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カメリア


 わたしには魅力がない、
 わたしは、常にそう感じていた。とびきり可愛いとか美しいわけじゃないし、かといって見られないほど醜いなんてことはない。それに幾ら醜かったとしても、それを嘆いてばかりじゃなく、逆に武器にできるぐらいの向上心はあるつもりだ。どちらかというと可愛い方だという仲間内の評判も見抜いているし、自覚だってある……そう思いながらも、わたしは日々、自らに植えてしまった劣等感に苛まれ続けていた。高校を卒業するまでの学生生活の間、何か特別なことを行った際にも、わたしは「自分の行いは決して優秀なものではない」と常に自己判断してしまっていた。
 そのためわたしは、男性に対しても臆病だった。最初の交際は高校の頃だったが、せいぜい一緒に出かけるだとか、その延長上で手を繋ぐほどの勇気しか、わたしは持ち合わせていなかった。それ以上は考えられなかったし、考えたくもなかった。性別なんか関係ない、そういった意味の発言もよくするようになった。男も女も、躰の出来が違うだけじゃない。
 そうしている内に、わたしは人間を有機体の一種として考えるようになった。アミノ酸やタンパク質の結合具合が異なるだけで、そこに大きな意味などない、といったように。それでもわたしは、自分が男を知らないということさえも、新しい劣等感として飼い続けることになった。男の話を繰り返すクラスメイトを雌豚となじりつつも、幾許かの羨ましさを感じているのは確かだった。
 趣味で詩作をし、歌うことが唯一の逃避手段だった。歌っている間は、何もかもを忘れられる。しかし親もとで暮らしている狭い部屋では、思うように歌えなかった。それに、歌うことで懊悩を誤魔化しているように思えた。それでも、歌っている間だけは自分が存在していることを確認できた。
 やがてわたしは、そのまま大学に籍を置くことになる。劣等感から派生した新たな劣等感を次々と生み出し、自己を見詰めることばかり繰り返しながら、孤独を愛するひとり暮らしを始めることになる。
 歌は、以前ほどうたわなくなっていた。

「へえ、歌うたってるんだ」
 大学の美術部室で出会った、無精髭を生やした痩せ型の男は、狭い部室でわたしにそう言った。俺は文学をやろうと思ったんだけどね、学力がないから結局は文学部に行けずじまいさ。
 そのひとことに、わたしは自分との類似を感じた。ここにもいた、そう思う。ここにも、劣等感に負けようとしている人が。わたしが「歌をうたう」と自分を紹介したのも彼と同じく、学ぼうにも音楽大学に入れなかった名残だった。
 男は煙草の煙をくゆらせ、しかめっ面のままギターで不気味なマイナー・コードを弾いていた。珍しい曲調に興味を持ったわたしはしゃがみ込み、その様子を無言で見詰める。男は弾きながら眉をしかめると、駄目だ、そう言ってギターを部室の床に捨て置いた。俺はどうしたってシド・バレットにはなれねえや。
「シド?」
 わたしは、単純に理解できないための問いを返した。ははは、と笑い声で応対する男の笑顔は、どこか乾いている。
「シドっていえば、みんなヴィシャスって言うけどね。俺にとってはバレットなんだ」
 知ってるかい? その問いに、どちらも知らないわたしは首を振る。だろうなぁ、と応じる男の口調は、まるでその反応を想定していたかのような、諦念にも似た響きを持っていた。
「ピンク・フロイドっていうバンドの名前は聞いたことあるだろう? その、最初のリーダーだった奴なんだ」
 本当に狂っちまって、今もひっそりと暮らしてるそうだけどさ。名も知らぬ男は、旧友を偲ぶような口調で語った。やがてギターを置いて無言になり、組まれたイーゼルにもたれるように置かれた、灰皿代わりのコーラの缶に煙草をねじ込む。その中にはまだ液体が残っていたらしく、ジュッ、という短い音を発して、煙の発生は止まった。
