『抵抗への参加』を読みながら

ここ数日話題となっている岸田総理の「女性ならではの感性や共感力を十分発揮していただきながら、仕事をしていただく」という発言はまさに、人間の倫理としてのケアの倫理に反するものである。

キャロル・ギリガンは著書『抵抗への参加』のなかで、進化人類学者のハーディを引いているが、ハーディは、共感力や相手の心を察する力、協働や相互理解の能力が人間の進化として発達する理由とその過程を生物学上の両親ではない他者が子育てに参加する営みのなかに見出しているという。

これを受けてギリガンは言う。「わたしたちの遺伝子に組み込まれているのは、核家族や母親による排他的なケアではなく、相互理解や拡大家族に向かう能力なのだ」。(ギリガン, 2011=2023: 64)

相手の心を察する感性や共感力が「女性ならでは」のものだという認識は、我が子であるかどうかに関わらず、新しい命を育てていく営みに万人が参加する、という人間の進化に反する。

岸田政権の目指す社会が、人類の繁栄や社会的進歩の方向に背を向けるものらしいことは、非常に残念である。
家父長制を原理とする社会システムがいまだ残存するこの国を、そのシステムを頑なに維持しようとする人々が治め続ける限り、繁栄ではなく破綻が近づいてくるばかりなのだ。

ケアを担おうとしない人々が提示する「理念」には、進歩の風は決して吹かないだろう。

「フェミニストのケアの倫理は、家父長制のくびきから民主主義を解放するための闘争に必要不可欠だ。というのも、それが、この闘争を生存の必要性に根づかせ、(女の貞操をめぐる問題や男系の永続と拡大をめぐる問題よりも)こどもの福祉を最優先にするという進化論的要求に根づかせるからだ。

フェミニストのケアの倫理は、わたしたちの人間性をかたちづくる能力を育み、その能力をおびやかす慣習に対して警鐘をならしてくれる。わたしは『家父長制』という言葉を、男を女からだけでなく男からも引き離し、女を善と悪に分けるような態度や価値観、道徳規範や制度を表すのに用いてきた。
心理学者としての経験から、わたしは家父長制を心の断片化、すなわちトラウマと結びつけてきた。人間の特性が男らしさと女らしさに分断されているかぎり、わたしたちはお互いに疎外しあうだけでなく、自分自身からも疎外されてしまう。わたしたちの共通の願望である愛と自由は、これからも私たちから逃れ続けるだろう」。

(キャロル・ギリガン著、小西真理子・田中壮泰・小田切建太郎訳『抵抗への参加 フェミニストのケアの倫理』, 晃洋書房)

また当然のことながら、家父長制というくびきからの解放というのは、家父長の側(社会的、経済的に優位にある側)がその人に従属的な立場にある配偶者と子どもを一方的に放り出すことではあり得ない。
このシステムから抜け出ようとする女性が「道徳」という名の鞭を打たれることもあってはならない。

私はこの本の、「第5章 不正義への抵抗ーーフェミニストのケアの倫理」を多くの方に紹介したい。特に「第2節 ケアの倫理が目覚めるときーー民主主義を解放するために」を。
私はこの節を、涙を流すことなしには読み進められなかった。「裁くのではなく、好奇心をもつことで何がどう変わるのか気づいてください」。その言葉を、私自身もずっと心の奥底から叫び続けている。

また、参考文献にホーソーンの『緋文字』が入っていることに驚く。訳者の小西真理子先生の謝辞に、その由来とこの本の装丁のテーマが記されていた。この本を翻訳して出版して下さった先生方に、私はケア労働に「専従」した経験者として、心からの感謝と尊敬を抱く。

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