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1年間を経て、なぜ私は村で事業家でも教育家でもなく、芸術家として活動することにしたのか?

2023年6月17日。
私にとっては村デビューであり、芸術家デビューである記念すべき日を無事終えた。
むlaboのオープンデーを使って20作品を展示させてもらった。

室内展示
トークイベント&盗み見配信
室内にも5作品



西粟倉村に移住して今日までの約1年間、私は何も動かなかった。
私の名前すら知らない人がほとんどで、「2人の子の母親」としか認識していない。

それで良かった。

それが良かった。

その理由を、今、振り返る。

2022年1月29日、地域おこし協力隊に落選。

移住が濃厚になった2022年1月、地域おこし協力隊(起業型)に応募した。村の移住者はほとんどが協力隊だと聞いていたので、全く縁もゆかりもない場所で仲間づくりには良いなーと思ったこと。あとは、事業を起こそうと思っていたから、そのキッカケになれば、というのが動機だった。

往復10時間、4万近い経費をかけて村に行き、15分プレゼンをし、落ちた。
村ではぶっ飛んだことをやりたかったので、私の事業は収益計画書としては最低だったし、他にもたくさんの仕事があり、その事業だけに集中できる体制ではなかったので、落ちて当然だったと思う。

でも、お金の作り方も仲間の作り方も、十分知っている。
協力隊でなくても、やりたいことはできるから、勝手にガンガンやっちゃおう。提案した事業を企業プレゼンしに行ったり、仲間と開発を進めていた。

2022年3月27日、引っ越し当日の決意。

引っ越し当日。東京から車をフェリーに乗せて、徳島港に到着し、村に着いたのは20時過ぎ。寒くて、真っ暗だった。
先に引っ越し業者が荷物を運んでくれていたから、必要最低限の荷物を段ボールから出し、就寝の準備をしていた。

その時、子どもの様子がおかしいことに気が付いた。ずっと座って動かない。
私も疲れていたし、イライラしていたから「座ってないで手伝ってよ!」と怒ろうと思ったが、なんだか胸騒ぎがして、その言葉を飲み込んだ。
そして、「ちょっと話そうか」と二人になれる車に移動した。

「私に言いたいことがあるんじゃないかな。全部聞くから、言ってみてほしい」と手を握りながら伝えた。
堰を切ったように「本当は引っ越しをしたくなかった」「新しい学校でなじめるか不安」「知らない土地が怖い」と涙を目に浮かべながら、気持ちを出してくれた。

不安で怖くて仕方ないのに、移住を決断した私を責める言葉は使わなかった。「言ってくれてありがとう」と子どもを抱きしめながら、私は決めたのだ。
子どもたちが安定するまで、自分のためには動かない、と。
私は仕事が好きすぎて没入してしまう。やり遂げるまで全力でやる。だからこそ、今、始めてはいけない。子どもたちが安定し、楽しめる環境を整えることを一番優先しようと決めた。

毎日17時半には仕事を終え、一緒にご飯を作り、家族そろってご飯を食べ、トランプをしたりして、長い夜を楽しんだ。土日を使って、色んな場所に旅行に行った。
以前は平日は夜20時に帰り、スーパーで買ったお惣菜を並べ、食べて、寝る毎日だった。土日も仕事が入っていた。移住して、圧倒的に子どもたちと一緒にいる時間が増えた。

2022年9月1日 NHKサラメシの放送

NHKのサラメシが放送された。

キャンピングカーを見て、声をかけてくれる人が増えた。
「村でも何かしてるの?」「何かしないの?」と言ってくれて嬉しかったが、それでも、私は動かなかった。

「動かない期間」は私にとって貴重な時間だった。21歳で社会人になってから、ひたすら営業ナンバーワンをとるために走り続け、出産し、起業し、新規事業を立ちあげ、店舗を増やし、安定して回る仕組みをつくり、表彰され、テレビに出て、全国を飛び回り。ひたすら動き続けた17年だった。