 わたしは、鼓動が高まるのを感じていた。なんでドキドキするんだろう? その緊張を緩和するために、わたしは肩から掛けた小さなバッグから煙草を取り出した。
「お、マルボロのメンソールかい」
 男が、鋭い反応を見せた。わたしにとってのそれは、まるで予期せぬことだった。男はジーンズの小さい右ポケットから銀色のジッポライターを取り出し、火を点ける。それは度重なる出し入れで無数の線が走り、使い込まれたものに見えた。
 わたしは、あ、と短く呟きを漏らす。その様子を見て、男が声もなく笑う。そうだよな、みんな驚くんだよな。ホストでもねえのに人の煙草に火を点けるのが習慣になってる男にはさ。
「ほら」
 男は胸ポケットに入れたケースから煙草だけを一本取り出し、先に火を点けてからジッポ・ライターを差し出した。なぜだろう、一度他の煙草を経由したことで、わたしは安心してその炎を使うことができた。或いは人の煙草に火を点けることが習慣になっていると言う男の、特有の方法なのかも知れない。
 わたしがくわえた煙草を炎に重ねるのをじっと見た男は、ライトか、と小さく呟いた。うん、わたしのその回答は、意識せずに口から滑り出ていた。
「何喫ってるの?」
 わたしのその質問も、ほぼ無意識に踊り出たものだった。勝手に言葉となったそれにわたしが動揺しているのを知ってか知らずか、男は胸ポケットから煙草のケースを取り出す。今は金がなくってさ、そう笑う男が持つのは、わたしが知らない輸入煙草だった。赤い花が描かれたデザインのそれは、銘柄と解らない程度に小さい文字で“Camellia”と記されていた。
 いつも訊かれるけど、そう言って男は煙草の煙を天井に向けて吐き出す。俺は何だっていいんだ。メシも煙草も、何でも俺に合ったものだったらさ。そのうえで、金がかからなければなお結構。これは馴染みの煙草屋で買った、産地も知らない九十円のやつだよ。
 その横顔に、わたしは既視感を覚えていた。どうしてだろう、わたしは煙草の灰を落とすことも忘れ、まだ名も訊かぬ男の横顔を見やる。どうしてわたしは、この人を見たことがあるような気がするんだろう。
 刹那、男がわたしの方を向いた。
「猫みたいな顔、してるよね」
 初めて言われた、言葉だった。
 わたしは、その言葉の真意を見抜くより早く、頬を赤らめていた。なぜ恥ずかしがるのだろう、煙草の灰が伸びていることを男に指摘されてわたしは、慌ててそれを落としながら考えていた。忘れていた筈の感覚が、ほの赤くよみがえっている。
「あの、それじゃ、わたしこれで」
 わたしは慌てて煙草を消し、血が回った頭を軽く下げた。急な別れの挨拶だったにもかかわらず、男は動じずに右手を挙げた。それじゃまたな、煙草をくわえながら、僅かに微笑んだ口もとから声を漏らす。その吐息で煙草の灰が中に舞うのを、わたしは気にかけていた。灰は男が組んだ膝の上に落ち、やがて彼の手で払われた。
 そうだ、去ろうとするわたしを、男は今一度振り向かせた。
「一応、俺留守番になっててね。入部希望者の名前を訊いておけって言われてるんだ。悪いけど、苗字だけでいいから教えておいてくれないか」
 振り向くと、男は煙草をくわえたまま再びギターを抱いていた。言葉の割には、わたしの名を書き留めるメモ用紙などが見当たらない。しかしその繕ったように見えない素振りが、入部の意志さえ定まっていないわたしの口を開かせた。
「水無月、です」
「ミナヅキさんね」
 男は、Fのコードを押さえた。
「俺は矢神っていうんだ。今日ここにいるのも珍しいぐらいのヘタレ部員だけど、もしよかったらよろしくな」
 そして不定期なリズムを奏で始めた。わたしが呆気に取られて立ち尽くしていると、矢神と名乗った男は不可思議そうな顔を浮かべて演奏を止めた。どうしたんだい?
