Azusa Sato

1984年生まれ。 明治大学大学院 情報コミュニケーション研究科 D1/ 批判的社会理…

Azusa Sato

1984年生まれ。 明治大学大学院 情報コミュニケーション研究科 D1/ 批判的社会理論、フランクフルト学派/Kritische Theorie, Frankfurter Schule

最近の記事

エクソダス

この1年、特に新年度になってからはワンオペで育児をしながらの研究生活に突入し、子どもたちの感染症罹患からの入退院や、自分自身の感染、過労(?)による点滴やら何やらもあり、過酷という言葉でも表現できないほどの苦しい日々を過ごした。 この社会のなかの、公助の網の目からこぼれ落ちる部分、市場的サービスの行き届かない部分を体験し、「もう無理かも」と胃が焼き切れるような思いもした。 しかし、同時に私が獲得したのは、友人知人そして近隣、地域における、緩やかでありながらも自発的なネット

    • ベンヤミンとグレーテル

      「あなたのお手紙は、あなたに会いたいという荒々しい憧れの念をわたしの内に呼び覚ましました。その思いのあまりの激しさに、できることなら、なにか当たり前のことのように次の船に乗って、あなたのもとに旅立ちたいと思ったほどです」1938年8月3日グレーテル・アドルノからヴァルター・ベンヤミン宛 (H・ローニツ/C・ゲッデ編 伊藤白・鈴木直・三島憲一訳『ヴァルター・ベンヤミン/グレーテル・アドルノ往復書簡 1930-1940』みすず書房、2017年) ******** 「戦争とそれ

      • 「遠く」のこと

        2022.12.7の日記 小さな子どもだった頃、「遠く」がいつの間にかこちらへやって来たのを感じ取る瞬間が怖かった。 昼下がりにふと眠くなってベッドに潜り込み、しばらくして目を覚ます。窓を見遣ると、網戸の隙間から風が吹き込み、薄いレースのカーテンが静かに規則的に揺れている。差し込む日の光は陰りはじめていて、まもなく夕暮れがやってくるのだと感じ取るとき。干したばかりの、乾いた香りのする暖かな布団の肌触り。部屋の隅に現れた薄闇の兆し。窓の外から聞こえてくるはずの音の一切が止んだ

        • クマ出没注意

          とうとう実家周辺にもクマが出没したと母からの電話で知る。 子どもの頃、天井からムカデが落ちてくることがよくあったが、そのまま畳の上を這い回ろうとするムカデを火バサミで仕留め、祖母のところに持っていくと油のようなものにつけてくれた。茶色のガラス瓶に漬けられた「ムカデの薬」は、火傷などをした際に祖母が「よう効くで」と言いながら塗ってくれた。 私は昆虫はまるでダメで大嫌いなくせに、ムカデなどの類や爬虫類は平気だったので、これらを仕留めるのも何ら苦ではなかった。幼い頃は家の中にま

        エクソダス

          無限小のかけら

          2020年2月12日(水) 「あなたの中に置き去りになったままの私のこころを返してって思うよね。私のこころがバラバラの欠片になってあなたの中に残っているから、それを一つ残らず拾い集めて、ちゃんと形にして私に返してって言いたいよね。そうじゃないと私は私に戻れないよね」。 19歳の時に、失恋をした私に親友がかけてくれた言葉である。相手の男の子を忘れられないのはなぜか、ということについて、彼女はそのように表現してくれた。 他者との関係が崩れ去った時には、相手と共有した時間、過

          無限小のかけら

          フリマアプリ

          フリマアプリが本当に便利である。洋服を見るのが大好きだが、定価ではなかなか買えない。特に最近の物価高は衣類も例外ではなく、好きだったお店の服が「えっ、こんなに高かったっけ」という価格になっている。 ここ数年の趣味になっているのは、「これほしいな」と思った服をよーく覚えておいて、フリマアプリで検索して眺めることである。すぐには買わず、いくつかの候補を比較して眺めておく。我慢してずっと眺めておく。 1年くらい経ってからぐんと安くなっているものに価格交渉をして譲ってもらう。「新品

          フリマアプリ

          秋がきた

          私の人生のなかで、かけがえのない出会いだった方々が、この数年のあいだに次々に逝去された。 なかには40代、50代でのお別れもあって、いまでも心が凍ったようになっていてうまく向き合うことが出来ない。 別れを経験することが増える年齢になった。秋になるととても辛い。 でもまだまだ、元気を出してやっていかなくちゃ。 なかでも心が大きく揺れるのが、国労八王子の横森利幸さん(写真右)や、社民党八王子の植松敏夫さんとのお別れ。 横森さんにせよ、植松さんにせよ、ヒューマニストの先輩方が

          パレスチナ人兄弟との思い出

          [パレスチナ人兄弟との思い出] オーストリアに留学していた時、WGでパレスチナ人の兄弟とともに暮らしていた。彼らとはキッチンや風呂トイレなど共有領域の掃除を巡って度々揉めたが、私が引っ越しをするまでの半年間、大切な交流もあった。その日々のことを思い出す。 留学初日、泥まみれのシャワー室に呆然とした私は、持参したタオルを雑巾にして床掃除をしていた。そうしないととても入る気になれなかったからだ。 床に這いつくばって泥を拭っていたら、シャワー室のドアが勢いよくバン!と開いて、大

