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米国社会におけるユダヤ人とは大きく分けて3種類の移民がルーツで、殆どはロシア系移民だった!

ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義は、古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ教徒の家系でキリスト教に改宗した人々も「ユダヤ人」とみなされることが多い。


「アメリカのユダヤ人」とは、世界約1300万人中の半数にあたる約550万人を指します。その中で大学教授が30%を占めたり、大手法律事務所に多数所属するなど、影響力のある存在でもあります。彼ら米国系ユダヤ人のルーツは、スペイン・ポルトガル・地中海系のセファルディ系ユダヤ人、ドイツからのアシュケナージ系ユダヤ人、そしてロシア系ユダヤ人の三つの移民波が重なったものです。第三の移民の波は、19世紀末に移住してきたロシア系ユダヤ人で、大量の移民が到着したために、アメリカのユダヤ人口は19世紀に25万人から400万人以上に増加。しかし、この移民波は、ツァーリズム政策やポグロムによって追放や流出を強いられる苦難の中で成し遂げたものでもあります。

オランダからイングランドに割譲され、チャールズ2世はこれを弟のヨーク公(後のジェームズ2世)に与えた

世界に存在する約1300万人のユダヤ人のうち約半数の550万人が米国に集中する。

ユダヤ人はニューヨーク市とワシントン特別区の大手法律事務に多く存在しており、'90sには全米トップ30の大学において教授陣の30%を占めていると言われています。

一口にユダヤ移民と言っても、実際には三つの移民の波があります。
第一の波は、セファルディと呼ばれるスペイン・ポルトガル・地中海系のユダヤ人で、これは1654年ブラジル数十人のセファルディ系ユダヤ人がニュー・アムステルダムに到着したのが始まり。それが後のニューヨークになっています。その後18世紀に米国ユダヤは1000~2500人となりました。

第二の波は、1820年代ドイツからのアシュケナージ系ユダヤ人でアシュケナージはヘブライ語でドイツを意味します。
そのドイツから大量の移民が到着した結果、アメリカのユダヤ人口は19世紀に25万人に増加しました。

そして第三の波が、19世紀末に移住してきたロシア系ユダヤ人。
こうして20世紀には、ユダヤ人口は400万人以上になり、21世紀初頭には米国ユダヤ人の9割となったのです。

一般にユダヤ人と一括りにしても、こうしたドイツ系とロシア系の区別はされていないようです。

しかし『アメリカのユダヤ人』の著者チャールズ・E・シルバーマンもロシア系ユダヤ人であり、その著作の中でかつて大企業デュポン社の会長兼代表取締役になったアービング・S・シャピロもユダヤ人であった事を伝えています。

デュポンのあるデラウェア州とニューヨークの近くペンシルベニア州は同じ総督を戴いており、18世紀ニューヨーク植民地とニュージャージー植民地は1人の総督の下にあった。彼の先祖もその辺りにたどり着いたと考えられる。

ですから、米国合衆国のユダヤ人のほとんどは、1880年代~1910年代の40年間に洪水のように押し寄せたロシア・東欧系のユダヤ移民の子孫なのです。
その30年間に、205万人以上のユダヤ移民が入国した結果、それまでの米国ユダヤ人口は25万人から350万人へと1300%も増加したのです。
この時のユダヤ移民の9 割以上がロシア・東欧系ユダヤ移民で、ロシア帝国出身が112 万人(71.6%)、オーストリア・ハンガリー帝国約28 万人(18%)、ルーマニア6万7千人(4.3%)という内訳になっています。

1897年のロシア帝国内における最初の国勢調査では、ロシア帝国内のユダヤ人総数は521万5805人であったが、1881~1914年にユダヤ人国外移住者は約200万人にも上り、その内の156万人が合衆国へ渡っていきました。
まさに、ロシア系ユダヤ移民全体の 3分の1以上が出国した「民族大移動」であったのです。

聖公ウラジーミルと呼ばれるウラジーミル1世によってキエフはキリスト教化された

一体なぜこの時期に激増したのか?

