パパ、も ってなあに? A
「ねえ パパ なんで」は
Q&Aで構成されています。
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2024年は喪に服すことが多い年始から春でした。親類家系にではなく、いわゆる世界の名だたる皆様の、でしたが。
誰それの訃報を耳にすると、その方の功績や思い出なんかが同時に語られることが多いです。
自分の記憶を呼び覚ましたり、こういう偉大な人がいたんだよ、と知らない若人たちの興味を惹く一助になればってのも、あると思います。
語りの中で騙られそうになる、私はこういう視点を持ってたんだとか、細かい部分を観てたんだよとか、こんなこと知ってまんねんみたいな、優越の空気を振り払いもしつつ。
日頃は出て来なかった、人とナリなんかも垣間見えるし、それはそれで、意味のある時間だなと思います。故人の話で盛り上がる精進落としや通夜ぶるまいと同じような感じ。
だだその、記憶を繋ぎ止めておく、といった行為が、亡くなられた方の解放を妨げるのではないか、なんて考えに至ったりもしまして。
さっさと楽に楽しくいきたい(しんでたい?)と思ってらっしゃったら、可哀想というか、失礼というか、じゃない? って。
と言いつつ、僕の死生観は、人は死んだらそこでおしまい。五感六感、セブンセンシズがブツンと途切れ、あとは自分の記憶と想いだけで、真っ暗(に見える…いや、見えないから真っ暗、なんですが)な世界を漂い続ける黒いタマ(魂とも呼ぼう)になる…というヤツで。
そう考えると死後の世界というか、死後における現世の事なんて、向こうからしたら知ったこっちゃないんでしょけど。
結局、こっちに存在する死後の世界というものは生者の管轄であり、思い出やら利権やらに群がる輩にやらやらと生かされてしまってるってなもんなのかも。
喪に服している間も、遺産相続やら、有名著名な方であれば権利関係のお話が並行して話し合われてて、かつ四十九日まで漂う魂に意識があるんやとしたら、はてさて"喪"とは? って思ってるでしょうね。
なるほど、遺書や終活が大事ってことなんだと納得致しました。さらに、偉大な先生方はイデオロギーやら想いやらにも縛りつけられて、大変そう。
ま、そういうので気分良くいきれる(しんでられる)人もおるやろし、やっぱりこれも、人それぞれのどれそれか。
宗教によっては、永の年月を経てまた生き還ったりするらしいですし、ゆっくり死なせてくれよって人もいれば、待ち遠しい人もいて、桃も喪ももう、盲妄のうち、ってところなんでしょうか。
もー! ゆうてるんやろうなあ。
(想定の範囲内のオチ台詞)
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