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意外と怖い占い依存

 はじめに

占い依存の何が悪いんですか?!みたいな人が居たり、自分で好きで使っているし依存してないし!みたいなことを言っていてもガッツリ依存していたり、そんな人が結構居るので書いてみることにしました。
意外と怖い占い依存のお話は最後まで無料で読めます。約1万3千字(読了まで1分間に500文字読むとして25分程度)あります。誤字脱字はデフォルトです。コメントなどでいつもご報告ありがとうございます。めんどい人は目次よりまとめだけ見てください


 気づかぬうちに依存してるかも?

占い依存とか言われてもピンとこないかもしれませんからまずは、わかりやすいところで言えば、スマホ依存は昨今よく言われていますよね。
手元にスマホがないと不安になるとか、トイレやお風呂にも持って移動するとか、そういう状態はもう依存です!とか言いますが、今は電子マネーとして財布代わりになっていたりもするのでセキュリティー面でも持ち歩くほうが良かったり、かと言ってトイレでも触っていたりして使用時間からの痔問題やトイレが長蛇の列になるなどの公共問題、衛生面での問題など思いもよらないことが出てくるというのは体感として実感しているのではないかと思います。

では、占いは?といえば、どんな問題があるのでしょう?実はそこには怖いお話がいっぱいあるんです。特に占いの館などでは、一応建前的に、『占い依存にしろって言うわけじゃないんだけどね』なんて前置きして責任逃れをしてから、『お客様の悩みは解決してはだめだ』とか『いっとき安心させて家に返ったくらいに不安になってまた来るようにしなさい』とかをアドバイスとしてマネージャーが言うんです。それでも問題を解決し続けると『リピート率が低い場合はやめてもらう』なんてところもあるんです。しかも結構大手でアプリとか館とかやっているようなところでもそうですし、小さな占いの館でもノルマがあったりもします。

それって一時はいいんですよ?安心できるから。でもまたすぐに不安になって何度も通うことになるんです。そうして何度も通っているうちに、賢い人は気が付きます。『ずっと通っているけど、私ずっと悩んだままでこの問題は解決してないじゃん』って。
つまりこういう依存させろってわけじゃないけどそれに近い状態にしないとクビ!とか言うような館は、

『どうせあいつら馬鹿だからそんなことにも気が付かないで一時安心させること言っとけばどうせまたすぐ来るんでしょ?騙せるだけ騙しときゃいいんだよ!協力しないなら首な!』

ってことなんです。
なので、私は【リピート率が高い】=【依存させ率が高い】OR【問題解決能力が低い】&【自分の給料のことしか考えない占い師】と思っています。
でも世の中の多くの人は本質を見ないので、【リピート率ナンバーワン!】とか言われるとなんか凄いのかな?って思っちゃうんですよね。

そうして問題をきちんと解決できる占い師のほうが長期的に見たらリピート率も高くなるんですけどね。困った時の知恵袋的なね。殆どの占いの館やアプリでは短期~中期のリピーターしか求めていません。つまり責任を取るつもりがはじめから無いんです。パチンコ屋さんと一緒で、お店の名前を変えてさも別のお店ですってすればいいんですから。占い師も掃いて捨てるほど居ますからね。

依存の何が悪いの?

 占いに依存して何が悪いの?って人も中には居ると思います。
そういった人の多くは【自分で決めて責任を取る】ということに対して恐れを持っている人が多いです。そうしてその恐れの正体は、失敗したくないとか、責められたくないとか、怒られたくないとか、他人にどう思われるかとかそういったところがほとんどです。

だからこその、誰か決めてよ、なんです。もし失敗したり非難されても『悪いのは私じゃない、占いの結果がそうでたからで、私はむしろ被害者!』って言えると思っているんです。それを聞いた周囲の人たちは、大半がこう思っています。

自分の人生を占い師にゆだねて決めるなんてどうかしている!

