優しさの用法用量

やあ、おかえりなさい。


私は幼少期、何かを育てることに熱中していた。
植物の種を蒔いては、川辺からカエルの卵を持ってきては、虫網でカブトムシやカマキリを捕まえ育てていた。

私はそれらをとても立派に育てたかった。それ故に水や餌を沢山与え毎日世話をしていた。


しかし、それはどれも長続きしなかった。

大人で博識を持つ今なら理解できるが、植物は大量の水分では根腐れし、昆虫やイキモノもそれぞれ適当な育て方がある。

それらを知らない幼少の私は、とにかく自分意思をイキモノに押し付けていた。与えすぎていた。
今思えば残酷な記憶だ。


さて、本日はそんな話。テーマは


「他人への優しさ」


である。我々人間は他人と関わりなくしては生きていけない。自らを産み落とした親が存在し、社会という箱庭で人間独自の世界を日々繰り広げている。

その中でも特に無意識で自己や他人を蝕む甘い罠、それが「過度な優しさ」だ。

私自身、直面している壁でもある。
私はよく面倒見が良い、とか優しすぎる人だ、とか言われる機会が多い。

しかしある日気づいたのだ、それが自らへの束縛と消費に繋がっていることを。


性格の問題も絡むかもしれない。が、多くの者は他人へ優しくし、それに対する応答があれば幸福感を感じるだろう。
自分を頼りにしてくれている、良く思ってくれている、そうプラスに感じていると思う。


しかし、その他人に向けた優しさ、やりすぎてはいないか?


確かに幸福感を感じ、人間関係を構築し、他人への優しさは一番向けるべき感情や想いである。

だが、それに「自己消費」が関わると話は別。


他人の承認欲求や自己認識を重く見るあまりに無理なまでに優しくする。
それは本当に先方の為になるだろうか?そして自分の為になるだろうか?


例えば「野良のイキモノに手を焼くな」


これは人間が干渉するとそのイキモノが自らの力で生命維持をし難くなる。そういった意味合いである。
ひとたび餌を与えればその場所にしか来なくなるだろうし、怪我の手当も自然界には存在しないイベントだ。それはなんとなく分かるだろう。


人間も同じだ。同じイキモノだ。

優しくし過ぎると先方の感覚も狂い、無理なお願いや希望を通そうとする。それに釣られこちら側もそれを飲んでしまう。

自分が優しい存在だと主張するために。期待を裏切りたくない気持ちが存在するがために。

そして人間は、聡く狡いイキモノだ。
その無理な優しさを、言葉巧みに利用し始めてしまう。

それらがやがて、人間関係の歪みに繋がる。
認識が変わり、疲労し気づけば遠い存在になる。

そんな経験がこれを読んでいる者にもあるのではないだろうか?



優しさの用法用量はとても難しい。
この世界の人間が全員守れてれば世界平和なんてなんの夢物語ではない。

人は、優しくしたい、守りたい気持ちだけでも戦争を起こしてしまうくらいだ。

これを読んでいる者は、人間関係を作るにあたり「優しさの主張」はしないで貰いたい。

無理に優しくするだけが人間関係に関わる訳では無い。ましてやそれが自らの精神を気付かぬうちに負担をかけ、削っていく。

自分を犠牲に、優しさという水を与えすぎる必要はないのだ。

勿論、ケースバイケースだ。
友達と恋人や婚姻相手を同レベルでは扱わないだろうし、良く思う相手が傍に居るなら優しく接するべきだ。
その場合も、一方的ではなく互いに尊重し合える関係性が必要になる為、やり過ぎは良くないが。


「優しい」とは繕うものではない。性格の一部だ。そしてそれは決して振り撒くものではない。
無理な優しさは自分への嘘になり、生きる道を制限してしまう。「自分らしさ」を見失う。



人生とは、己が主役だ。脇役のために生きるのではない。自分のために、深く関わりたいヒロインのような存在のために、ステージに立て。

その方が、自己を守り豊かにしてくれる。
私はそう信じている。


さあ、いってらっしゃい。

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