ロシアのユダヤ人社会は既に紀元二世紀にはクリミア半島東端、タマン半島東のアナパ、ドニエプル河口の辺りに居住していました。
紀元300年頃にはキリスト教の布教がこの地にも及び、紀元989年にはキエフ公国のウラジミル大公が、ロシア初のキリスト教徒となり、ギリシャ正教を導入しました。

その後キエフ公国はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒など異教徒が住んでいたハザール王国を滅ぼし、住民の多くをキリスト教へと改宗させていきました。

やがて12世紀中頃になると、ロシアのユダヤ人社会は西側のユダヤ人社会と接触するようになり、1240年のモンゴルのロシア征服によって交流が促進していきます。


ペストもユダヤ人が井戸に毒を入れているとウワサが流された

こうして、ロシアのユダヤ人口は、ウクライナ地方、小ポーランドなどを併合するたびに増えていき、18世紀プロシア、オーストリアと分けたポーランド分割によりロシアは 90 万人のユダヤ人を取り込み、世界の半数近いユダヤ人を支配下に置くようになったのです。


ユダヤ人はキリスト教徒に嫌悪されてきた

しかし、キリスト教徒と異なるユダヤ人は嫌われ、1753年までにロシアはユダヤ人 3万5千人を追放してしまいます。
その結果、隔離されペイル・オブ・セツルメントが居留地となりました。

19世紀以降にもロシアの民族的純潔を考え、ユダヤ人に厳しい政策を取り、ユダヤ人は「有害な要素であり、統制されるべき疫病である」という前提がツァーリズムの政策の基礎にあり、ロシアでのユダヤ人は最下層の「異族人」の身分に属され、賤民扱いでありました。

現在のベラルーシとモルドバの全域、リトアニアの大部分、ウクライナ、ポーランド中東部、そしてラトビアと現在のロシア連邦西部


ポーランド分割以前のユダヤ人居住地(ペイル・オブ・セツルメント)はバルト海からアゾフ海にいたる線の西側に当たり、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナと南ロシアがロシア・ペールと呼ばれ、これにロシア領ポーランドも含まれており、彼らはそこからの移動を禁止されていただけではなく、ペイル内においてもキエフ、ニコラエフ、セヴァストポリなどの都市の居住は禁止され、農村地域の居住も制限されました。

帝政政府はユダヤ人の宗教生活、共同体生活、経済活動、財産権、教育などに制限を課し、12 歳以上のユダヤ人少年を25年の徴兵制度に就かせ、特別税を課すなど、20世紀には1000か条以上のユダヤ人に対する特別法がありました。

1948年までにかなりの数がイスラエルや米国に脱出した

そしてユダヤ人はシュテットル(イディッシュ語:「小さな都市」)に集まり、住民の半数以上が農民中心の非ユダヤ人を相手に商工業を営んでいました。

1897年のペイルにおけるユダヤ人133万人中の職業構成は、製造業従事者38%、商業従事者32%(ほとんどが貧しい零細商人)、農業従事者3%となっており、ほとんどのユダヤ人が農業従事者である非ユダヤ人に囲まれながら、商工業化した特異な存在となり、ロシア帝国内でのユダヤ人は最も工業化が進展した民族集団となりました。
中でも衣服製造業従事者は25万人で、ユダヤ人製造業従事者の約半分を占めていました。

ブライアン・エプスタイン(右上)のような同性愛者も彼らの文化の一つであり、ファッションにも取り入れられた。ラルフ・ローレン(左上)もユダヤ人。

何故30年間でアメリカへのユダヤ移民が急増したのか?

それはツァーリズムとポグロムによって余儀なくされた結果でした。帝政が崩壊に向かうと、社会混乱が増すにつれてユダヤ人がはけ口にされ、ウクライナ等で1880年代から1920年代までに三度も大きなポグロムが発生し、そのうちの一つには革命集団ナロドナヤ・ボルヤによるアレクサンドル二世暗殺事件にユダヤ人女性ハシャ・ヘルフマンが関与していたことが引き金となりました。

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと。 また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと。ロシアとドイツは一緒になってポグロムを行っていた。


キエフ、オデッサなどへと波及し、襲われた地域は100ヶ所以上。
その結果、アレクサンドル三世(1881~1894 年)は、ポビエドノスツエフを東方教会の最高会議議長に任命し、議長は西ヨーロッパの議会制民主主義よりロシア型独裁となり、ロシア正教会中心の統一宗教となります。

