「煙突掃除の少年」から

(2023.1.10)

「わたしはどんな水たまりに姿を写したからといって、それによってわたし自身が灰色になりはしないし、どのような軌道によってもわたし自身は一緒に曲げられないし、角によっても曲げられない。しかし、わたしはおそらく壺の形に形づくられることはあり得るだろうし、褐色の、独特な成長をとげた、北方的な手付き壺風のものとしての自分に対しているのを見るだろう」。

「必要に迫られて心をこめて作られたものは、いったん作られるとその固有の生を営み、よその新しい領域の中までそびえ侵入する。そしてわたしたちが生きている限りそうはあり得ないように形づくられたわたしたちと共に、戻ってくる。たとえ依然として弱くはあってもなんらかのわたしたちの自己の印、わたしたちの自己の封印に飾られて。芸術作品におけると同じく、これを見るとき、ずっと奥のはしに扉のある陽に照らされた長い歩廊をのぞき見るような感じがする」。

(エルンスト・ブロッホ『ユートピアの精神』「古い壺」、好村富士彦訳)

この章を読んで、バルトマンつぼの絵を描いてみて考えていたら、昨日、「意図」の章から引用した部分が、少しわかったような気がしてくる。
つまり、「この内部の垂線の後に、もちろん奥行きが広がる。魂の世界、ユートピア思想の外部の宇宙的機能が、悲惨、死および形而下的自然という殻の国に対抗的に拡張する。わたしたちの内にのみこの光は燃えている」という箇所である。

バルトマン壺の、その口から垂直に落ちてゆく先に広がる壺の奥行きそして底面。壺そのものの外側にあるものに向けて膨らむ空間。ブロッホは次のように書いている。「これらの壺の広くて暗い胴の内部はどんな様子をしているか、調べることは難しい。できることなら入って確かめたい気がする。消え去ることのない、好奇心をそそる小児の疑問がふたたび浮かぶ」。

私は同時に、ウィリアム・ブレイクの詩にある「煙突掃除の少年」を思い起こす。「無垢の歌、経験の歌」のそれぞれにこのタイトルの詩があり、ブロッホの「壺」のイメージに繋がったのは「無垢の歌」のほうである。

煙突、その「垂線」を降りて行った先にある場所とはどこか。ブレイクの幻視的な「天国」のイメージとブロッホの思想が連なる。

では、私たち自身が「壺の形に形づくられることはあり得るだろう」とは、どういうことなのか。更にはそれ自体が自分に対しているのを「見る」とはどういうことなのか。
仮に壺という形象が私たちの「生きられた生」だとすれば、私たちがその形象の内部へ「自己との出会い」を求めて探索を行うことが、垂線の先にある「帰るべき場所」「魂の世界」の姿をとらえるための手段だということなのだろうか。


もう少し「そしてわたしたちが生きている限りそうはあり得ないように形づくられたわたしたちと共に、戻ってくる。たとえ依然として弱くはあってもなんらかのわたしたちの自己の印、わたしたちの自己の封印に飾られて」という箇所を考える。

「戻ってくる」イメージ、ブレイクの詩の煙突掃除の子どもたちが、閉じ込められた棺から天使の持ってきた鍵によって解放されて、駆けまわるイメージ。そしてその「夢」から醒めた少年は、このイメージを携え、「商売道具」を手にして、また煙突掃除へと向かう。復活と再生、それが繰り返されること。

なるほど、ブロッホはロマン主義的なものを排除するのではなく取り入れて、現代における「神話」の再構成を試みていたのかもしれない、などと思う。

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