そうして誰か決めてよ!と言う人がいれば、当然ですが、決めてあげるよ!と言う人が出てきます。需要と供給です。そうしてそうやって決めてあげるよ!と言う人の全てと言っても過言ではないほどの人たちがその責任を取ることはありません。なぜなら、
決めてあげるよ(あなたにお金がある間はね)
とか
決めてあげるよ!(言いなりになってくれるならね)
とか、そうやってただ自分の思い通りにしたいだけであなたの人生に対してはと言うよりもあなたの存在自体はなんとも思っていないからです。
当然ですが詐欺や心霊商法、新興宗教などに引っかかりやすくなり、中には洗脳されてしまい財産をほぼすべてつぎ込んでしまったという人も居るのです。そう云う人たちは、『考えるな感じろ』とか、『疑うな信じろ』と言います。そうして相手の思考能力を奪って自分の思い通りに動かそうとします。自分で考えたり、疑われたら自分があなたを利用しているだけだと気が付かれてしまうからです。こういう人たちはとてもあざとく、はじめのうちは大変優しく、お金じゃないかのような振る舞いをします。そうしてあなたを騙す人はあなたにお金や利用価値がなくなったと感じるとゴミを捨てるかのように連絡を絶ち姿をくらませます。

他人に委ねるとこうなります

では他人に決断を委ねるとどうなるのかを説明しましょう。
これは私の実体験でもあります。
私は虐待されて育ったのでほぼ自分の意志を貫くことはありませんでした。
実際には周囲の顔色をうかがいすぎてとか、周りを優先しすぎてとかそんな感じになると思います

例えばそれは、みかんとりんごどっちがいい?と言うような場合でもです。
本当はみかんのほうが食べやすいからみかんがいいな、と思っても、『お前はりんごがいいんだよね?!』と言われると『う、うん!りんごがいい!』と言っているような子供でした。
 はじめはもちろん、みかんがいいと主張していましたが、そんなことを言えば殴られた上に罵詈雑言を浴びせられ泣き止むまで殴られ続けるという無理難題地獄が待っているから言われたとおりにするようになりますよね。

そういったことが続くとどうなると思いますか?
答えは簡単です。何も願わなくなります。
望んでもどうせ自分には決定権がないのですから望むだけ無駄なのです。
むしろはじめから願わなければガッカリすることも無いのでそっちのほうが良いのです。

そうして願わなくなるとどうなると思いますか?
願わなくなるだけで終わりではないんです。
願わなくなると、自分の心に鈍くなっていきます。

自分の心に敏感だと、本当はみかんが良かったとか、りんごは嫌だと感じてしまうからです。自分が願ったりして傷つかないように、そもそも願ったりなんかしないようにならないといけません。そのためには、自分の心に蓋をしないとうっかり願ってしまったり希望を持ってしまうからです。そうして希望や願いを持てば傷つくことになるからです。

そうして自分の心に蓋をして終わりではありません。
まだ負のスパイラルは続きます。
自分の心、つまり感情に蓋をするどうなると思いますか?
まだ先があるんです

心に蓋をしたら、自分の感情を押さえつけたらどうなる?
まず最初に嬉しい、楽しいと言う感情が消えます。
最初に消えるのは幸せなんです。
何を聞いても、何を体験しても虚しくなります。
どうせ、、、なんてなるんです。

そうしてここまで来る人は結構います。喜怒哀楽、の喜楽が消えると残るのは怒哀ですが、大抵の人は怒りの感情に支配されとても攻撃的になります。
この世のすべてが敵になったかのように感じてちょっとしたことで怒りを向け周囲とうまくやっていくことが難しくなり、孤立し、酷いケースでは精神科や警察のお世話になるような事態になる人も居ます。もちろん、その結果ますます孤立し、場合によっては社会からも孤立していきます。その怒りが自分に向く人も居ます。そうすると自傷行為に走ったりします。

この世界は因果応報でやったことは巡り巡って戻ってきます。怒りや敵意をぶつけると、戻ってくるのも怒りや敵意です。
では残った怒りの感情さえ、より強力な周囲の悪意やより強い暴力で抑え込まれたらどうなると思いますか?