これによってユダヤ人は改宗か追放あるいは死のいずれかを選択しなければならず、さらに追い討ちをかけるようにして、法律が変えられ、ユダヤ人は農村の取得や賃貸、管理が禁止され、日曜日やキリスト教祭日における商取引も禁止されました。

現在のハバト派(ハバド・ルバヴィッチ)と呼ばれる、ユダヤ教超正当派。厳しい原理主義とも受け取れるイスラエルの戒律主義の人たちもロシアから多く移ってきた。

こうしてツァーリズムの厳しい政策が進むと、モスクワに残っていたユダヤ人職人14000人も追放され、ノブゴロド、ヤルタといった土地でも多数の人々が路頭に迷うことになり、ポグロムはガリチア、ルーマニアにも広がって、90年代末までにロシア地域からユダヤ人100万人が難民となって流出しました。中でもキシニョフで起きたポグロムは最も酷く、1905年には101の都市で3000人の死者、一万人以上の負傷者を出しています。
 こうした事からロシア系ユダヤ移民の大量移住の原因としてツァーリズム政策とポグロムが大きかったと言えます。また、ユダヤ移民を多く出したのはポグロムの激しかった南ロシアではなく、経済的に最も貧しかった北西ロシアであったことも特徴です。

この頃のロシア帝国内ユダヤ人口は1825年以降、3倍以上に増え、1880年には400万人近くに増加しており、ペイル内のユダヤ人地域でも人口の過密が起こったことも、出移民増加に繋がっていると考えられます。

19 世紀前半では殆どの都市で1万人に満たなかった事を考えれば激増していて、後半にはペイル内外から追放されたことで、オデッサで14万人、ヴィリニュスで6万人、キシニョフで5万人と発展する事態となりました。
特にユダヤ人増加率の推定は、南ロシアが高く、移住先には南ロシアやポーランドといった工業地帯に集まっていきました。

プロレタリア化していくユダヤ人

こうした変化は、ロシア系ユダヤ人が無産階級とも呼ばれるプロレタリア化していった事を示すものとなり、農業から排除され商業に従事する者が増加しましたが、今度はペイルでユダヤ人商人の比率が激増した為に競争が激化してユダヤ商人の多くは工業的職業に転化することを余儀なくされ、その結果19世紀末には工業的な民族に変化し、半数近くが手工業における職人や徒弟となったのです。
 そうして賃金労働者となったユダヤ人の90%が貧困と劣悪な状況の中で、彼らは「プロレタリアート」と呼ばれるようになりました。

雇用する側の資本家階級を指す「ブルジョワジー」と対になった概念


そしてこのような人たちはアメリカへの移住するようになり、20世紀初頭のアメリカにおけるユダヤ移民の職業は、製造業従事者がほとんどを占め、大半が製造業従事者となりました。
 こうして手に職を持つようになった彼らは、アメリカでも製造業において働くことができたのです。また、アメリカが国としてユダヤ人を支援している点も重要で、1881年アメリカのジェームズ・ガーフィールド大統領はユダヤ人虐殺を非難し、以降第一次世界大戦までの間、ロシア政府への批判を鮮明にしたことから、その外交姿勢はユダヤ人に魅力的なものとなりました。


しかし就任からわずか数ヶ月で・・・

アメリカでのロシア系ユダヤ移民

しかし、当時アメリカに渡るには密出国を助ける非合法のネットワークを頼らなければならず、かなり長旅であったようです。
 その頃、先に移住して来ていたドイツ系ユダヤ移民は既に中産階級化し、英語を習得して急速なアメリカ化を遂げ、アッパーイーストサイドなどの優雅なアパートメントに住んでいました。

カッツ・デリカテッセンはこの地区のユダヤ人文化の歴史のシンボル

これに対してロシア系ユダヤ移民はイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極貧であったように、ロシア系ユダヤ移民は先に渡米していたドイツ系ユダヤ移民とは著しく異なっており、2つの種類のユダヤ人はそれぞれ「アップタウン・ジュー」、「ダウンタウン・ジュー」と呼ばれましたが、ロシア系ユダヤ移民が居住したロワーイーストサイドにはイタリア人、シリア人、スロヴァキア人、アイルランド人など他の移民族も混合して住んでおり、ロシア系ユダヤ移民は個人単位の移住ではなく、家族単位の移民でした。
 ニューヨーク市衣服労働者のあいだで夫が妻を故郷に残している者の割合は、ロシア系ユダヤ移民の場合、滞米5年以下の者は半数近くの43%が祖国に妻を故郷に残していたが、10年以上の者はわずか1.4%と家族の絆が深いことも分かります。
(また、政治的にリベラルの人の割合は少なかったようです)

