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to be "ONE"Part4(仮面と影の世界)

オープニング

 『to be "ONE"Part1』では「心=宇宙」、『to be "ONE"Part2』では「実存」、『to be "ONE"Part3』では「自我」、そして今回、第4の意識領域である「仮面」の世界を取り上げます。

 ↑の画像のとおり、「仮面の世界」での意識の幅は非常に短く、視野の狭さとストレスの多い意識状態を示しています。特に現代社会は「自我」「仮面」の世界で暮らす方が多いと思います。

カール・グスタフ・ユング

 心理学の三大巨匠のひとりであるカール・グスタフ・ユングは「人間が他者と接するときに社会的に求められる役割を演じようとする機能をもつ生物である」と考え、次のような心の仕組みを前提に体系的にまとめました。

 言い換えると私たちは、時と場合に応じて役割を演じているということ。これが「ペルソナ(仮面)」です。次にユング心理学における「意識」「無意識」の定義を要約します。



ユング心理学

BTSとユングの教え《ユング心理学》より引用

 ユング心理学では、自分が第三者に「自分をこう見て欲しい」という肯定的な側面を「ペルソナ(仮面)」と呼び、逆に否定して認めたくない側面を「シャドウ(影)」と呼びます。

 また、無意識の領域に男性の集合的無意識に潜在している心理的な女性像である「アニマ」と女性の集合的無意識に潜在している心理的な男性像である「アニムス」が内在しているといいます。

  • 自覚できる一面「意識」

  • 無自覚だが、心の奥底に存在する自分の一面「無意識」

  • 人間は意識・無意識を併せ持ち、心に相反する2つの要素を内在

  • 人間の心は意識・無意識どちらの領域も「本当の自分」

 つまり、自覚している意識ではペルソナ、無自覚の無意識ではシャドウ、心には相反するアニマ・アニムスが内在していると定義しています。

 そしてユングは、現実の自己とペルソナのギャップが心理的問題を引き起こす可能性があると警告し、ペルソナを強調しすぎると本質が隠れることで影が大きくなり、心理的な問題を引き起こすと指摘しました。

 余談ですが、『失われた古代文明の痕跡Part1』で触れたとおり、集合的無意識の領域は、神話にまつわる登場人物や逸話と個人の出来事がシンクロすることが多く、共通の法則となっています。過去記事の『神話の法則』でまとめているので、ぜひご一読ください。



仮面と影のレベル

 自我のさらなる断片化と分断は、二元論的思考の強迫を誘発し、自我の統合を欠き、仮面や影として投影されていきます。

 自分自身の「ある側面」を抑圧し、見せかけを装って存在させたとしても、それが自分自身であることに変わりはありません。

 そして、仮面や影による投影は「幻想」でありながら、あたかも「現実」であるかのような性質を持っています。

 他者ではなく、自分の認知を変えない限り、歓迎されない部分や嫌われる部分は影のようにつきまとってきます。

 そして無意識は抑圧のメカニズムによって、顕在意識から消去された欲望と結びついた潜在意識に蓄積され、一方で欲をかき立てられます。

 私はこの性質をマーケティングや情報のコントロールに応用されている気がしてならないのです。つまり、市場は市民の「恐怖」と「欲望」を煽ってトレンドを形成します。その広報担当が「メディア」です。

 抑圧された潜在意識は極端な感情や思考となって表面化し、それを宗教とお金がアシストします。

 宗教と金の組み合わせが人間の心を支配し、蝕んでいると言っても過言ではありません。つまり、「救うもの」が「巣食うもの」になっています。

 ここからは「ペルソナ(仮面)」と「シャドウ(影)」を、それぞれ自身の過去を振り返りながら検証していきます。



ペルソナ(仮面)

 私の両親は不安と期待の矛先を過度に私に向けていたため、私はさらに親の不安や期待に応えようと「良い子でいる」ことを演じようとしました。

 そうしているうちに、自分にウソをつくことを覚えて家族の中で孤立しないように自分を守ろうと試みましたが、私が守ろうとしていたのは自分ではなく「父と母の夫婦関係」であることに気がついてしまい、それが「恨み」につながっていました。

 家庭での振る舞いが常態化し、あらゆる状況に適応しようとすることで本当の自分との間に摩擦や亀裂が生じてきました。

 そうすることで自分の気持ちに正直になる機会を失い、他者から見た自分が本当の自分よりも勝ってしまい、自分でもありのままの自分を認識できなくなっていました。

 言いかえると、ペルソナがより強く、より多くなるにつれて、自分の考えを正当化、合理化する場面が多くなり、その考えを自分に投影すると自己同一性との矛盾を感じるようになっていました。 