喜怒哀楽から3つ消えると、残りは哀だけです。つまり最後まで残るのは悲しみなんです。周囲から弾かれる悲しみ、愛されない悲しみ、こんなはずでは無いとか、そういった悲しみは段々と大きくなって最終的には自分が生きている事自体や、産まれたことすらも悲しみと言う感情で捉えるようになります。だって他の感情は封印状態なんですからね。

そうして悲しみだけになってもまだ先があります。
生きているだけですべてが虚しく感じ、悲しく感じてしまいます。
そうして自分を救ってくれるのは死のみだと感じるようになります。
つまり絶望です。この絶望は厄介です。とても厄介です。
どんなにそんなことはないとか、こうしたらいいよ、とか何を言われても何をされても、そこに希望を見出すことはありません。だって絶望は字のごとく、望みを絶っているのですから。

そこから抜ける方法は、自分で立ち上がり、更に傷つき、もっと苦しく辛くなろうともこのままでは嫌だと進む勇気を持ち、実際に進み続ける強さをもつようになるまでずっと苦しいままで居るしかないんです。

それは針山地獄に落とされた罪人が針に貫かれても進む意外針山を抜け出す方法がないのと同じです。親切な誰かや仏様がヘリコプターで地獄までやってきて救助してくれるなんてことは無いんですから。ただ罪が終わるまでじっとしていることすらも許されません。鬼がやってきて罪人を鞭打つように、周囲の人間はあなたにこうした方がいいとか、こうしなさいとか、あなたの意見を無視して【よかれとおもって】と善人面して命令するのです。
そうしてそのとおりに動かなかったり、失敗すると言葉や暴力で鞭を振るうのですから。

そんなことない、なんてことはない。

そこまでひどくはないだろう、と多くの人は考えると思います。
実体験だから言えます。そんなことあるよ!って。
こうやって例えたらわかると思います。

あなたが例えば先輩や上司に
『そんなんだからだめなんだよ!』と怒られたとします。
イラッとすることがあっても、まあそうですねと言う部分があれば納得すると思います。

ところが、それが後輩や部下だったらどうでしょう?
イラッとするし、お前に言われたくねーよ!ってなると思います。
全く同じことを言われても、言う人によって怒りの度合いは変わるんです。

そうして人は見下している相手や、下僕とか奴隷のように勝手に考えている人間が言うことを聞かない時、つまり歯向かったと感じた時その怒りは大きくなります。普段なら言わないことも言いますし、やらないこともやります。それが人間の闇の部分です。

私はそういう人をたくさん見てきました。イエスマンがノーを言うと烈火のごとく怒るんです。そうしてその怒りの炎はその人の理性も焼き尽くすのでしょう。

そうしてさらにたちが悪いことに、そこに集団心理というものが働きます。
いじめ問題などでよく出てきますが、アレです。
みんなもやっているから、自分がターゲットになりたくないから、関わりたくないから、いろんな理由がありますが、多くの周囲は放置しますし、当事者はみんなやってるとエスカレートしていきます。

その結果、歯向かったとなったときの怒りは尋常ではないんです。
少し冷静になったときは当然良心が痛んだりもしますが、自分だけではない安心感と、周囲に見られていたというところでお互いにかばい合うような連帯感と気まずさが、より一層過激になる要因となります。
人は神にも悪魔にもなれるからです。

そんなこと無いという人は、そんなことある人を見たことが無い人です。ニュースや事件などでそんな人が居ると知っているのに、そういうのはどこか他人事だと考え、想像力が乏しいからそうだという人を頭ごなしに否定し、そういう人が居るということから目を背けたいだけなのです。だからそういう人が居るとしゅちょうするあなたを否定します。そのせいでどんなにあなたが傷つくかなどそもそも眼中にないからです。ですが実際に自分が被害者になるととたんに手のひらを返します。人とはそういうものです。

 どうしたらいいの?