アメリカでの生活

アメリカでの生活は行商人として広がったドイツ系ユダヤ移民と異なり、極貧状態でたどり着いたロシア系ユダヤ移民は東部・および中西部の大都会に定着し、ニューヨークでは、ロワーイーストサイドに集中して居住するようになると人口過密を招き、ロワーイーストサイドは典型的なスラム状況を呈しました。
(マンハッタン島の南東部を占め、北はヒューストン街および東10番街、西はバワリー、東と東南はイースト・リヴァーに囲まれた地域)
そしてユダヤ人地区が成立したのは、ドイツ系ユダヤ移民がロワーイーストサイドに卸売り商店を開き、衣服工場を建てたときに始まったとされており、そこへロシア系ユダヤ移民が(1882年に同地区に引き付けられ)膨張していき、1910年にはインドのボンベイを除けば最も人口密度の高い都市空間であったといわれています。

ロシア系ユダヤ移民労働者がニューヨークに住んだのは、ほとんどがテネメントと呼ばれる共同賃貸住宅で、家賃は世帯の平均月額 13 ドルに対して、ロシア系移民の住んだテネメントは 17 ドルと高く、下水溝も整備されておらず、悪臭が漂う密集した地区で高い家賃に加え、働く賃金が安く頻繁に失業が起こると、家賃滞納がしきりに起こり、ロシア系ユダヤ移民の世帯では 半数の人たちが下宿人をおいて家賃の重圧を軽減しようと努めました。
 ニューヨークでの雇用にこだわったのは、公共市街交通が未整備かつ高料金であったため、職場へ徒歩で通える距離に居住する必要があったからで、テネメントの多くは住居兼職場として利用されていました。


ロウアー・イースト・サイド (Lower East Side) は、ニューヨーク市マンハッタン区の地区にある。

職業


1905 年のロワーイーストサイドの 3711 軒のユダヤ人世帯(住民数 2 万 1406 人)の調査によれば、20 歳以上の男性有業者 5990 人の中では労働者が 73.2%を占め、そのうちの約半数が衣服労働者( 45.2%)であり、ユダヤ移民はロシア帝国でも従事していた衣服労働者として生計を立てていたのです。

そして、ユダヤ人コミュニティが拡大するにつれ、二つのタイプの「ユダヤ人職」が発展しました。

一つは、ユダヤ人だけに奉仕する職業で、宗教上のコウシャーといわれる清浄肉のための屠殺業、ユダヤ・パンの製造などはユダヤ人によってされる必要があったからです。
また、ヘブライ語、イディッシュ語の出版需要のために、ユダヤ人熟練印刷工の職も増大しました。

二つめは、衣服産業やタバコ製造、建築、金属加工などがあり、ユダヤ人がユダヤ人を雇うケースが多く、ユダヤ人コミュニティの経済圏が形成され、ユダヤ人が必要とする物品の多くはその中で購入することができ労使関係において宗教、文化、歴史をともに分かち合うユダヤ人同士であることが多かったことも特徴です。

衣服産業の構造と状態

ロシア系ユダヤ移民の「ユダヤ人経済」の中核は、労働者の半分を雇用した衣服産業であり、20世紀初頭ニューヨーク市の衣服産業は、全国既製服の約半分、婦人服の場合は4分の3を占めた一大産業であり、1910年マンハッタンでは41万4000人の工業労働者のうちの21万4000人(52%)を彼らで占めていました。
 しかし、ユダヤ人労働者は低賃金、長時間労働、不衛生な状態での仕事場を意味する悪名高いスウェットショップ(汗をたらして働く仕事場)の状況に苦しみました。

工場とは分けられた小さな仕事場は下請けとなる零細仕事場であり、競争が激しくなると労働時間は無制限になり、繁忙期ほぼ徹夜状態でしたが、やがて工場で大量生産ができると、コストの低下が生じ、一部の熟練工を除いては過半数の労働者の賃金は低下することになり雇用は不規則だったため労働者は周期的な失業に苦しみ、季節的な変動に対応するために内職に精を出す事もありました。

