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希望の海岸【THE BEACH OF HOPE】

クラファン達成の御礼
高校生が、震災後はじめての海開きに「海フェス」を開催する。クラウドファンディングのチャレンジは無事に達成して終えることができました。支援してくださった皆さん、シェアや応援してくださってすべての”仲間”たちに心からお礼を伝えたいです。本当に本当に、ありがとうございました…

4年間の任期を終え、NPO法人の理事を退任しました。
「はまわらす」という活動するその”チーム”は、震災で海や浜辺から切り離されてしまった子どもたちを、もう一度海で育つように…という願いのもとに、ともかく子供たちを海で遊ばせよう!という活動です。

最後のやりかけの仕事だったクラウドファンディングを、無事に終えることができて心底ホッっとしています。しかも最終日の奇跡の追い上げ…

今回のクラウドファンディングは、震災後はじめての海開きに合わせて、高校生が「海フェス」を開催する!というとても清々しい、希望に満ちたものでした。でも実は舞台裏でいろいろあって、当初思い描いたように走り出せませんでした。

初速が大切と言われるクラファンの定石で言えば、あまり良くないスタードでした。しかも、こちらの歯切れの悪さがたとえ”オンライン”でもそれを見る人に伝わるのか(きっとそうでしょう)、その後セオリー通りに仕掛けていくのですが達成率もなかなか伸びません。

最終的に、最終日まで2日を残す時点で、あと100万円が(!)必要でした。


もどかしさの純度
最終日前日、最後のオンラインミーティング。歯切れの悪い戦略的な会話が続いたあと、今回のプロジェクトの事実上のキーパーソンである”ひっこ”ちゃんが、こう言いました。

”せっかく高校生が「やろう!」と声を上げているのに私たち大人がそれに応えられないのは、本当にやるせない。

子どもたちがやりたいことを実現できるよう、子どもたちの想いを応援しサポートしていくのが、生かされた私たちの責任なのだ”と。

チームのメンバーはそれを聞いて言葉に詰まりました。でも同時に、そのやるせない思いをチカラに現実を変えてゆくことこそ、私たちがクラファンで起こせる希望なんだと気づきました。

ひっこちゃんはその夜(最終日前夜)、その想いのままに(泣きながら)文章を書き、最終日への支援のお願いをポストしました。
その投稿がやはり何かを変え、そこから奇跡の追い上げが始まりました。

震災後、初の海開きに高校生が「海フェス」開催!

変わるもの、変わらないもの
僕はそのミーティングの直前、その海フェスが行われるビーチにいました。クラファンをする意味を身体で確かめたかったからです。

僕も何度も通ったその美しいビーチは巨大な防潮堤に囲われ、風景はすっかり変わっていました。防潮堤と周辺の道路工事は今だに進行中で、ビーチに降りる階段も、警備員さんが守っている現状です。

でも小学生の娘たちとビーチに降りてみると、そのビーチはやっぱり見覚えがあり、潮騒の香りもどこか懐かしい”そのビーチの香り”であるような気がしました。

ビーチのはずれのテトラポッドのまわりには、小魚がたくさん泳いでるし、寄せる波に膝まで入ってみると、透き通った海水はやっっぱり震災前と変わらないように思えるのです。

そして、子どもたち。

子どもたちは防潮堤など気にする様子もなく、歓声を上げて海の中へと駆け出してゆきます。また相当に冷たい三陸の初夏の海水に、大声で笑いながら何度も何度も挑んでゆきます。

海と出会う子どもたちの喜びは、震災前も後もない。純粋でシンプルな喜びだったんです。

未来は、希望の海岸へ
クラウドファンディングへのご支援、本当にありがとうございました。僕は確信しました。未来を作ってゆくのは僕らではない。子どもたちです。大人が子どもたちにできることは、自分たちの過ごしてきた経験という”過去”を押し付けるのではなく、彼らが作ってゆく未来を応援することです。過去は常に過ぎてゆき、未来から眺める過去は常に愚かで未成熟なのでしょう。


巨大な防潮堤はたしかにそこにあります。でもどこか”旧時代”を思わせるある愚かさと懐かしさがあります。海はやっぱり変わらず海であり、海で遊ぶ喜びも変わらず僕らの中にあります。

そして波打ち際で、防潮堤など関係なく無邪気に遊ぶ子どもたちは、その無邪気さに導かれて未来を作ってゆくでしょう。

僕らにとって悲しみの海岸だったこのビーチを、子どもたちは「希望の海岸 The Beach of Hope」として、楽しんでいってほしいです。そう。それでいいんです。

ひとまず、大人の仕事が終わりました。
あとは7月20,21日、高校生たちが作り出す「海フェス」に、ぜひおいでください!未来が生まれてゆく瞬間に、一緒に立ち会いましょう!

サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。