          パレスチナ人兄弟との思い出

          晩夏に仕立てる新しい服

          10代20代の頃は、それなりの「野心」を抱いて、何ごとかを成して世のため人のために働こう、とか、圧倒的な「知」を手に入れてこの世界のあらゆることを解釈できるようになろう、などと思っていたりした。エネルギーが溢れてほとばしっていた。 しかし30代も終わる今、人生に望むことは随分と変化した。 「自分が」成せることには限りがあるということ。自分にも他人にも時間は有限であるということ。ある日突然、健康や安心が失われるかも知れないということ。人も社会も、予想を凌駕して揺れ動き続けてい

          晩夏に仕立てる新しい服

          父と将棋

          私は将棋を見るのが好きで(指すほうは全然ダメ)、ときどき将棋連盟Liveで対局を見たりする。以前、子どもに駒の動かし方を教えていたら、それを見ていた母がポツリと、「あなたの父さんも将棋が好きだったよ」と言った。 え、そうなの?と私は少し驚いて聞き返したのだったが、私の記憶にある父は、将棋ではなく囲碁の好きな人だったのだ。子どもの頃、父が何度も私に囲碁を教えようとしたのだが、忍耐力のない私はまともに覚えられなかった。父はつまらなそうにしていた。一方、将棋は面白くてすぐに覚えて

          「煙突掃除の少年」から

          (2023.1.10) 「わたしはどんな水たまりに姿を写したからといって、それによってわたし自身が灰色になりはしないし、どのような軌道によってもわたし自身は一緒に曲げられないし、角によっても曲げられない。しかし、わたしはおそらく壺の形に形づくられることはあり得るだろうし、褐色の、独特な成長をとげた、北方的な手付き壺風のものとしての自分に対しているのを見るだろう」。 「必要に迫られて心をこめて作られたものは、いったん作られるとその固有の生を営み、よその新しい領域の中までそび

          「煙突掃除の少年」から

          ラディカリズムの誘惑

          左派サイドの言説のなかで「これまでのリベラル」と雑に一括りにする論法は昔から見かけるが、そうした考えに陥りがちな人たちは、多様な運動の在り方を認めず、「自分たちこそ(orだけ)」が正しいのだと錯覚していく怖さがある。 私は議会制民主主義の否定につながる選民的な「運動」は信頼しない。 そうした「運動」は運動の内部に既に階級性を孕んでおり、異論が排除され組織の硬直性が高まるため、本来彼らが目指しているはずの「自由」から遠ざかっていくことになる。これはアナキズムとは全く別の現象で

          ラディカリズムの誘惑

          都市計画への夢

          (2020年2月25日の日記から) エーリッヒ・フロムが『希望の革命』のなかで度々引用するルイス・マンフォードが、田園都市構想を打ち立てたハワードの名著『明日の田園都市』にF・J・オズボーンと共に序文を書いているその人であるということに気付いた。 フロムがマンフォードの人間観及び機械と人間に関する考察を肯定的に紹介しているので読まねばと思っていたのだが、実はハワードの『明日の田園都市』に描かれる都市像ならびに、現代ドイツの建築家、都市計画家たちが構想した「間にある都市(Z

          都市計画への夢

          言葉と秋

          「60年も過去のことになる。違う高校に進学してからは遠い人になった。秋が来れば思い出す、というよりも私にとっては、彼女を思い出すときが秋なのだ」。 (9月19日毎日新聞朝刊、「初恋の秋」金内二郎さん) 毎日新聞の「女の気持ち/男の気持ち」欄をいつも楽しみに読んでいる。 昨日の朝刊には、75歳の男性が中学生の頃の初恋について綴った投稿が掲載されていた。 この文章の最後の一文に私は胸をつかれた。彼女を思い出すときが秋、なんと美しい表現だろう。 人生の黄昏時を迎えたときにその人の

          『抵抗への参加』を読みながら

          ここ数日話題となっている岸田総理の「女性ならではの感性や共感力を十分発揮していただきながら、仕事をしていただく」という発言はまさに、人間の倫理としてのケアの倫理に反するものである。 キャロル・ギリガンは著書『抵抗への参加』のなかで、進化人類学者のハーディを引いているが、ハーディは、共感力や相手の心を察する力、協働や相互理解の能力が人間の進化として発達する理由とその過程を生物学上の両親ではない他者が子育てに参加する営みのなかに見出しているという。 これを受けてギリガンは言う

          『抵抗への参加』を読みながら

          差異と不均衡

          力のある人間が、立場や権力をふるって弱い立場の者を搾取し、周辺者をも巻き込んで「黙らせる」という構造を、この国のあちこちで眼にする。 様々な組織において、それを率いるリーダーや圧倒的な支配の手法を持っている者が、暴力を用いて自らの加害を隠蔽するという卑劣さも、しばしば見聞きする。 真っ当に思える「大義」や、素晴らしいとされるものを生み出していることをもって、歪な構造や支配者が免罪されるべきではない。 被害に遭う者と加害をする者との間には、必ず圧倒的な力関係の差がある。物理的

          差異と不均衡