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永徳と等伯(メモ)

長谷川等伯について書きたいと思い、メモを書き出してみたら、そのライバル狩野永徳について、ふと思い付くことが出てきた。

狩野永徳は、ご存知、絵師集団・狩野派の四代目頭領にして、信長・秀吉に仕えた絵師。
「天下一の絵師」と言っても過言ではない。
何が、彼をそうなさしめたのか。
もちろん本人の才能もあった。
幼い頃から、次代を担う「ホープ」として期待を寄せられ、最高の教育のもとに、才を磨いた。
狩野家自体、足利将軍家との関わりが深く、つまりはコネクションもあった。
そのコネを活かすのも、グループのリーダーとしての手腕と言うべきか。
つまり、彼は単に絵が上手いだけではない。門人たちをまとめあげるリーダーシップ、コネクションを活かし、広げていくコミュニケーション力や政治力も備えていた。
狩野派のトップとしての彼の役目は、注文通りの絵を描くことはもちろん、狩野派を、門人たちを守ることも含まれる。

そう考えると、晩年の対屋事件ーーー長谷川等伯率いる長谷川派が、狩野派が独占するはずだった御所対屋の仕事に割り込み、自分たちで一部を請け負おうとした事件に対する、彼のリアクションも違った感じに見えてくる。

私は、多忙を極める日々の中で、疲弊した永徳にとって、長谷川派の脅威が必要以上に大きく感じられたのではないか、とおもってきた。
彼がかつて絵筆を振るった相手ーーー義輝や信長を倒した下克上の刃が、今度は彼自身に襲いかかってきた。
このままでは、彼が生涯かけて築き上げてきた全てが奪われる・・・。
確かに焦りや恐怖もあっただろう。
でも、彼にとって怖かったのは、「狩野派を守る」という自分の役目が果たせないことも含まれていただろう。
安土城の仕事を引き受ける際には、弟に家督を譲って別家を立てさせた上で、仕事に臨んだ。
こうしておけば、万が一、信長の不興を買った場合、自分は死んでも、狩野家は、そして狩野派は生き延びられる。
だが、等伯の狙いは、永徳だけではなく、狩野派そのものである。狩野派同様、自らも門人を育て、大規模な仕事をこなすシステムを作り上げ、しかも二十年近くかけて、利休をはじめとする有力者との繋がりも作り上げた。
そんな等伯の存在は、永徳にとっては、じわじわと水のように染み込んでくる「不気味さ」と、「怖さ」を備えた存在だったのではないか。
信長もおっかないだろうが、それでも「怖い」だけで済む分、マシかもしれない。
御所の仕事は、長谷川派と狩野派のぶつかり合いの場となるだろう。
真っ向勝負を受けて立つか。

永徳の下した決断は・・・否だった。
人脈を駆使して、長谷川派の割り込み自体を防いだのである。
「やり方が汚い」「傲慢」と、私はその行動に否定的な思いを抱かずにいられなかった。
何故、堂々と受けて立たない?
腕に自信があるのなら、積み上げてきたものがあるのなら尚更。

しかし、見方を変えれば、「正しい」判断だったのかもしれない。
敵(長谷川等伯)の目的は、「天下一」の座。
そのための具体的な方法は、「狩野派を追い落とし、取って変わること」。
御所を舞台にしての「勝負」は、彼らにとっては、狩野派追い落としに向けての、最初のとっかかりに過ぎない。
等伯は、狩野派と同等か、それ以上のキャパシティを持つ存在として、長谷川派の名を、この機会に権力者の脳裏に刻み込むつもりだ。
そんなことを許したら・・・
永徳は、歯噛みしただろう。

そんな彼が、長谷川派に対して取った手段は、「勝負自体を成立させない」こと。つまり、戦いの機会そのものーーー割り込み自体を何としても妨害することだった。
戦いにならなければ、勝ちも負けもない。
そもそも、現時点において、権力者との繋がりや政治力においては、狩野派の方がはるかに上だ。
中国の兵法書『孫子』では、「百戦百勝」するよりも、「戦わずして勝つ」ことを上策としている。
永徳も、後者を選んだ。
一人の絵師として、というよりも、絵師集団の長として。
絵師集団の長は、彼にとって早くから決まっていた地位であり、いわば常に彼の一部だっただろう。
そこが、武士の子として生まれ、ゼロからスタートした等伯との違いでもあるだろうか。

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