インドの聖典にヴァガバットギータというものがあります。この物語の冒頭はこんな感じです。

主人公が王位をめぐっておじさんの一族と戦争になります。
主人公はアヒンサー(殺してはいけない)の戒律を守って、一族で殺し合うくらいなら王位なんていらないし、喜んで神の身許に行きましょう!
みたいな感じのテンションでいますが、ギータの中の神様的な人はこう言います。
何いってんの?戦えよ!死んだら未来永劫王位を偽装した犯罪者として一族全員が不名誉を残すことになる、名誉のために戦いなさい。自分の家族のために戦いなさい!
すると当然ですが主人公は、え?アヒンサー(殺さずの戒律)は?ってなりますが、それに対しての答えは、
臨機応変!名誉のために戦うこともときに大事です!
みたいなね。このあたりは長くなるので気になる人は自分でアマゾンとかにあるので購入してみてください。

つまりね、どうしたらいいの?って戦うしか無いんです。
それは実際に剣を取ってというのではなく、裁判所で、警察署でという場合もありますし、精神的に屈しないと言うような時もありますし、戦い方は色々ありますが、自分の人生を取り戻すために戦うということです。

なぜ思い通りにしたいのか?

人間にはなぜか、他人を思い通りに動かしたいと言う欲求でもあるのかと疑うほど、言うことを聞かない、言ったとおりにしないと言っては憤ります。そのくせ、自分が言うことを聞けとか、言ったとおりにしろと言われると、自由にさせてくれないとか強要するとか、命令してきて迷惑だとか言います。とても矛盾していますが、そういう人がほとんどです。

人間はひとりぼっちでは生きてはいけないと言われています。赤ん坊の状態からひとりぼっち無人島で生きてきた!と言う人が居ないように絶対に誰かの助けを借りて生きてきました。途中から1人でたくましくという人も居るかもしれませんが、文明の利器を利用している時点で誰かが作ったライフラインを使っているということですからね。

そういった1人では生きていけないということを本質的なところでは理解しているからこそなのでしょう。もしくは、ワンネスと言う考えを魂的に知っているからかもしれません。とにかく人は自分に足りないと感じている部分、特に愛(自己愛)とか承認とか、自信とか、そういうものが足りないと思うと他人を使って埋めようとする傾向があります

 ところが、どんなに周囲があなたの望むとおりにそれを埋めてあげようとしても、その結果起きることは、もっと!もっと!となるばかりで埋まるのは一瞬だけでしか無いのです。それはラーメン屋さんにラーメンを作ってもらえば毎食作ってもらうしか無いのと同じです。それどころか、あのラーメン屋さんに行くための資金が!とか、出禁になったらどうしようとか、店主に気に入られたいとか、とか余計な要望や不安が更に生まれるだけです。
ですから根本的に解決するためには自分で埋める意外無いのです。

でも人はときに自分の人生すら思い通りにできません。例えばお金がないからできないとか、環境がないから、資格がないから、知識がないから、人が居ないから、技術がないから、いろんな理由で思い通りにできないことが多々あります。そうするとそれを他人で埋めようとするんです。
『四の五の言わずに私の言ったとおりにしなさいよ!』なんて感じでね。

他人の不幸は蜜の味といいますが、中には他人の手柄をかすめ取るのがうまい人が居ます。

そういった人たちは働き蜂(あなた)に蜜を集めさせて、巣の中でただはちみつ(成功)を食べます。途中で他の虫に戦いを挑まれたり、鳥に襲われそうになったり、雨や風に体力を奪われたりなんて経験しなくても巣の中で待っていて、

