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孤独を乗り越える

 私は幼い頃から父と衝突していた。だから私は父のことを恐怖と不安をもたらす権力者として憎んでいた。強く印象に残っているのは、父の仕事に対する姿勢と酒グセが悪いということだった。父が酒に酔って包丁を私に向けたとき、怖くなった私は裸足で母のいる小学校の体育館まで走ったが、母は私の話を真剣に取り合ってくれなかった。

お父さんがそこまでするわけがない

 それから安心できる場所がなくなったことは、その後の私の成長に大きな影響を与えたようだ。妹はその瞬間から私の心が家族から切り離されたことを知っていた。父が亡くなった日の通夜の席で、そのことを打ち明けてくれた。妹はずっと私のことを見ていたのだと思う。色々な意味で。

 父が亡くなる3年前、私たちはお互いを理解するようになっていた。父も私も男だったのだ。一人の人間として向き合えば、うまくやっていくのはそれほど難しいことではなかった。難しかったのは、お互いを見る「父と息子」という見方だった。そんな父が突然病に倒れた。その変化に気づいたのは私だった。

 私は長い間、家族と疎遠に暮らしていたが、父の異変にはすぐ気づいた。母はその変化に気づかなかった。いや気づけなかった。「どうせまたウソだ」と決めつけていた。母は自分の考えを変えることができない人だった。私はそんな母が嫌いだった。

 私はいつも夫婦喧嘩を見ていて、そのたびに父に立ち向かい、そして殴られた。しかし、母は私をかばうことはなかった。母が何を言おうとしているのか理解できず「あんたが歯向かうから」と言われ続けた。

 父は悪性リンパ腫を患い、11カ月目に亡くなった。母は父の車をすぐに売った。それが家族を捨てる決定的な要因になった。その直後、地元のライブハウスで危険ドラッグの店を経営している後輩に出くわした。吸ってすぐに、このドラッグはダメだとわかった。

でもやめる選択が当時の私にはできなかった。今の姿を見て父は何を思うのか。ある日、父が夢に出てきたとき、そんな私を責めなかった。

  私がその後、母に会ったのは、元反社の人物との間で傷害事件となり、その過程で司法病棟に収容されたときだった。

そんなことする人間に育てたつもりはない

 そう告げられた。私は正直、安心した。「ごめんね」と言われたら、今までの恨みがすべて帳消しになってしまう。もう恨みが手放せないほど、自分の中で定着していた。

 父に言いたい。私は今の人生を悲観していない。私は優等生ではないので、美しい人生の道を歩むことはできなかった。しかし、この状況に置かれた今、私は自分なりの答えを見つけようと懸命に努力している。残念ながら、死を意識して生への飛躍に耐える強さは私にはなかった。

 私は自分の弱さを受け入れ、生を認識しながら生きることにした。いつも不思議に思っていたことがある。私が父の想像を超える行動をしたとき、怒らず「よくやった」と言ってくれたことだ。あの世で父に会ったら、今の自分を褒めてもらおう。

2015 5/31


ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

ヴィクトール・フランクル


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