現代のスウェットショップでは、パワハラやセクハラも常習化している他、児童労働や強制労働が伴う工場も未だにあります。

ユダヤ教が繋ぐ共同体的絆

そもそも1899 年~1909 年に入国したロシア系ユダヤ移民の半数近くが衣服製造労働者だった背景には、ロシアとアメリカとのあいだに職業的伝統が継続していたことや、肉体的労働の経験に乏しかったこと、故国でシュテットルの職人だったことからスウェットショップ制が伝統や志向に合致していたことなどが挙げられますが、最大の理由は、ユダヤ人雇主のもとで働くことでユダヤ教の土曜日の安息日と祭日を遵守することができたからで、厳しい仕事ではあったものの、宗教的な理解の上に「家庭的」な雰囲気があったためと考えられます。

極貧状態から豊かになった理由

アメリカ移住した頃の初期はスウェットショップで昼夜問わず働き低賃金の中で、高い家賃のために下宿人を何人も住まわせるなど厳しい生活を強いられていた彼らロシア系ユダヤ移民は、一世代で労働者階級を脱し、急速な社会的上昇を遂げることに成功しています。実際に、ニューヨークでは 15~25 年以内に半数以上の者が中産階級入りしており、滞米期間が長くなれば賃金も高くなることを示しています。
賃金が週 12.5 ドル以上の者は滞米年数 5 年以下の者では 30%程度でしたが、5~9 年の者では 57%、10 年以上の者では 68.6%となっており、妻や子供の稼ぎに頼る割合も減少し、文化的・教育的活動や娯楽への支出が増大しています。
このような全体的な上昇だけではなく、経済的成功を収める企業家も続々と現れ、『フォーブス』が提供している「全米で最も富裕な 400 人の長者番付」には 23~26%のユダヤ系移民が毎年載っています。


・後に RCA(RadioCorporation of America)の総帥となるデービッド・サーノフ(1891 年~1971 年)
・11歳から被服産業で働き始めたウィリアム・フォックス、20 世紀フォックス社の創業者など
医者や弁護士といった専門職でのユダヤ移民の割合も 40%と高く、知的・文化的な領域においてもトップに立っています。


また、1975 年にアメリカの全大学でユダヤ人は教職員の 10%、同時にエリート大学の教鞭者の 20%を占めており、24%の聖公会派、17%のカソリック教授たちに比べて 50%近くのユダヤ人教授がトップランクの諸大学で教鞭をとっていたことがわかります。
 ユダヤ人は非ユダヤ人教授の同僚に比べると学術ジャーナルなどに論文を発表することがかなり多く、20 以上の論文を発表した学術エリートの 24%に上っています。
 ジャーナリズムの世界でも 1936 年には WASP が圧倒的に優勢でしたが、1970年頃のアメリカには 1748 紙の日刊紙が存在し、そのうちの 3.1%をユダヤ人の社主が所有していました。これを総発行部数でみると、全体の 8%をユダヤ人所有の新聞が占めていたことになり、この 8%のうち半分以上を占めていたニューハウス社の創業者は新聞王と呼ばれたサミュエル・J・ニューハウス(1895~1979 年)で、ロシア系ユダヤ移民の移民二世としてニュージャージー州、ベイヨンで育っています。


 大部分の教養雑誌、もユダヤ人の手で編纂され、ディセント誌のアービング・ハウィ、ニューヨーカー誌のウィリアム・ショーン、パブリック・インタレスト誌のアービング・クリストルおよびネイサン・グレイザーなどが挙げられます。
 アメリカのノーベル科学賞受賞者の 30%、全米科学アカデミーの会員としても 30~40%を占めています。

極貧生活からの目覚しい進出の大きな要因の一つには、表向き不動産業での成功と裏では麻薬売買などの犯罪など、数種にまたがって仕事をこなし、住宅の需要増加と都市の住民、なかでもユダヤ人の居住地から居住地への頻繁な移転が、大工や電気工、不動産関係者に仕事の機会を創り出すことに成功したからです。
 20 世紀初めの土地需要の増加によってロワーイーストサイドからブラウンズビルにかかる土地価格は一区画の値段を二年間に50 ドルから 3000 ドルに高騰させました。
 1920 年までにニューヨーク市の建設業者や開発業者の 40%がロシア系ユダヤ移民になっていましたが、大工やペンキ屋、あるいは店主や衣料品製造業者出身であり、少ない資本金で一軒の家屋を買うことから始め、徐々に増やしていき、自前の建設業者へとなっていったのです。貧しくても資本金を貯める為に、自宅に下宿人を置くことなど、あらゆる方法で生計をたてていったことが考えられますが、不動産業はロシア系ユダヤ移民にとって理想の天職となりました。
その理由として、不動産業はロシアで長い間禁止されてきた土地所有への欲求を満たしてくれただけでなく、土地が生み出す利潤に目をつけた点が他の移民とは異なるところでした。