次はあっちの花畑に行ったらいいんじゃない?あなたのために言ってるのよ、探し回るのは大変でしょう?善意は無駄にするものじゃないわ。

とあなたにいうだけでいいのですから。そうしてあなたが失敗しても傷つくのはあなただけですし、成功したら蜜がもらえますからはっきり言ってノーリスクです。そうやって、私は○○さんにアドバイスして成功に導いたとか、手柄だけは横取りし、失敗した責任は一切取らずに自分の人生が思い通りに行かない現実から目を背けるのです。他人が成功しても失敗しても自分の人生とは全く関係がないのにね。

免罪符

こういった『私の言う通りにしなさい』と言う人たちには共通していることがあります。それは『あなたのため』という言葉です。
あなたのために言っているのと言ったくせに、にっこり笑って
『そうなんですね、ありがとうございます。でも私の人生なのでこっちにしますね』と言ってご覧なさい。
大抵の場合は
あなたのために言ってあげたのに、と怒り出し、他人の善意を無下にするなとか、年上のアドバイスは素直に受け取るべきだとか、頑固で意固地なやつはだめだとか、あの手この手で言うことを聞かそうとします。

そんなに言うならと言うことを聞いたとしましょう。
 成功したらこう言います。
『私のおかげ』
失敗したらこう言います。
『努力が足りない』『そういう意味で言ってない』
つまり、成功したら私の手柄、失敗したらお前が悪い!
つまり手柄は横取りされてしまうし、こちらにしたら損しか無いんです。

こういった場合ノーを言っても揉めますし、イエスと言って違う方を選んでも揉めます。だから正面からこういった方がいいです。
『絶対成功するんですね?万が一もないんですね?もし失敗したら責任を取って損害の保証をしてくれますか?』大抵はそんなのはあなたの人生なのだからと言い訳しますから、それなら私は自分の人生なので成功しても失敗してもこっちにしますといえばそれ以上は言ってきません。最初から責任を取るつ折りがないのにあなたのためと言って自分お思い通りにしたい人なんてそんなものです。失敗も経験なので、経験するチャンスを奪わないでくださいと毅然と言えばいいのです。そうした場合あなたが失敗することを望むかのように、失敗すれば私の言うとおりにしないからといい、成功すれば苦虫を噛み潰したような顔をします。なぜ知っているのかって?何度もいろんな人で経験した体験談だからです。

そうしてこういった人たちに共通しているのは、善意なら何をしても言っても良いと思っていることです。自分が言われたらそんなことはないと怒るんですけど、こういった人たちは自分のことは棚に上げるんです。

※過去に責任取ると言った猛者も居ましたが、それなら念の為に書類を書いて証拠を残しておきますね、過去に無責任に逃げた人が居るのでと嘘を言ったら普通に逃げました。そこまでして他人の人生に関わって他人をコントロールしたい人も居るんです。

人ではなくてカードだから!

自分の人生なのに中にはどうしても自分で決めて自分の責任を取りたくない人が居ます。そういった人たちは他人にゆだねてしまいがちなので、当然失敗もたくさん経験しますし、委ねた結果恩着せがましく私のおかげなのだから感謝しろと色々要求されたりして困った経験をしたことがある人もいっぱい居ます。

その結果、人に委ねるのではなく、占いなどのカードなどの卜術に委ねる!と言う人が出てきます。賢いのか馬鹿なのか。
使うものにもよりますが、最悪なのは例のタロットのような黒魔術をベースにしているものに委ねた場合です。大抵は悪霊のようなものと繋がって、私が不幸なんだからお前も不幸になれ!と言う感じになります。この部分に関しては捨てたほうがいいタロットみたいなタイトルのノートに書いてありますので興味があったら読んでみてください。

コイントスでも何でもそうですが、他人に委ねるというのは楽です。決めなくていいのですから。でもそのつけは必ずやってきます。
例えば私は自分の意志を貫くと暴力と暴言がかえってくるので20歳までは親の言いなりに生きよう、それは親孝行だと諦めよう、と生きてきました。その結果、コンビニでおにぎりを選ぶのにも小一時間かかったり、ファミレスで一緒の人にまだ?と苛つかれたりするくらい自分では何も決められなくなりました。つまり決断力が鈍るのです。使ってないなら当然です。