誰も私を知らない。誰も私に期待しない。目標やノルマはない。つまり、何もしなくても良い場所で、私がもう一度「動かずにはいられない衝動」を掻き立てられるのはどんなことなんだろう。

私は自分の動物的本能が次に動くのをじっと待っていた。

2023年3月2日、待ちわびた衝撃と衝動。

友人たちと「天才会議」というオンライン会議を定期的に行っている。
自分たちが天才であるという前提で雑談をしていく時間なのだが、エストニアに行った友人から「街の中に色んな芸術作品が置いてあるの」という話題が出た。

私「いいねー、素敵やなー芸術家とか、かっこいいよなー」
友人「えりちゃんも十分アーティストでしょ。作品たくさん作ってるし。」
私「でも、私、絵とか全く描けないよ」
友人「事業も授業も全部作品だよね。個展やっちゃいなよ。」

私の中ですさまじい衝撃が走った。
「ああああああああああ!!!私はアーティスト、私は芸術家なのか!!じゃ、こんな感じの作品も作れるし、こんなこともできる!!」
止まらなかった。会議が終わった後も、あふれ出るアイディアを友人たちにメッセージを送り続けていた。
学校から帰ってきた子どもたちに「私、芸術家として個展開きます!」と宣言した。「タイトルどうするの??」とノリノリで夕食の時間にアイディア出しをしてくれた。
次の日にはタイトルが決まり、デザイナーにチラシをお願いし、場所を探し始めた。

そして、今回のデビューに至る。

なるべくしてなった、芸術家。

嫌われたくないという気持ちが強い私にとって「永住しない村で、始める時に嫌われず、去る時に迷惑をかけず、自分らしく楽しめることはなんだろうか?」という問いをずっと考えていた。

その答えが芸術家だった。
アートは再現性も持続可能性も問われない。
一瞬の煌めきでも、閃きでも構わない。
クライアントがいないので、誰からも理解されない新しいものを作っても許される。
しかも結果的に芸術家として村で活動することで、村の企業やお店や人とコラボすることができ、知り合いが増え、作品を通して村の魅力を発信できる。
今回も半分以上が村にまつわる作品である。

アニマル・スピリット(動画や写真を村の方や企業からご提供いただいた)
電気(村に電気会社ができたことから着想)


山の王(村の鹿角から着想)
むらぽんしゅ(村の木の廃材で、村の自然を表現)

稼げないこと以外、良いことしかない。
しかし、それも時間の問題だ。ずば抜けて面白いことをしていたら、必ず稼ぎは後からついてくる。

以前も書いたが、私は究極の半端者を目指す。
私が死ぬ時に「尾崎さんって経営者だよね」という人もいれば、「尾崎さんって先生だよね」という人もいるだろう。「尾崎さんってよくわからないよね」と言われて終わるのも悪くない。職業や肩書は人が勝手につければ良い。
どの一瞬を切り取っても、一点の曇りもなく「自分の個性を最大限に発揮し、幸せである」と言えれば「尾崎えり子」としては本物なのである。

これから、どうなっていくか自分でもわからないが、「生きるを楽しむ」をキャッチコピーに掲げているこの村を全力で楽しんでみようと思う。

村の森を美術館にするなら?のワークショップ

さいごに。今回、個展の場所を貸してくれたむlaboさん,森を貸してくれたり、動物の動画を提供してくれた百森さん、写真を提供してくれた村民の皆さん、作品制作をしてくれた池野さん、写真撮影してくれた秋山さん、鹿角を売ってくれた森の学校さん、苺を購入させてもらったBase101%さん、お弁当を通して「味覚実験」という作品に協力してくださったあるの森さん、鹿革の相談に乗ってくれた渋谷カバンさん。そして、いつも手伝ってくれる私の子どもたち。
本当にありがとうございました!

作品一覧はこちらから

【新着情報】
7月22日は奈良県生駒市で個展を開催。

8月9日に千葉県流山市@杜のアトリエで開催。

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