1915年の研究で、ハーバード大学と MIT 大学の学者たちは、「ユダヤ人は不動産所得に異常に飢えている」と報告しています。
しかし、もともと移住前は不動産などの固定資産に投資することは差し控えており、彼らの世界ではどんな時でも逃げ出せるように資本をできるだけ流動的なものにしておくという考え方だったのです。しかし、不動産は製造業と違い、多額の設備投資は必要なく、卸売業のように仕入れた商品の在庫を常に抱え込むリスクを負う必要もなかったことや、知的専門職のように高い学費を払いながら何年も高等教育機関で学ぶ必要もなかったこと、さらに一般に借入金でできることから、自己資金もわずかで済み、何よりもエリート度の高い産業に存在したようなユダヤ人を排除する社会的障壁が、この業界には存在しなかったことから人気が高まり、サンフランシスコの不動産開発業者ウォルター・ショレンスタインがいうように「不動産の仕事は会社組織としては成り立ちにくいので」、完全に開かれていた状態だったのです。
事実それは興行性のある活動であり、大きなリスクと同時に大きな報酬を伴う仕事であり、特に不動産業は貧しいユダヤの移民家庭に育った野心的な若者にとって文字通り理想的な天職となりました。
 1920 年までにニューヨーク市内の不動産開発業者、建設業者の実に 4 割までを彼らが占めるようになったのです。

あまり知られていませんが、実はトランプ元大統領の父親もアシュケナージ・ユダヤ人であることは明らかです。

ビジネス雑誌『フォーブス』が毎年 10 月に特集として掲載している「全米資産家最上位 400 人の長者番付」の 2000 年版では 400 人中 64 人、16%がユダヤ人に対して黒人、ヒスパニック系、イタリア系、東欧系のキリスト教徒はほとんど登場しません。
 2000 年度では 1990 年から 1993 年の深刻な不動産不況に遭い、後退しているものの 1985 年度版をみるとわかるようにユダヤ系資産家最上位 20 組のうち、10 組までを不動産業が占めています。
 また、1985 年の長者番付では400人中ユダヤ人は 26%を占めており、これがピークの年とされています。

不動産業ではシカゴのプリッカー家、ロサンゼルスのイーライ・ブロード、同じくドナルド・ブレンが有名で、プリッカー家は複合企業「マーモン・グループ」の社主でハイアットホテル・チェーンなど 100 以上のホテルを所有し、個人資産額は 55 億ドルとされています。
・イーライ・ブロードは短期企業貸付の「サン・アメリカ」の会長であり、住宅建設の「カウフマン&ブロード」の社主でもあり、個人資産額は 52 億ドルです。
・ドナルド・ブレンは太平洋岸諸州で不動産経営管理を行う「アービン・アパートメント・コミュニティーズ」の社主であり、カリフォルニア州オレンジ郡最大の土地所有者でもあり、個人資産額は 40 億ドルとされています。
・残り 10 組のうち 5 組が渡米前に行っていたエスニック・ビジネス(被服の製造と小売、穀物取引、蒸留酒製造など)で資産を築き、さらに 4 組は化粧品やマスメディア、残りの 1 組が古くから WASP に支配されていた「伝統的基幹産業」である石油業でした。
 以上よりユダヤ人大富豪のうち半数が不動産の開発・投資により資産を形成していたことがわかります。