ところが自然界でそんなのはすぐ死ぬんです。例えばライオンが獲物を追いかける時、右に逃げる?左に逃げる?選択肢を間違えても死にます。そうして一瞬の決断の差で生きるか死ぬかが決まります。
うーん、右、、、いや、、、左、、、。コイントスで???なんてやってる間にライオンにがぶっとやられちゃうのはわかると思います。
それと同じように、例えば車が暴走して向かってきた時、道で倒れている人が居た時、そんなときでさえ、決断が鈍ってしまいます。大抵の場合、誰かが助けてくれると思っているのか、きゃーと叫んでしゃがみこんでより確実な死を選択したり、パニックを起こして本人ですらよくわからない行動をしてしまい、周囲を巻き込んでより状況を悪化させたります

世界は厳しい、恋も人生も。

自然の世界では、一瞬の判断力が生死を分けます。右か左か、その運のようなものでも生死を分けます。私達人間の世界ではそんなことがないと思っている人も居ますが、そんなことはありません。一瞬の判断力や知識や、経験や、運で生き残った人もたくさんいます。人間だけがそういった法則から外れているということはありません。

ですが、他人に委ねるという決断もまた、一つのあなたの決断です。ですから私のように、20歳までは委ねるとしたこともまた私の決断です。そうしてその結果は決断した本人に戻ってきます。当然です。自分の人生なのですから。
その結果私は心を壊し、本来の状態に戻るのに多くの時間を費やしました。その結果出会えたご縁もありますし、それを無駄とは思いませんが、しなくていいならしたくなかったとは思います。

例えば、こんなに長文でなんか言っているなあ、と無視することもあなたの決断ですし、私はこうなるよって言ってるだけで、だから自分で決めろと言うつもりはありません。そのほうがいいよとは思いますが、それを強要することができないということも知っているからです。

他人に委ねると、自分で決めることができなくなっていきます。そうすると決めてくれる人を常に求めます。そうして例えばそれが恋人だったり親友だったり、特定の誰かになった時、今度はその人が居なくなることを恐れます。その人が居なくなってもまた別の決めてくれる人を探すだけなのに、決めてくれる人が居なくなることを恐れるのです。そうして顔色をうかがったり、嫌われないように振る舞っているうちに、対等な関係などなくなるのです。そうして支配する側とされる側が出来上がります。

お互い最初は了承のもとなので問題はなくても長い時間が経つと大抵は支配される弱い立場の人が限界を迎えます。そうしてその支配から抜けるためにさんざん揉めてやっと逃げ出します。そうしてもう懲り懲りだと言いながら次の決めてくれる人を探すのです。

 それが恋人ではなく親子なら、嫁姑問題とか、親離れ子離れとかそういう形で出てきます。恋人や友人なら束縛とか嫉妬とかハラスメントとかそういう形で出てきます。対等ではない以上結局うまく行きにくいのです。

依存のきっかけはいつも些細。

アルコール依存、買い物依存、違法薬物、依存はこの世界にはたくさんあります。スマホ依存、ゲーム依存、などは馴染み深い依存です。
どんな依存も始まりは些細なことです。
楽しいから、楽だから、みんなしているから、なんとなく。
依存の大半はそれ事態が悪いこと(違法薬物など)もありますが、大抵はそれ事態には罪がなく(スマホやゲームなど)ただ使用者側の頻度が度を超えている場合がほとんどです。

そうして大抵の人がこう思っています。
私は依存していない。
そうして依存した人の大半がこう思っています。
こんなはずじゃなかった。
気がついたら依存していた場合がほとんどです。つまり自覚してからじゃ遅いんです。占い依存もそうです。
このくらいいいじゃん。この程度あそびでしょ。
その積み重ねが決断できない、と言う結果を呼びます。

