家康「福徳」朱印と武田家「龍」朱印

 下記は、武田家からの所領安堵の朱印状です。当時、八田ではなく末木を名乗っていました。

武田家からの朱印状とその解説シート

 下記は、徳川家からの所領安堵の朱印状です。写しのため朱印があることを示す形になっています。

徳川家からの朱印状(写)とその解説シート

表門

 石和に温泉が湧いたのは、1961年(昭和36年)のことで、観光農園の経営者が掘削に成功したのが始まりで、つい60年ほど前のことです。
 一方、歴史的に石和は甲州街道の宿場として栄えた地で、陣屋や代官所などがありました。
 立派な表門が目を引きますが、元は石和の代官所の表門であったものを1874年(明治7年)に払い下げてもらいこの地へ移築したものです。明治となり、財力のあった八田家がもらい受けたのでしょうか。
 この辺りは笛吹市石和町八田という地名ですが、地名のとおり八田家の所有の土地でした。

ちょうど開いた門の向こうに紅葉が切り取られて見えます

八田家書院

 表門から入ると入母屋造りの書院が現れます。書院は来客を迎えるための建物です。玄関のある東側は入母屋造り、反対の西側は寄棟造りです。武家
住宅の書院として現存するものは貴重と言われています。1961年(昭和36年)県の文化財に指定されています。
 この書院は八田家の所有になっていて、公開見学については笛吹市が管理しています。一方公園の部分は市の所有で指定管理者が管理しています。

紅葉の木々の間から見る書院

 表門を超えて、進むと玄関があります。玄関のすぐ横に受付があります。見学者には庭で取れたムクロジの実をいただけます。ムクロジは正月の羽根突きの羽根の先に付いている黒い実です。

東側にある玄関

 玄関を上がると「三の間」で、続いて「中の間」「奥の間」となります。
 三の間は8畳で、一部が仕切られていて、半分は職員が常駐して受付になっています。
 額があって「漱潤」とあり中国の書家のものとのこと、「光緒丙子春」の年代については、光緒は中国の元号(1875年~1908年)で、そのうちで丙子の年ということで明治9年(1875年)の筆と推定されるそうです。

三の間の額
「中の間」から「奥の間」

中の間

 中の間は15畳で一番広い部屋です。書院の畳は寺社と同じ一方向へ向けたそろえた不祝儀敷になっています。
 中の間からは、庭の紅葉がよく見えます。来客用の建物のため、部屋から庭がよく見えるように作られているのです。また入側(いりかわ)へ出るとさらに庭がよく見えます。
 額は「閑之宝」岡本黄石(1812~1898・文化8~明治32)の書。黄石は彦根藩家老でした。

中の間から庭を見る
入側から見た鮮やかな庭の紅葉

 入側の板扉に見事な虎の絵があります。狩野派の絵師によるものですが、これは山梨県立美術館監修によるレプリカとのこと。実物はだいぶ傷んでいて、非公開になっています。

閉めていただき全体を見せていただきました

奥の間

 奥の間は10畳です。一番格式の高い部屋です。床の間の掛け軸は、信玄公の言葉「およそ軍勝五分をもって上となし、 七分を中となし、 十分をもって下となす。(以下略)」を恵林寺の前住職が書いたもの。
 額は「萬古清風」東久世通禧(1834~1912・天保4~明治45)の書。東久世通禧は、尊王攘夷派公家でした。

書院の解体修復事業

 来客のための建物でしたが、江戸時代に笛吹川の氾濫洪水により家屋が崩壊し生活の場へ改築しています。その後も昭和の中頃まで増築が繰り返されました。その後、増築部分を撤去した状態でした(下記画像、右頁の比較図)。
 そして、1998年(平成10年)に保存修理を行い、創建当時の姿にほぼ復元されています(下記画像、左頁の比較図)。
 ちなみに、保存修理の費用は、県と石和町(当時)、八田家でそれぞれ費用を負担したそうです。

書院の建物の変遷が分かる頁
修復の様子などを紹介したパネル

 八田家の古文書も含め、文化財に指定されています。古文書については八田家の当主の方がアルバムにして現代文も付して公開しています。

八田家の古文書ファイルと修復報告書

おわりに

 公園及び、書院の庭園は自由に立ち入れるため、紅葉シーズンは、見物客がたいへん多いのですが、有料の書院を見学する人は少め目でした。その分、職員の方は丁寧に解説してくださりました。
 自由に外から紅葉散策もよいですが、書院の中から来客用の庭を眺めるのもよいかと思います。

紅葉に覆われた書院

追記、八田家の雛人形(2023.2.25)

 ひな飾りのシーズン、八田家書院でも雛人形を多数公開しており有名でしたが、近年は規模を縮小しており、八田家のものに限定しております。
 知らずに訪れた方がややがっかりしている姿をお見受けしました。

八田家の雛人形

 八田家の雛人形は三人官女がいません。また、めずらしいのは楊貴妃、三番叟がいます。

七段ですが構成はやや異なります
江戸時代でしょうか
楊貴妃
三番叟
押し絵雛
よく見ると糸車を利用

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?