不動産業は 19 世紀末から 1980 年代に至るまでアメリカ・ユダヤ人最大の蓄財源となりました。

帰国率の低さ


1908 年から 1925 年の帰国率は、イタリア系移民は 55.8%、ルーマニア系移民は 67%、日系移民は 40%に達しています。一方、ロシア系ユダヤ移民は 5.2%であった。他の移民は出稼ぎ的意識が強く、結婚資金や故郷で農地を手に入れるための金稼ぎができると帰国してしまったのに対し、ロシア系ユダヤ移民は法的差別を受け、賤民だった本国に戻る気はありませんでした。
 本国にいても主流に入れなかったロシア系ユダヤ移民にとってアメリカへ来ることは地位の上昇でこそあれ、下落ではなかったのです。何よりも貧困が苦にならないほどロシアよりも自由であり、将来にも楽天的であったのです。

教育と宗教

また、ロシア系ユダヤ移民はもともと熱心なユダヤ教正統派であり、ユダヤ教の伝統を遵守した生活を送っており、教育を重視する宗教的・歴史的伝統が挙げられます。彼らはどのような迫害を受けたとしても、頭の中の知識だけは人が生きている限り、誰にも奪われることはないと考えており、宗教的にもユダヤ教徒にとって無学なことは恥とされ、ユダヤ教の聖典を読めないことは罪とみなされ、来世では永遠の罰が定められていると信じられていたため、識字率は高く、ヘブライ語、イディッシュ語、ロシア語、ポーランド語などの読み書きもできる者が多かったことも特徴です。
 ロシア系ユダヤ移民は識字率だけではなく、教育水準・勉学への傾倒も比類ないものでだったのです。

出自や血縁よりもユダヤ教徒としての行動が重要視されることも多く非ユダヤ人でも神の下僕となり神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされるので、実は国籍はあまり関係ないと言われています。

ただし、ニューヨークにおける 1908 年の調査では、ドイツ系移民の子供たちは最も成績がよく、次にアメリカ生まれの子供たち、そしてロシア生まれのユダヤ人、その次にアイルランド系、イタリア系移民の子供たちという順になっていたのでロシア系ユダヤ移民学童が他の諸民族の学童に比べて飛びぬけて優秀だったというわけではありませんでした。 
 また、欠点としては肉体を犠牲にしての精神の過剰な発達、極度にラディカルな思考、過剰な感受性、体育への無関心が挙げられています。

そうした教育や節約の結果、1915 年のロードアイランド州プロビデンスにおいてロシア系ユダヤ人男子の中に占める高卒者の占める割合が、既に 21.9%に達し、他の移民集団全体の平均値 11.9%、アメリカ生まれの白人の平均値 13.8%を上回る数値となったことから、ロシア系ユダヤ移民の教育水準の高さが社会的地位上昇において土台になったことも挙げられます。
 現在でもユダヤ人の 60%以上が大卒で、非スペイン語系白人の 3 倍に達しているほどで、高校男女を対象にした進路調査でも進学への意識が高い結果が出ています。

親子関係でいえば、子供の将来のために自分の快楽や幸福を犠牲にさせる傾向があり、ユダヤ人の親は伝統的に、子供を自分の分身と考え、ロシア系ユダヤ移民は子供たちは両親のナハスであり、子供の成功と功績は両親の成功と功績になり、子供の失敗は親の失敗になると考えています。とくに息子は幼少の頃から家庭生活の中心になる傾向があり、思春期が終わるまでは過保護で外部の人間には、ユダヤ人の両親は子供を甘やかすと見えます。
 アングロアメリカの伝統に基づいて育てられたキリスト教徒は子供にさほど依存しないために、子供の要求にもそれほど動かされなかったのでユダヤ人の許容度を甘やかしと見ていたのです。

社会的な成功の最大の要因

新たに事業を立ち上げようとする人にとって、資金調達は極めて切実な問題となりますが、この点に関しては小口の事業資金を無利子で貸付ける制度がユダヤ人社会の中に存在しました。
 その代表が 18 世紀のヨーロッパに起源を持ち、19 世紀末、ロシア系ユダヤ移民が移住すると共に続々と全米各地に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会(Hebrew Free LoanSociety )」です。

