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回顧

大学の時仲良かった2個下の後輩がいて、卒業してからも遊んだり連絡取ったりしてて本当に友達の中でもすごく仲良いと思ってたんだけど、2021年の最初の鬱の時にその子に「死にたい」って漏らしたら「死んだらいいじゃん」というようなことを言われて、(もう無理だ〜)になってしまったんだよな。
他人に「死にたい」なんて言う私が悪いし、これまで他の友達の反応が怒ってくれたり励ましてくれたりだったのは彼女らがめちゃくちゃ優しかったからで、「死にたい」という人間に「死ねばいいじゃん」と返すのは有りなのかもしれないけど、それでも信頼してた人にそう言われたのがショックだった。
その子にとっては、私って死んでも良いんだなって思って、それから連絡取ってない。
実際に自死することはかなり難しいけど、会わない人間の中のみ死ぬことはかなり簡単。
会わないし見えないし話さない人間なんて死んでるのと一緒じゃんね。
こういうこと書くとまた「この人ってそういう(キレたら即斬りとかする)人なんだ、、、」て思われて他者からの信頼ゲージが下がると思うけど、、、
分かんない、私だって友達を失いたくないよ。
でも私にとっては大切な友達って絶対死んでほしくなくて、それがいくら私のエゴでも絶対そう言うから、なんかもう大切にされてなかったんだろうなと思うし、その子も私と友達でいたいと思ってなかったんだと思う。
「普通にイヤって言えよ」それはそうですが、その時の精神状態ではそれ以上にコミュニケーションを取る気力がなかった。
絶対に押しちゃいけないボタンは絶対に押しちゃいけないんだよ。

久しぶりに「うちの玄関に座るため息」を読み返した。
2021年10月、発売当時に読んだときは『後悔を引き受けること』ということにすごく、感銘?というか、なんか、、、ハッとさせられた。
私は私が生きていく中で、自分の選んだ道が正解だったということにしてきた。
そういう風に自分を鍛えてきた。
初めて読んだ時から2年ちょい経って、まだその癖は抜けないけど、本当はもっと考えて、頑張って、行動して、そうして失敗したとしても「しょうがなかった」「どうせ◯◯になっていた」とか惨めな負け惜しみを自分に言い聞かせて全部を投げ捨てたりせず、私の歩いてきた道、失敗も不正解も後悔もちゃんと全部抱えて生きていくべきなんだと思う。本当に難しくて苦しいですが・・・・・・

舞城王太郎の物語は読む度に新たな発見があるな〜と思うけど、今回はここ↓がすごく、良いなと思った。

※本のページの写真があります↓



舞城王太郎「うちの玄関に座るため息」,『畏れ入谷の彼女の柘榴』p.182,講談社

正しい間違ってるとかじゃなくて、いろんな考え方と感じ方がある。
人はそれぞれ違う。
分かってるはずなのに、何度でも分かるというか、分かりが深まる。
そして正しさは別に人を守らない。
「こうあるべき」みたいなのってあるけど、暗黙の了解もあるし、一部は法律になってたりもするけど、でもそれって私とか誰かを守ってくれる訳じゃない。
悲しいし、苦しいけど、そうだし、それに正しいとか間違ってるとかって本当はなくて、その人の主観・価値観・主義主張でしかない。
その立場に立った時のひとつの正しさでしかないから、その反対側にも正しさはあるかもしれない。
だから正しさが人を守らないというか、人を守れるような絶対的で完璧で強大な正しさなどそもそも幻影ということかもしれませんが・・・・・
それはそれとして、たとえそれが絶対じゃなくたって、守ってくれなくたって、それでも自分のために誰かが自分のそばに立って正しさを掲げてくれるのは、「奇跡みたいに温かい」愛だよな、、、


失ってしまった友達のことを考える。
怒りや悲しみもまだあるけど、きっともっと私には、いろんなことができたんだろう。
もっとちゃんと話すことや、伝えることや、聞くことや、考えることができたはずだろう。
でもやらなかった。
全部私が悪いんだよ、という言葉もまた、全部を自己責任ということにしてそれ以上の追及から逃れようとする、狡い思考停止だろうか。
仕方ないんだよ、ということにしてしまいたいけど、そうじゃなくて、せめてまだ側に居てくれている人たちに向き合う。
これ以上友達を失いたくないけど、同時に友達を失うことは“ある”んだと、知ってしまっている。
めちゃくちゃ優しい友達たちがいつ私を見限るか見放すか呆れ果てるか分かんないから、できるだけ大切に、丁寧に、真摯に、付き合っていきたいよ。


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