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コロナウイルスと地区コミュニティの対応に関する省察

著者:エントレビアスの住民、エマ
初出:2020年5月、https://www.todoporhacer.org/coranavirus-respuesta-barrios/

多くの都市と都心部で、互助ための相互扶助グループや近接ネットワークが(半)自然発生的に出現している。当初は、近所にいる危機に瀕した人や感染した人が使い走りを必要としている時に周囲の住民が助けるためのものだった。しかし、幾つかの地域では、資産のない家族が食料と必需品を幾度も必死に求め、この元々の目的を凌駕している。

こうしたネットワークの多くが、その地区で働く教育者と活動家の発意から生まれ、すぐさまこの導火線に火がつき、何百という人々が必要に応じて手を貸そうと協力するようになった。相互扶助ネットワークが社会セクターの専門家から生まれたという事実は、憂慮すべきことではない。根本的問題は、コミュニティのネットワークが長年制度化されてきたことにある。

連帯はコミュニティで暮らす際の自然な反応である。しかし、それは育成され、世話され、溺愛されねばならない。これを育成するのが絆・先在ネットワーク・地区の共同体であり、地区で政治を行い、地区で暮らすことによって育成される。長年、多くの地区に連帯が存在していたが、福祉国家に吸収されてしまった。福祉国家は私達の頭に刷り込む。様々な問題は個人的なものであるはずで、自分が不安定な状態にいるのは努力が足りないからだ。資本主義はこの言説を強化し、恥・後ろめたさ・隣人への疑念を生み出す。国家は私達を無力にし、自分達の問題は相変わらず個人的なものに違いなく、部屋にいるのが一番だと信じ込ませる。資本主義は、私達は自給自足できなければならない、できないなら、隣人にバレないようにしなければならない、と説く。私達が受け取る権利があるものとそうではないものを審査する窓口があり、そこに答えが掲示される。明らかに、私達は、福祉国家からの回答を期待している。でも、自分達の生活組織を福祉国家に預け、地区を単なる福祉の受給者のままにしているのはどうしてなのだろう?これは、制限の中で急成長した支援グループに人々が援助を求めるやり方に見て取れる。他人よりも自分の方が支援を受ける権利があると必死のメッセージを示し、その理由を逐一挙げているのである。

「コミュニティを作る」というアジェンダを持つ社会的専門家は、それまでなかなか始められなかった舞台を動かす原動力になっている。彼らにはツール・素質・願望・発意がある。彼らの仕事の一部は、地区を熟知することである。

これまで私達を養っていたのは福祉であって、民衆の解放と基本的権利ではない。私は活動家と教育者の仕事の重要性に異議を挟まないし、ましてやその善意を疑ってもいない。私達には非常に有効なツールと発意があり、効率的に組織を作り、多くの人が無償で引き受けたがらない仕事も行っている。しかし、同時に、私は身を持って知っている。このツールを手放してコミュニティに渡すと、コミュニティは私達を必要としなくなるため、そのようにするのは非常に難しいのである。多くの人に寄り添うことが大切だから私達は社会的領域に伴奏している。私達にとって、これは懸案事項かもしれないが、黙殺してはならない。私達が空間を離れて初めて、人々は、それまで社会に否定されてきた役割を手にできるようになるのである。

相互扶助の専門化は危険だ。永続できるネットワークを構築する際には有害である。ヒエラルキーは相互扶助の大敵である。私達は補助金にも依存し、大抵、短命だ。何故、長続きする機会を与えないのだろう?こうした専門家が徐々に消えていく方が良いと思わないのだろうか?今ではないにせよ、これがすべて終わった後には、ネットワークを自主管理できるようにしなければならない。15M運動(訳註:2011年5月15日にスペインで始まった占拠運動)は教えてくれた。自主管理は可能だ。私達は、制度外で物事を行う水平型の方法を知っており、それを創り出すことができる。新しい世界を構築したいと思うのならば、実行が不可欠なのだ。

地区の声はその地区に属していなければならない。誰も、助けを求めたり、援助を受けたりすることで批判されてはならない。カリタス(訳註:カトリック教会の援助活動を支援する団体)・赤十字・社会福祉事業・フードバンクが提供する援助に替わる非福祉型の選択肢はない。テトゥアンやバリェカスで長年行われているように、それぞれの地区に連帯パントリー(食糧配給所)が必要だ。また、一つでは不充分な場合もあり、現在のような危機の情況ではなおさら足りない。例えば、エントレビアスでは、数千人が家庭や宿泊業での不安定な仕事を失ったり、B型経済(economías en B)で生活したりしている。生計を立てるために街頭に出ることもできず、手当をもらい、社会福祉事業の資源に頼ってどうにかこうにか生きている。社会福祉事業は、近隣にある数少ないネットワークにそれぞれのケースを照会して彼等が職に就けるようにしているが、限界を超えている。

それにしても、地区の中で私達アナキストがネットワークを構築してこなかったのは、他のプロジェクトに注力し過ぎていたからだろうか?私達は数が少なすぎて、親密な絆を創り出せなかったり、創り出す方法を知らなかったりしていたのだろうか?答えはない。あったら良いと思うのだが。ナオミ゠クラインが数日前に述べていたように、私達はこの危機において2008年よりもましな立場にいる。過去のネットワーク作りの経験が残っており、多様なアイディアを使って地区の人々とどのように組織を作れば上手く行くか知っている。いかなる類の指導者も抜きに、下から集団的に活動する方法を既に知っている。2011年には、現行システムを根本的に変えられなかった。今回は変えられるだろうか?

別の米国政治家を引用しながら、クラインは「過去も現在も、危機だけが本当の変革をもたらす」と述べた。しかし、こうした変革は必ずしもより良いものになるとは限らない。大規模な反動的運動もこうした出来事による恐怖を食い物にする。自分達で組織を作る方法を知り、官僚なしに自分達を組織している事実を宣伝すること、これが抑圧に対抗する一つの武器である。

そして突如、この組織化が差し迫ったニーズとして現れた。私達は何を待っていたのだろう?これまで以上に、資本主義システムに対する本物の代案を提示しなければならない。現行システムでは、大企業の経済利権の方が労働者の福祉よりも重要だとされている。子ども達や老人達の健康よりも、金の方が力を持っている。

私達は声を大にして叫び、刑務所・CIE・様々な集団に対する差別・少数者に奉仕する不安定性といったことに対する闘争を再び活性化させねばならない。私達の声と行動は繋がりを創造できる。それは、差異を統合しながら、別な見方と実行方法を構築するために脱構築できるようにしてくれる。

絆作りや組織作りを教えてくれる企業など要らないし、欲しくもない。私達は水平型の確固たるネットワークを求めているのであり、それが必要なのだ。しかし、現在のような危機の文脈において、意志決定の実行と集団的提議の創造は難しくなっている。私達は、勇気・忍耐・根気・共感を備えていなければならない。今まで以上に、地区は私達のものなのだ。

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