ですが、私はあなたの守護霊ではないですから常にそばにいてだめよ!なんてできませんし、そうやってコントロールするつもりもないです。冷たいようですがあなたが依存しようとしまいと、私の人生にはなんの影響もないですから。
それでも占い師として、そういうことにはなってほしくないと思うから何度も言っています、占い依存は怖いよって。
それでも依存したい人はしますし、そうなのか!と思ってくれる人はきをつけるでしょう。だから私は私の依頼者には色々と選択を迫ります。カードとスピリチュアルの占いどっちがいい?このカードの中から○枚選んで?みたいにね。そうして自分で決めるということや、直感で選ぶということの練習になればと思っています。

自分で体験しないとわからない人も居ます。
骨折しないとわからない人はどんなに止めてもいつかは骨折します。
それと同じです。

ただ占い依存のように、決断できないという弊害は骨折程度の話じゃないです。それによって変な宗教に入ってしまったり、全財産を謎の開運グッズにつぎ込んだり、この人は大丈夫だからと大丈夫じゃない人に実印を預けたり、みたいなことになりがちです。
決断を他人にゆだねて幸せいっぱいに生きている人を私は知りませんが、もしかしたらそういう人もこの世の中は広いから居るかもしれません。とてもレアケースだと思いますが。

正しい占いの使い方

じゃあ、占い師なんて居ないほうが良くない?
そのとおり!実はブッダもそう言ってます。占い師なんて生きたまま焼かれて地獄行きだからかかわらないほうがいいよって。
私も占い師ですがそう思います。なぜなら、他人のカルマに口を出すことに怖さ、他人の人生を変えてしまうことの責任を知っているからです。そういうことを知らずに使命!とか運命とか言っている人はのんきでいいなあと思います。
私は自分が似たようなことをして2度も死んでいる過去生があるから余計そう思うのでしょう。ああ、その黒歴史私もやったことあるからやめとけ!みたいな感じです。いたたまれないのかも(笑)

だから私は占い師を終わりにするために占い師をやっています。だから私は基本的に決めてあげることはしません。AかBで悩んでいる人が居たら、CとDもあるよ!と言う占いをしています。それは意地悪ではなく、視野が狭くなっていて他の選択肢がないように感じているからです。そうして迷うということはこれだ!ってなっていないということ。つまりなんか違うんだよなあってなっているから。だからあえて迷わすようなことを言うこともあります。

本当は誰しも【こうしたい】があるんです。でも、周囲の人に笑われたくない、いい歳してそんなこと言ってるなんて、すごくお金がかかるし、家族にも迷惑が、資格取るのは大変だし、、、、こんな感じでなんだかんだと言い訳をしているんです。そうして『そんなことを言ったらね』なんて自分で自分の【こうしたい】をだからしょうがないじゃない、と諦めているだけです。

そうして自分の【こうしたい】を諦めたから代わりに【誰かのこうしたい】を叶えることで誤魔化そうとするんです。そうやって生きると心配性になって常に他人が気になるんです。そうして〇〇が言うことを聞かない、〇〇が心配だ、と他人に人生を振り回されます。

占いはいつの時代も、本物と偽物が居ます。私は本物です!とか言うつもりはありません。見る人によっては本物にも偽物にもなるでしょう。私はそんなのはどっちでもいいと思っています。大事なことは、ただ私のところに相談に来た人たちが前を向いて自分の進みたい方向に進む勇気を持つことができたかどうか、私のところに来た人たちが自分の夢を叶えたかどうかでしか無いんです。だからときに嘘をつくこともあるかも知れません。そのほうがその人が前を向いて幸せになるのなら、喜んで私は嘘をつくと思います。

私の使命とか本物かどうかとかそんなのはどうでもいいです。興味もないです。私がしたいのは使命のとおりに生きることでも本物になることでもないからです。ただ私の占いで多くの人が自分の願いを叶えるために勇気を持って突き進み願いを叶えるかどうかだけだからです。