 いや、わたしは言葉を詰まらせた。その様子を察してか、矢神は微笑んで煙草を口から外した。
「大丈夫、俺はしっかり憶えた。ソフト・パックのマルボロ・メンソール・ライトを喫う、猫顔の水無月さんだろ」
 そのままギターを置き、矢神は胸もとから自分の煙草を一本取り出した。
「入部希望なら、これを持ってくればいい。俺がいなくても俺の紹介ってことになるからさ。その気がないなら喫っちまえばいいよ。名前を書かされるより、この方が気楽だろう?」
 ほらしまっときな、そう促される矢神の指に挟まれた煙草を、わたしはいつの間にか受け取っていた。入部すれば先輩になるだろう人間だから断れない、といった筋書きに則った行動ではない。別段の違和感もないまま、わたしは受け取ったそれを自分の煙草のパックに収めていた。
 それじゃ、矢神がもう一度手を挙げ、わたしに別れを告げた。
「また会おうな」
 そして不気味なコード進行の曲を弾き始めた。しかし、わたしが扉を閉じた直後、さきほどと同じところで演奏を中断していた。
 似てるんだ、
 わたしは、かねてから矢神に感じていた親近感を突き止めた。あの人、わたしに似てるんだ。わたしと同じで、中途半端であることに苛々してるんだ。絶対的な何か、これが自分だと言える何かが見付からなくて、懸命にもがいてるんだ。停止したギターの音色に続く、くそっ、という矢神の呟きに、わたしはそう感じていた。
 落ち着くべく取り出した煙草に、わたしは火を点けた。メンソールの味がしない。よく見ると、それは受け取ったばかりの“Camellia”という煙草だった。きつい煙草だったが、嫌いな味ではない。ほのかな甘さが口に広がっては、苦味と混じって虚空に消えた。

 結局、わたしは美術部には入らなかった。短い葛藤の末、わたしはその隣りにあった演劇部に寄り、成り行きで籍を置くことになる。それでも部屋が近いこともあって、わたしは時折矢神とすれ違った。
「おお、水無月さん」
 矢神は、出会う度にいちいちわたしに挨拶した。彼はひとりでいることが多く、対するわたしも単独の行動を好んだ。似た者同士、とも言えるのかも知れない。普段はひとりでいることを好む分、誰かに会うとその反動であるかのように過度に接してしまうのも似ていた。但し世話焼き加減に話す矢神に対して、わたしは、期待されるリアクションを選択するのが苦手だった。それを察した矢神は、追随よりも選択肢を広げる話法を選んでいた。つまり、ひとつの話題を追求するのではなく、雑多な会話をつまむように広げていく。それによってわたしも関連する話題が思い付くようになり、次第に矢神と打ち解けていった。
 わたしたちは隣り合った部室前で話し込むこともあった。そうして授業を忘れることもあった。食堂やキャンパスを会話の場に移すことも、プライヴェイトで落ち合うことも――わたしは、自分と対話するかのようにして、矢神に親しんでいった。
 やがてわたしたちは、いつしか、曖昧な関係性に陥っていた。それは別段に特別なことではなく、自然な成り行きだった。自分にとって興味深い人物に出会えば、今まで出会えていなかった時間を取り戻すようにして、人は濃密な時間を求める。わたしは、それを実践しただけだった。拒んでいた筈の男性という存在なのに、まるで合わせ鏡であったかのように、不思議と馴染んでいる。異性という部分を拡大していた過去に比べ、矢神は、そういった意識を必要としない。楽であるうえ、対話も自然に思えた。
 親しい相手が、たまたま、異性だっただけ。
 そう思うことで、わたしは気が楽になった。そこに性別は関係ない。
 対する矢神は、しかし、不可思議だった。時折、演劇畑のわたしをして、彼は「水無月という人物に対応するための」キャラクターを演じているのではないだろうか、という違和感を覚えさせることがあった。ひとりでいる時、わたしと一緒にいる時、他の誰かと一緒にいる時……すべて、その時々のキャラクターを演じているような印象があった。良く言えばその場に合わせる、悪く言えば八方美人にも見えた。