 学校教育を通じて社会的人格を形成し、発展させることを奨励する社会構造に私は混乱しました。このような環境の中で作られた自我で自己イメージを作り上げることに私は苦痛を感じ、壁にぶつかりました。

 私は社会に適合するのが苦手なまま、自分を誤魔化し続けました。その過程で、意識が外に向きがちになり、自分の内面に耳を澄ますことがおろそかになり、自分の価値を何で測ればいいのかわからない状態に陥りました。

 私たちが白黒思考や二元論的思考に陥りやすいのも、色々な「顔」をしなくてはいけない状況や場面が多いのが原因の一つかもしれません。

 今でも「自己内観」の機会を失うと、この状況に陥ることがあります。「心の声」を聞くことはとても大事なことだと思います。

 「第三者からどう見られたいか」を基準に自分の考えを構築することは、「本当の自分」の間に大きな影を作り、スポットライトの強さに比例して後ろにも大きな影を作っていました。



シャドウ(影)

 シャドウ(影)は、スポットライトを当てると後ろに影ができるのと同じ原理で、投影の強さはそのまま影に反映されます。

 同様に、影は自分で踏むことが出来ないので、影そのものに焦点を当てる必要がありました。

 本当は、影を濃くしないように光(第三者の目)を調整すべきだでしたが、それを怠ったばかりか、影を濃くすることに安らぎを見出してしまったこともありました。

 仮面の数と同様、いつの間にか自分で抱えきれないほどの影ができていたと思うと…

正直に言うと
人のやさしさが苦手でした…

 人のやさしさが「ウソに見えた」というより、どう受け取ればいいか分からなかったのが本音です。

 誰かに何かをしてもらうと「お返しをしなければ」「借りがある」と思い、素直に受け取るのは「悪いこと」だと思い込んでいました。

 振り返ると「幸せになるとはどういうことか」「幸せを感じるとはどういうことか」という肝心なことを考えたことがなかったのです。

 それを考えてしまうと、今までの自分を否定する気がして、怖くてできませんでした。以下のケン・ウィルバーの指摘は的確です。

未来の幸福の追求にあまりの多くの時間を費やすあまり、やがて前進のプロセス自体を幸福と同一視してしまう。幸福の追求と混同するのだ。

そのためわたしにできることは追い求めることと走ることだけになる。そして熱中のあまり止まることができなくなる。そうなると当の未来の良きものがたとえ現れてもわたしは止まることができず、それを通り越して走り続けるのである。

現在を楽しむことができなければ、未来が現在になったときそれを楽しむこともできない。わたしは永久的な欲求不満に陥り、より早く走ることだけが唯一可能な選択肢となり、慢性的な欲求不満のために働くという悪循環にはまりこむ。

ケン・ウィルバー

 自分なりに解釈すると「流れの中に生きながら流されるな」ということになりました。

 施設に入寮している時、口グセのように「欲求不満」と言っている仲間に「何の欲求不満があるの?」と聞いてみると「わからないけど欲求不満な感じがする」と答える人がほとんどでした。

 つまり「何に不満なのかわからないことが欲求不満になっている」ことに多くの人が気づいていないのかもしれません。

 私の説明や言い回しが独特なので、↑の動画でおさらいすると、ユング心理学について理解が深まると思います。

 ここから「心に相反する2つの要素を内在する」世界を視ることができる「鏡の世界」を取り上げます。



鏡の世界(アニマ・アニムス)

 鏡の世界に代表される相対的対称世界では、知覚者の意識状態を通して知覚されるため、知覚されるものはすべて意識状態と相関関係にあります。

 自分を知るためには、自分以外のものによってアイデンティティを確立していくのが人生なので、出来事や人々を通して「自分」について学びます。

外部から働きかける力には
魔が差しやすく
反応しやすい傾向にあり

内面から働きかける力は
真に受けやすく
受け入れようとする傾向にある

それは鏡に映し出されるイメージのようなものであり、見えはするが、実在はしない。

唯一の心は、記憶によって構築された鏡に映し出されるとき、無知によって二元的なものとみなされる。

全宇宙の存在は、始まりのない過去から蓄積されてきた記憶の誤った解釈に帰せられる。

楞伽経

 また、アニマ・アニムスそれぞれの特徴は、『情緒Part1』で取り上げた「自己主張傾向」「統合傾向」に当てはめることができます。



ウィリアム・ブレイク「大いなる赤き竜と日をまとう女」

アニマ・自己主張傾向

自己主張傾向は、個性の動的な表現に基づく。抑圧された自己主張傾向から生まれる情緒はアドレナリンが関与する攻撃的=防御的情緒である。飢え・怒り・恐怖・性欲・愛情や所有欲がここに該当する。

