よりいと
私はこれまでの人生で何度も自暴自棄になり、自分の行動を他人や社会のせいにし、自分の行動が報われないと思い込んで感謝や達成感をないがしろにしてきました。
恨みや憎しみを行動に移し、自分の行動を正当化しなければ、自分の存在を維持することさえできないほど、私は自分自身を見つめることから逃げていたのです。
当時、私の心はとても貧しく、自分を表現する方法は反骨心ばかりで、自分がやりたい目的を見失っていました。私は罪悪感や憎しみ、その他さまざまな思いを抱きながら、自分の新しい生き方を支えてくれる人を探していました。
しかし、その支えがなければ不安になってしまうし、罪悪感や憎しみを失えば、自分の新しい生き方の目的も失ってしまうのではないかと恐れ、何も選択できずにいました。
現状に我慢し続け、問題を先送りすればするほど、選択肢は少なくなり、焦れば焦るほど、他に選択肢はないと考え、さらに自分を追い込んでいきました。
人や状況を通して、自分を受け入れるかどうかを選択させられているような気がして、どちらかハッキリさせないと、その状況から抜け出せないのではないか?という不安と恐怖に駆られていました。
この選択に対する強迫観念が、情緒の不安定化と衝動行為の問題になっていきました。
他者との違いを受け入れる十分な時間と空間に安全性がなければ、主観の度合いはますます激しくなり、私の思考は排除や競争へと向かっていきました。私にとって最大の障害は、イヤな状況や苦手な相手と同じ空間に居続けると、情報を拾いすぎて処理しきれなくなることでした。
ここで、施設生活で起きた「ある出来事」を例に挙げます。ちなみに、施設での生活はプライバシーがない環境で、6畳一間に3~4人が生活していました。
施設生活での出来事
寝ている時ではなく、日中ずっと歯ぎしりをしている仲間がいました。その音がどうしても受け入れられないので、その場所から離れればよかったのですが、そのときはその仲間にどうしても文句を言いたくなってしまい
「ずっと黒板を爪で引っ掻いてるような音を出してますよ?そんな中で暮らしてる事がイヤだし、逆の立場だったらどうするの?」と普段からずっと我慢していたことをストレートに伝えました。すると、その人から
それはイヤだよね?
とだけ返ってきました。彼は歯ぎしりがクセになっていることを知っているのですが、私は直接本人に「その音が苦痛だ」と言わないと自分の気持ちが収まらないところまで怒りに満ちていて、彼に対する行為だけでなく、存在そのものを受け入れたくない気持ちでいっぱいでした。
そういう時に限って
さらに追い打ちをかける
出来事が起こります
その日、施設で「最近あったイヤな事」というテーマで話し合うプログラムがありました。この時点で嫌な予感はしていたのですが、その仲間に順番が回ってきた時に「嫌な事があったというより嫌な事を自分がしている事が多い」と話し始め
オレの歯の構造が悪いから
音が出るのは仕方が無い
と予想通りの展開になりました。施設のミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」がルールですが、私は黙って立ち上がり
オレが腹立つのは
言い訳にしか聞こえない
その考え方なんだよ!
と言い放った後、セクレタリーに一言席を離れることを伝えて、施設の事務所に戻りました。それから事務所で待機していた仲間に
人を公平に見ようとし続けたり
そういう人だって割り切って
見ていないのはどうしてですか?
と言われ、愕然としました。仲間たちに対し「あれが苦手だ、これが苦手だ、もっとうまくできたらいいのに」と言うことが多く、自分の特徴や考え方を主張することで、他者をコントロールして自分の都合のいいように考えている気がして自己嫌悪を感じていました。
しかし、事務所にいる仲間から「割り切れないことをずっと考えていたり、人を公平に見ようと努力している」と言われたことに胸がすく思いになりました。私も昔のクセで、自分で自分を傷つけていたのかもしれません。
私たちは単細胞生物から、約60兆個の細胞からなる極めて複雑な生命体へと進化し、これらの細胞は互いにネットワーク化することで生命活動を営んでいます。いわば人体全体が、社会を形成する一種の "寄せ集めの共同体 "と見ることができます。
そう考えると、他者からのメッセージをスルーしないで受け止めようとするのは、人間として自然なことかもしれません。
細胞同士が電気的なインパルスによって、1秒間に1,000ビットの情報を交換し、それが巨大なネットワークを形成して「私」という生命を維持しているのと同じように、「私たち」は『あらゆる関係の結び目=縁起(つながり)』で成り立っているのだと思います。
私の人生、みなさまの良心で成り立っております。私に「工作費」ではなく、「生活費」をご支援ください🥷