 だけど、ひとりでいる時の矢神は、もっとも別人に見える。虚空を憎むように鋭く見詰め、つまらなそうに煙草を喫う。放浪する旅人のような威圧感があり、声がかけられないこともあった。それがわたしを視界に認めると、急に人懐っこい笑顔を浮かべる。そのまま彼は「わたしにとっての矢神」に姿を変える。
「ねえ」
 わたしは、その違和感を棄てきれず、ふたりで立ち寄った喫茶店の会話にすることにした。
「矢神くん、演劇とかやってた?」
 しかし直接的に訊く勇気は出せず、婉曲を用いていた。
 窓際にわたしを座らせた矢神は、わたしの後ろ向こうに広がる景色を眺めながら煙を吐いた。よく言われるけどね、そう言いながら煙草を揉み消す矢神は、少しだけ唇を歪めている。
「俺はそんなことした憶えもない。水無月さんにゃ悪いけど、演劇なんてものは誤魔化しだと思っていてね」
 矢神は言って、ちらりとわたしを見る。気を遣っているのだろう、わたしは始まった彼の弁舌を続けるように、右手の平を差し出してみせ、促した。少しだけ、矢神の顔に微笑みが戻った。
「演劇なんてものは、みんな、仮想のキャラクターを演じているだろう? それがすごくぎこちなくて、どれも見ていて苛々するんだ。自分自身さえ理解していないくせに、他人を演じられる筈がない」
 俺が絵と歌を選んだのはそのせいなんだ、矢神は窓の向こうを見詰めながら、テーブルの上で指を組んだ。わたしはその指を見詰め、所在なく、時々視線を床に落とした。
「演技は化けることを前提にしているけど、歌も絵も、自分を表現するためにある。だから歌うたいモドキに化けるような真似はしないし、自分を飾らず、追い続けて狂っちまったシド・バレットが好きなんだ」
 悪いな、そう言って矢神はわたしを見た。
 わたしは、黙って首を振ることしかできなかった――なぜ? それは、彼の言及が、普段からのわたしの疑問でもあったからだ。演劇部の部員たちは、決して悪い人間ではない。それでも、彼らを先輩や同輩と認識するのは苦難だった。彼らの過剰な演技をして、上手いなどと誉められない。自然体を表現しようとしたあげく、結局は自然を装った演技になっているものも程度が低いと思う。幼稚園のお遊戯会にも似た、予定調和の雰囲気がそこには常にあった。
 わたしが今まで抱いていた筈の劣等感は、そこでは、逆転していた。
 こんな人たちだったら、わたしの方が上手い演技ができる筈だ、と。
「そんな奴らより、俺は演技ぐらいなら勝てる自信だってあるぜ」
 同じことを、目前の矢神が言った。わたしは目を丸くした。
「お、猫だ」
 そう言って矢神は、わたしの瞳を指差す。
 緊張が、緩んだ。こうして必要以上に張ろうとしていた糸を、矢神は切れる前にほぐす術を持っている。もう、そう言いながらわたしは、結局は微笑んでいた。
「すぐ話を逸らすんだから」
「逸らしているわけじゃないさ」
 矢神は笑いながら、煙草を尻ポケットにしまった。もう店を出るのだろうか、わたしはテーブルの上に置いてあった自分の煙草もしまおうとしていた。さっき入ってきたばかりなのにな。
 それが、実際には合図だった。
 矢神は肩を丸くすくめ、あたりを落ち着きなく見回し始めた。何してるの? わたしのその問いかけに、彼はこちらを見て驚いた表情を見せる。
「いえ、何に、も」
 明らかな、動揺だった。それもわたしと親しい人物が見せるような動揺ではなく、まるでわたしを初めて、急に視界に認めたような。
 矢神は、わたしの目と膝に運んだ自分の手の間で視線を往復させている。その手も落ち着きなく、膝を掻いたり、所在なく組んだりしている。目はおどおどして眉は傾きが逆になり、小さく舌を出してはしきりに唇を舐めていた。
 わたしは、声がかけられなかった。目前にいた筈の矢神が、唐突に矢神でなくなってしまったような錯覚に包まれたからだ。それも彼がそうした演技をしているのではなく、まるで「彼」と「その人物」が瞬時にして入れ替わってしまったかのような錯覚――あ、わたしは囁きを漏らした。
