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宗教はOSなのか、アプリか

わたしの街の宗教観

私が住む 岩手県の藤沢町 という人口9,000足らずの小さな町は、曹洞宗 臨済宗 真言宗 時宗 そして カトリックと、宗教宗派が複数存在する。
町民たちはそれを当然と思い、また驚くことに、宗派を超えて葬儀の際に本堂の貸し借りを行うことも以前は当たり前のようにあった。

OSとしての神道


前述のの通り、私は神社の清掃奉仕活動に定期的に参加している。お寺の住職である私が神社の清掃活動に参加することに違和感を覚える 仲間もほとんどいない。


考えてみると日本人にとって神道と、sのルーツにあたる自然崇拝(アニミズム)は、私たちの宗教観にとっての OS であるように思う。

日本はその OS が幸運にも 2000年以上の長きにわたって 外来の文化に破壊されずに現存しているとは言えないだろうか。

八百万の神々


一方で仏教をはじめ キリスト教 やその他のいわゆる宗教は日本人にとって アプリのようなものではないだろうか。
自然崇拝の OS の上 言い換えれば やおろよろずの神々が司る世界において、仏教やキリスト教は日常をよりよくするアプリ、語られる神々 や仏菩薩も、八百万 の中の多様性として受け入れられてきたのではないだろうか。
なんとなく、「アマテラス様のイトコ?」「エビス様のご友人?」みたいな親しみがあったりして。

神棚と仏壇の上下関係

家庭にはまだまだ 神棚と仏壇が共存してるところも多い。
神棚は必ずその部屋の一番高いところにあり、その下に仏壇が収まっているケースがほとんど。
ここにも神棚 自然は最も上位の存在であり 仏壇に祀られるブッダはじめ人間の存在は、その下に位置するもの。
こう考えると無宗教と言われがちな日本人の宗教性を理解する1本の補助線が通るように見えないだろうか。

わたしの街のあるお菓子屋さんの壁にこのような詩が書かれた 色紙が飾ってある。

殉教に 思いを馳せる 盆の暮れ
読み人知らず

ここに現れる日本人の、またはわたしの街の宗教性が汲み取れるだろうか。

サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。