占いの正しい使い方は本来一つだけなんです。
私の願いを叶えるために、私は何をしたらいい?
それだけなんです。
例えば古来より、今年は豊作になりますか?と聞いて、今年はイモ類が豊作らしいから芋を植えよう!とか、みんなが幸せに生きるために必要なことを占って、ときに回避するために、時にそうなるようにと方法を聞いたのです。そうしてその質問をするために必要なのは自分の願いを正しく自覚すること。

ここに関してはこんな感じです。アメブロに書いたので木になる人は探してみてください。

根っこの願い図解

言い方を変えて何度も伝えています。相性の例えとか、根っこの願いとか、いろいろとね。大事なことは自分に一生懸命になることです。自分に興味がなくなると、自分で決めることもできなくなるです。

例えばそれは、あなたが王様やお姫様だと思ってください。
家来が何でも決めておきました!とやりますか?
例えば今日の紅茶はこれで良いですか?今日の入浴剤はどうしますか?
ディナーは肉と魚どっちがいいですか?
何でも聞いてくると思います。

それと同じです。あなたが自分を大事にしたら、決めるという権利を手放したり他人に委ねたりするはずがないのです。
他人に任せることはあるかもしれません。
それは、王様が
今日の夕飯のメニューは料理長に任せるよ、というのと同じです。
でも王様が、料理に関するすべての決定権を料理長に委ねるから今後私には料理に関する決定権は一切ない、ということをするはずはないのです。

逆に奴隷はどうでしょう?自分で決めることはほぼ許されません。何をするにもご主人様こちらでよろしいでしょうか?とお伺いを立てなければ罰を受けてしまいます。やったところで主人が気に入らなければ罰を受けます。決定権を委ねるとはそういうことなのです。

つまり、他人に委ねるということは自分を大事にしていないということです。自分を大切にできない人がすることなんです。だからいいます。自分で決めなさい、あなたはどうしたいの?占いはあくまでもアドバイスでしか無いのです。願いを叶えるためにはどうしたらいいの?その答えが無理だね!という時も残念ながらあります。人生とはそういうものですからね。でもだからこそ、頑張れば叶うかもしれないことを〇〇だからと諦めるのはもったいないと思いませんか?そもそもその占いが外れていることだって可能性としてはあるのです。

そういう風にあなたの願いを、手放しきれないものを知るためのツールでもあります。私はプライベートの恋愛相談のとき、つまりお金をもらっていないとき必ず『じゃあ別れたら?』と言います。それを聞いた相手が『でも』と言ったとき、それは別れたくないからフォローするんです。『そうだよね!』と言えば本当は別れたいときです。それが叶わないとしても、それでもやってみたいかどうかでしか無いんです。否定されて初めて、ムカついた、苛ついた、など怒りが湧いてきたり、悲しくなったりしたのなら、それはあなたが大事に思っている手放せないことなのです。そういうふうに否定されることで初めてその大切さに気がつくこともあるのです。

まとめ

馬鹿と鋏(はさみ)は使いよう、なんてことわざもあります。占いだっておんなじです。依存は使用者の頻度の問題であることがほとんどです。そうじゃないものは違法指定されてます。占いは詐欺も出やすいほど、つまり違法とグレーゾーンなくらいには依存しやすいということでもあります。そのくらい多くの人が自分の人生なのに責任を取りたくないと考えているということでもあります。あなたのせいでと言ったところで何も変わらないのにです。だからこそ、自分軸をしっかり持つことが大事です。決断する権利を手放すことは自分をないがしろにしているのと同じです。そうしてこれは私が決定権を他人に委ねそうして取り戻したから言えることでもあります。
はじめから決定権を委ねたことが無い人にはわからない事を知っています。
決定権を取り戻していない人にはわからないことを知っています。
つまりどっちの立場も知っているということです。
もしあなたが他人に決定権を委ねているのなら今こそ取り戻すために知識や行動を起こすべきときなのかも知れません。

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