 その途端、矢神がびくりと全身を震わせた。そしてそのまま口をかたく閉じて硬直し、少しうつむいたまま、上目使いにしてわたしを見る。
 わたしの囁きは、意図したものではなかった。その時点でわたしは、矢神が「何か」を演じていることを認識したのだ。ごく自然に始まってしまったそれは、わたしにはいつから始まったのかも判らなかった。そしてそれは「自分が架空の人物を演じる」ものではなく「自分の中にある人格からひとつを呼び出し、拡大する」ものだった。
 きっとそれは、わたしがそう感じただけなのかも知れない。他の人が見れば、違うように見えたのかもわからない。しかし、決して下手な演技ではなかった。まるで完全に、矢神は「絶対的な上位者に会って落ち着きのない人間」を演じてみせた。
 彼の演技には、奥行きがあった。その手法は、幾多の経験や鋭い感覚がなければできるものではない。演劇部という小さい輪の中でお遊戯ごっこをしている連中には、決してできるものではなかった。真似ようにも、外面しか真似られないに違いない――わたしは、演劇部の部員たちより上位だと思っていた自分より、矢神の方が優れた演技ができることを素直に認めることにした。
「お見事」
 わたしはそう言って、怖気付いた様を見せる矢神に微笑みかけた。その刹那、八の字に歪んでいた眉は正され、くぼむようだった目は見開かれた。空気を吸い込むように落ちた肩も上がり、手は、膝から尻ポケットの煙草を経由してテーブルに戻った。
「どうだい?」
 煙草をつまんで帰ってきた手を口に運び、矢神は微笑んだ。
「これが、演技というものだ」
 しかし小さなトリップから戻ってきたばかりの彼は、まだ「わたしと接する時の人格」に戻りきれていなかった。ジーンズの小さな右ポケットをまさぐり、ジッポライターを探している。そしてそこが空洞であることに気付き、煙草をくわえたまま片方の眉をしかめた。
 カチャ、
 わたしは、テーブルの上に置かれたままだった彼のジッポを差し出し、火を点けた。矢神はにやりと笑い、小さく手を打った。
「俺の癖が、移ったのかい」
「ううん」
 わたしも微笑み返し、ジッポを閉じた。
「好き」
 自然と、滑り出た言葉だった。
 しかしわたしは、動揺することもなかった。ほぼ無意識に、その言葉はわたしの口から踊り出た。まるで論理的ではない言葉なのに、今は、そのひとことしか言えなかった。
 矢神は一瞬だけ、動きを止めた。やがてゆるやかに煙草をひと喫いし、上を向いて虚空に吐き付けた。
「それは、演技じゃないよな?」
 わたしは、煙草を取り出して指に挟んだ。
「どうかしらね」
 そのまま矢神のジッポで火を点け、再び蓋を閉じた。
「でも、ヒロインを演じているんじゃなくて、あなたを思うわたしを拡大しているのには間違いないわ」
 バレたか、矢神はわたしの手からジッポを受け取り、微笑んだ。
「そういうこと。だから俺は、水無月さんに会う時は、水無月さんに会うための俺を自然と引き出しているだけ。みんな本当はやっているのに、気付いていないだけなんだよ」
 心なしか、そう弁舌する矢神の煙草を喫うペースが早まっている。灰皿を叩く回数も増え、そこと唇との往復が盛んに行われている。
「ねえ」
 わたしは指を組んだ。まだ答えを聞いてないわ。
「あっ」
 その言葉を耳にした矢神は、指に挟んでいた煙草を落とした。テーブルの上に転がったそれを、矢神は少し慌てたようにして拾い上げ、灰皿に休める。その姿が、わたしにはやけに可笑しかった。
「それも演技?」
 わたしのその言葉に、矢神は無言で笑った。

 今まで曖昧な関係性に身を置いていたわたしたちは、その日から正式な恋人になった。それと同時に、わたしは惰性で続けていた演劇部から正式に脱退した。
 サークルを脱けるのと違い、恋人になるのには決定的な何かが必要なわけじゃないし、正確には、矢神の返事も聞いていない。しかし敢えて口にしないその素振りが、臆病だった筈のわたしを触発して大胆にさせた。
