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オトマール・スウィトナーの、本当の凄み

オトマール・スウィトナー (Otmar Suitner, 1922年5月16日-2010年1月8日)。

生前、東ドイツ国籍でないにもかかわらず、ドレスデンとベルリンの国立歌劇場の音楽監督を務め、ここ日本ではNHK交響楽団の名誉指揮者としても度々来日したので、ファンも多かったスウィトナー。
特にその交響曲やオペラの演奏にかけては、躍動感と優雅さを併せ持った音楽表現で、時代を代表するモーツァルト指揮者として自他共に認める存在だった。

ただし、晩年はパーキンソン病を患って指揮活動から引退、今思えば病が判明する前からその音楽は、以前のような引き締まったものから遠ざかり、弛緩したものに変容していった、と思われる節もあった。

例えばベートーヴェンやドヴォルザークの交響曲全集が絶賛されたのと比較して、80年代中盤以降に録音されたシューベルト、ブラームス、ブルックナーなどは、世評的に必ずしも高い評価を得たとはいいが難い。
「音楽の締りに欠け、ダレ気味」といったのが、大方の否定的意見だったように思う。

ただ私には、例えばシューベルトの『ザ・グレート」、ブラームスの交響曲(特に第2番)、そしてブルックナーの交響曲第8番など、明らかにテンポが遅くなり、運動性が鈍くなってきたスウィトナーの音楽に、その正体は判然としないが、なんだか懐かしさ、憧憬のようなものを感じるのも事実だった。モーツァルトとは違うスウィトナーの音楽を。

ブルックナー 交響曲 第8番 ハ短調        1986 rec.

ベルリンの壁が壊され、東西ドイツが統一されてからは、スウィトナーのベルリンでの存在意義がどこにあり、彼自身がその活動拠点としてこの町にどう向き合うのか?という点が曖昧になったことも重なり、急に「過去の人」として見なされるようになった感がある。指揮活動を引退し、2010年に亡くなってからは、スウィトナーの音楽、そして彼の存在そのものも急速に忘却の彼方へ押しやられてしまった。

ブラームス 交響曲第2番 ニ長調 Op.73  1984rec.

と、彼が亡くなってしばらくはずっとそう思っていたが、「ちょっと待てよ、スウィトナーの音楽の本質をただこちらが見誤っていたのであって、彼の音楽の凄さはそれまでの視線の向け方では正当に評価できないのではないか?」と思うようなきっかけがあった。

それが『父の音楽 指揮者スウィトナーの人生』というドキュメンタリー・フィルムに映し出された事実、彼の姿、そして言動だ。

このドキュメンタリーはスウィトナーの晩年を、息子であるイゴール・ハイツマンが記録したものだ。2007年に制作された。
ただし、ハインツマンはそのセカンドネームからも想像できるように、戸籍上はスウィトナーの息子ではない。
スウィトナーと、東ベルリンで暮らす愛人との間に生まれた子供である。

スウィトナーはベルリン時代、西ベルリンの自宅に住み、国立歌劇場でのオペラ上演、そのオーケストラとコンサート、そしてそれらのリハーサルがある時や週末には壁を越え、愛人と息子が待つ東ベルリンに入る、という生活を送っていた。
そしてその事実は、西の本妻も承知していることだった。
ドキュメンタリーの中には、スウィトナー、本妻、愛人、息子の4人がレストランの同じテーブルにつき、食事を共にしている風景も映り出されている。不思議な映像だ。

あの美しく端正な音楽を紡ぎ出す指揮者が、私生活では決して普通とは言えない二重生活を送り、それについて平然と確かな言葉で語る。
黄昏を迎えつつあった老人とかつての指揮者スウィトナーが、同一人物とはにわかには思えなくなる。
そして自由が効きにくく、震える手でタバコをいつも吸っているスウィトナー。老いが彼全体を覆って、目の表情も虚ろな男がそっけなく語る微妙な話。
スウィトナーがダーク・サイドにつく、老獪で哀れな音楽家に見えてくる。

シューベルト 交響曲 第8番 ハ長調   「ザ・グレート」 D 944  1984rec.

しかし一旦その事実を受け止めて、もう一度スウィトナーが作り出してきた音楽を俯瞰し直すと、晩年の彼の音楽を「老い」「病」を隠せない、時代に取り残された取るに足らないもの、と一笑に付すことはできないのでは?と思えてきた。
それが彼のシューベルト、ブラームス、ブルックナーで感じる音楽の正体なんじゃないか、と。
あまりに都合がいい話のように聞こえるかもしれないが。

ごく簡単に言えば老いたスウィトナーに、遅いテンポで、しかし決して止まらず、明確な歩の進みで音楽の塊を一つずつ積み上げていく晩年のオットー・クレンペラーやハンス・クナッパーツブッシュの姿を重ね合わせることは、案外容易だ。

スウィトナーは、クレンペラーやクナと同じ時代を生き、ある意味正反対の音楽性の持ち主であったクレメンス・クラウスの弟子であり、一回り世代が上のヘルベルト・フォン・カラヤンや同年代のヴォルフガンク・サヴァリッシュらと似た音楽性を持つ指揮者、とういうステレオタイプな見方、聴き方のみで捉えられることの危険性・・・。
実はもっと複雑で、社会主義国家の音楽の殿堂で仕事を続けていく外国人としての処世術、追求と諦め、そして表面には現れない打算、などいくつもの避けられない現実、彼の置かれた状況を加味した時、ドス黒い血のようなものが、スウィトナーの音楽の核心に厳然と存在していたのではないか、と・・・。
だからそれは「老い」や「緩み」ではなく、「凄み」なのだと思えるようになる。
そこに知らず知らずに惹かれていたが、それは世間での一般的認識の隔たりがあまりに大きかったが故に、そうとは気がつかなかったのだ。

スウィトナーは第二次大戦後に本格的な指揮活動を始めた最初の世代の属する。
そして思えばそんな彼は、歌劇場の練習指揮者からその指揮者人生をスタートし、現場叩き上げで実力を蓄え、一つずつポストの階段を登って行った。スウィトナーは所謂「カペルマイスター」的指揮者人生を送った最後の世代の、実は(悪い意味ではなく)古いタイプの指揮者でもある。

だから一度、スウィトナーの指揮した音楽という先入観を持たず、今まで聴いたことがない音楽として耳を傾けていただきたい。
きっと大きな発見と悦びがあるはずだ。

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