アニムス・統合傾向

統合傾向に由来する情緒は、共同体・宗教的信条・政治的イデオロギー・自然と自分・芸術・スピリチュアリティ等包括的な全体に所属する欲求が該当する。

 私は、自己主張傾向を「思考による二つの知」、統合傾向を「心による一つの知」にあてはめて考えています。

 気をつけなければならないのは「人間の残忍な破壊的傾向が自己主張に由来するのではなく、じつは統合傾向に由来するというのは人間の条件の皮肉のひとつである」ということ。

 自己主張(エゴ)が強いから暴力的で攻撃的な面があるのだと思っていましたが、過去の経験を振り返ると、自分が受け入れられない人や出来事への対処が下手で、我慢して問題を先送りし続けてきたことが生きづらさの原因だったと気づきました。

個人的無意識
自分と他者との相対的対称世界

集合的無意識
自分と世界との相対的対称世界

 私たちが二元論的な現実の中で生きているのは、すべて「正しいか間違っているか、善か悪か、黒か白かでなければならない」という誤った認識や思い込みからきています。

 例えば「どちらを選ぶか?」という二者択一は「1/2」ではなく、潜在意識に蓄積された情報量によって表層意識としてあらわれます。

 光は暗闇の中で輝いています。無意識とはそういうもので、私たちは自分がありのままの心であることに気づかないように、あるいは忘れないようにしています。



霊的エゴ

 日常生活の中で、心の濁りをなくそうとするあまり、浄化ではなく洗浄の感覚を持つことが大事だったのですが、自分や他者に足りないものに目を向けてしまい、最終的に自分や他者を傷つけてしまう思考パターンに陥っていました。つまり、エゴを無くすことより、エゴを認めることが先決でした。

 思考をスリム化し、洗練させていく過程で、自我を小さく保つことが基本姿勢だと思っていましたが、ではどうすればいいのかと考え、独善的な自意識だけでなく、自分の考えや判断を大局に反映させることにシフトチェンジしました。その答えが『進化は超えては含み、受け入れて超越する』です。

 重要なのは、心と意識のレベルは時間と空間に制限されているわけではなく、付け加えると、それ自体が進化しているわけでもありません。

 意識のレベルは上昇と下降を繰り返し、その過程で意識の階層構造それぞれに内在する「投影-抑圧」を経験します。それが「目覚めた」という錯覚を与えます。

 これを「霊的エゴ」といい、コレが原因で上昇論者⇄下降論者との間で衝突や対立、強いては差別が起こります。

 SNSで「目覚めている」とアピールしている人が「のんきな人」とみなした人に対し「羊」や「盲目」と揶揄する現象は「コレ」です。

 無理やり「叩き起こす」必要はなく、「例を示す」ことで本人の気づきを促すだけで十分です。

何かを本気でやり始めるまでは、あなたに迷いがあり、たじろぐことがあります。そして常に非効率的です。

何かを始めたり創造しようとするときには、ひとつの基本的な真理があります。その真理を知らないばかりに数知れないアイデアやすばらしい計画が日の目をみずに終わっています。

その真理とは人が心の底から決心する時、「神の力が動き出す」ということです。

決心した時からすべてが大きな流れとなって動きだし、それまで誰にもできなかった事件や出会いや物的援助があなたのために起こってくるのです。

スコットランド・ヒマラヤ遠征隊

人間の生は、ひとつの曲線個の生への意志の接続時間を弦とする時間体験の弧(アーチ)からなっているとみなしていいかもしれない。

この曲線の外へ向かう運動進化・追求の道、すなわち「プラヴリッティ・マルガ」は自己主張によって特徴づけられている。

内へ向かう運動内化・回帰の道すなわち「ニヴリッティ・マルガ」は自己実現の増大によって特徴づけられている。

外に向かう道を進む人々の宗教は時間の宗教であり回帰する人々の宗教は永遠の宗教である。

ラーマクリシュナ

 ここまでは規律やルールを与えられている側の話でしたが、次は規律やルールを与えている側の手口に迫ります。


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