 といっても、別に普段と大きな違いがあるわけでもない。大学の内外を問わず不断に会っていたし、一緒に出かけることも多く、お互いの部屋にもよく訪問した。彼は以前から苦手なお酒を呑んでしまったわたしの介抱もしてくれていたし、わたしも二日酔いの彼に食事のひとつぐらい作ることはしていた。けれども違うのは、お互いの手が触れ合っている時間の長さが示すように、距離感が縮まったことだった。
 初めての正式な恋に、わたしは、夢中だったのかも知れない。必要以上におどけてみたり、矢神のために何かをしてあげたり、以前のわたしにはできなかった筈のことが楽しかった。わたしは、今まで劣等感に苛まれたあげく、結局は、自分ひとりの安定を望んでいたということに気付いた。自分と空間を共有することに違和感のない、矢神という似た部分を持つ存在のお陰で。
 そしてまだ、わたしは、臆病なままだった。
 いずれそうなると思っていても、わたしは、彼の肉体が気になっていた。一方の彼は落ち着いていて、わたしの肉体に興味を示しているようには見えない。曖昧な友人関係だった頃からそうしていたように、わたしたちは自然な交流を続けていた。性別の垣根は低く、未だ、たまたま最良の友人が異性だったようなもの。だから無理に、その関係性を壊す必要はない。わたしの告白が自然だったように、自然に、そうなればそれでいい。
 そう思いながらも、わたしは、矢神に期待と失望を繰り返していた。対する矢神は、ひょっとしてわたしと交際する人格を演じているのだろうか、まるでそういった興味を見せなかった。

 煮え切らないものの、満ち足りた生活を送っている最中に迎えたある日のことだった。
 その日は駅前で待ち合わせていて、映画を観にいく約束だった。わたしは気が急いてしまい、三十分も早くその待ち合わせ場所に到着してしまった。なぜなら、矢神がわたしの好きなフランス映画がリヴァイヴァル上映されるのを教えてくれて、前売りのチケットも買ってきてくれたからだ。その映画を市販ビデオという形では持っているものの、一度でもスクリーンで観てみたいと思っていたわたしは、舞い上がっていた。
 落ち着かず、財布にしまった二枚のチケットを何度も取り出しては見詰める。矢神はわたしに、チケットを二枚とも渡した。失くちゃいそうでさ、そう笑う矢神はしかし、約束だけは忘れることはない。わたしがチケットさえ持っていれば、彼と一緒に映画を観ることができる筈だ。
 筈だ。
 しかし、待ち合わせの時間になっても、矢神は来なかった。
 おかしい、わたしはそう思った。矢神はそれが楽だから、少しばかり自分が粗雑なように見せているが、その実きっちりした男だった。それはわたしと同じで、似た者同士だからこそよく解っている。待ち合わせの時間より早く到着して、煙草を喫っているのが常だった。その筈なのに、約束の時間を過ぎても矢神は来る気配もない。街は恋人たちで溢れ、わたしは、まるでひとりその中に取り残されたかのように立ちすくんでいた。
 空は晴れ、街は相変わらずの喚声に満ちている。何も変わったところはなかった。
 どうしたんだろう、ビルに電光表示された時刻は、待ち合わせより既に二十分を過ぎようとしている。忘れているんだろうか、交通機関が遅れているんだろうか、まさか事故にでも遭っているんだろうか。不安に駆られたわたしは携帯電話を取り出そうとして、やめた。矢神は携帯電話を持ってはいるが、それで話すのを嫌う。単純に連絡用として、通常回線代わりに持っているだけなのだ。
 そうしてそのまま、わたしはもう二十分待ってみた。それでも現状はまるで変わらない。このままでは、上映時間にも遅れてしまうことさえ考えられる。そこで仕方なく携帯電話をバッグから取り出そうとすると――そこに突然、矢神が現れた。
「あっ」