サイトを訪れるとウクライナのユダヤ人を支援しているようです。

商才に長けた日系や中国系は母国から無尽や互助会といった同胞同士の資金調達システムを持っていましたが有利子であり、出資者も借り手と同じく貧しい移民であるのに対して、「ヘブライ人無利子貸付協会」は無利子で、出資者は借り手と異なり、主にアメリカですでに成功を収めていた比較的裕福なドイツ系ユダヤ移民でした。
 さらに、日系の宗教色を持たない団体と違ってこの協会はユダヤ教の教えに乗っ取って設立された宗教的慈善団体であった。
1927 年時に全米で 509 存在した「ヘブライ人無利子貸付協会」のうち、実に 427 までがユダヤ教会堂の中に設置されていた事実からもそれは明らかで、協会設立背景には、貧しい同胞に無利子で金を貸すことを宗教的義務と定めたユダヤ教律法の規定、そして同胞が貧困の悪循環を断ち切り、商売で身を立てられるよう援助することこそ最高の慈善行為と称えた中世のユダヤ教賢者マイモニデス(1135~1204 年)の教えがあったのです。

1892 年に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会」のニューヨーク支部が創設以来、1 世紀の間に数十万人の借り手に対して総額 1 億 800 万ドルもの貸付を行い続け、貧者救済に加えて雇用斡旋部と職業訓練学校をも運営し、小事業を発足させようとする者を援助してきました。とくにロシア系ユダヤ移民コミュニティは家族生活の上に立脚しており、家族を最小単位としつつ、移民たちはランズマンシャフトと呼ばれた同郷集団の網の目を打ちたて、多くの種類の諸組織を作り出していきました。

宗教的にはシナゴーグと宗教学校、慈善・相互扶助団体、教育機関、労働団体が設立され、活気に満ちたエスニック・コミュニティが成立し、老齢者を保護した「ヤコブの娘たちの家」、孤児を収容した「ヘブライ孤児院協会」、「ヘブライ収容保護協会」、身体障害者を受け入れた「聾唖者教育協会」、到着するユダヤ移民の援助をするための「ヘブライ移民協会」、などがつくられています。


ロウアー・イースト・サイドのテネメント(長屋)ビルにも多くのロシア系ユダヤ人が集まった

ランズマンシャフト

「ヘブライ人無利子貸付協会」の他にもう一つ移民に密着していたのは故国の同じ町や地域からきた移民たちからなる団体、ランズマンシャフトです。ユダヤ人は国としてのロシアやポーランドに対して強い忠誠心を感じることは稀だったが、かつて住んだ小さな土地に対しては強烈な愛着をよせ、ノスタルジーにかられて同郷者団体を作り上げていたのです。
 1914 年にニューヨーク市内には 534 のランズマンシャフトがあり病気や死亡、失業に対する相互扶助組織として機能していました。さらに二つ目の機能はユダヤ人墓地の一区画を購入することで、ユダヤ人はユダヤ人のあいだで永遠を過ごすことを望んできたのです。そして、第三の機能として、非公式的な雇用斡旋機関としても役に立っていたことです。

従業員がユダヤ教のボスを求めるように、経営者もまた自分の企業に同郷者を雇おうとしたのです。こうしたネットワークはロシア系ユダヤ移民にとって苦しみを分かち合える憩いの場であり、ドイツ系ユダヤ移民なども含めてユダヤ移民全体で社会的上昇を目指していける支え、原動力となったのです。

終章まとめ

歴史的なロシア系ユダヤ人の特徴のまとめ

・米国におけるユダヤ人の起源と移民の波
・ロシア・東欧系ユダヤ移民の大量流入とその背景
・ツァーリズム政策により行われたポグロム
・ロシア帝国内でのユダヤ人口増加と出移民増加の関係

彼らの社会的成功要因
・不動産業との出会い、
・帰国率の低さ
・都市的・商工業的背景
・ユダヤ教ネットワーク

特にユダヤ人の不動産業における適性も関係しますが、業界が自由であった点と、ここではあまり載せられませんでしたが、マイヤー・ランスキーなどのユダヤマフィア及び聖職マフィア(チャバット)との取引による莫大なユダヤマネーが宗教と絡んで一種のカルト的な力が大きく牽引してきたことが考えられます。また、底辺の社会層までも救済するネットワークが整えられていることも特徴です。

さらに第一、第二の波でアメリカに移住したセファルディやアシュケナージのユダヤ移民とも人種を超えた宗教的な融合が巨大な力を生み出し、独自な戒律により民間を超えた準国家を思わせるような組織体制を作り上げたことが成功要因であったと考えられます。

参考及び引用資料:アメリカにおけるロシア系ユダヤ移民
http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu12/yaginuma.PDF


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