 わたしは幾ら待ちぼうけを食らっても、やはり矢神が来ると嬉しくなる。だから、ひとりでいる時のしかめっ面を浮かべながら正面から歩み寄る彼に、わたしは笑顔を差し向けた。そうすれば彼も、いつもの人懐っこい笑顔をわたしに投げ返してくれる筈だ。
 しかし矢神は、そのまま、わたしを無視するかのように歩み去った。
 現状を把握できないわたしは、呆けた笑みを浮かべたまま、数秒間その場に立ち尽くした。しかしすぐさま我に返り、わたしの脇をすり抜けていった矢神の後ろ姿を追いかける。ヤガミッ、そう呼びかけても、彼は振り返りもせずにやけに足早に歩く。無理して履いてきたヒールが少し高い靴の歩きにくさに耐え、それが折れてしまっても追いかけ続け、何とか追い付いた。
「ねえ、矢神」
 わたしが肩に乗せた手を、矢神は、肩を強く揺らして振り払った。その勢いに負けたわたしは、靴のヒールを失っていたこともあって安定を失い、その場に倒れ込んだ。
 何も、考えられない。
 何が起こったのかも、まるで解らない。
 ただ確実なのは、ようやく振り向いてくれた矢神は、確かに矢神である筈なのに、まるで別人だったことだ。
「何だよ」
 あんた誰なんだよ、矢神である筈の彼は、明らかに憤怒に満ちた表情でわたしを見た。路上で脚を曲げたまま動けずにいるわたしは、両足に鈍痛を感じた。どうやらわたしの脚は「曲がっている」のではなく「折れてしまった」らしい。不思議と痛みはなく、寧ろ、全身の感覚が麻痺した感があった。
 それでも矢神は、わたしに迫ってくる。何なんだよ、さっきから俺のことヤガミヤガミってうるせえな、俺はあんたなんか知らねえし、ヤガミなんて奴じゃねえ――その言葉はわたしの意識の裏側に回り込むように、脳裏に響いた。耳はまるで役目を失い、目は、彼の姿を認めたくないのに見開かれている。
 演技?
 わたしは、その言葉を口にしたくとも、できなかった。そこにいるのは、間違いなくわたしの恋人である筈の矢神だ。しかしその人格は、まるで違う。粗暴さを絵に描いたような、いち暴徒だった。その証拠にわたしは、次の瞬間にはにやりと不敵に微笑んだ彼の腕に抱かれ、動けぬまま、衣服を剥ぎ取られていた。
「厭だっ」
 もがくわたしを、矢神は腕力で押さえ付けた。その結果、両腕に鈍痛が走り、まるで動かせなくなった。関節が外れてしまったのか、抜かれてしまったらしい。両手両足の自由を失ったわたしを、矢神はそのまま運び、路地裏の茂みに放り出した。
「さて」
 矢神は、裸のまま自由を奪われたわたしに、残虐な笑みを浮かべてにじり寄ってきた。
「どうやって、料理してやろうかね」
 わたしはそこで、余りの恐怖感に気を失いそうだった。しかし躰は無意識に転がってでも彼を避けようとしたらしく、意識が途切れ途切れになりながらも転げ落ちる感覚がする。やがてそのわたしも矢神につかまり、刹那、完全に気を失い――目が醒めた。
 すべては、夢だった。
 目が醒めたのは、ベッドから落ちた床でのことだった。寝相が悪く自分で押さえ付けていたらしく、わたしの両手は血液の流れを失い麻痺していて、足は攣っていた。そのまま苦悶したあげく、両手両足に血液が正常に循環し始めて、その場に座り込んだわたしは、
 声もなく、泣き伏した。

「どうした?」
 授業の合間に廊下で出会うなり、矢神はそう尋ねてきた。わたしはと言えば、鮮烈に残った夢のイメージが邪魔して、彼の顔を正視できない。何でもない、そう答えながらも、それは答えになっていない。矢神は、数日間連絡を絶って授業にも出なくなったわたしに何かあったのか、という意を添えて「どうした?」という言葉に転化させているからだ。
 うつむいたまま前を見ようとしないわたしの肩を、矢神はやさしく抱いてきた。その刹那、わたしは背筋を緊張させてしまい、その振動を添えた手から伝えられた矢神は、ゆるやかに手を離した。
 わたしが、矢神を拒否しているのは明らかだった。だからこそ矢神は、びくついたまま動かないわたしを無理に引き寄せようともせず、その背中を見守った。その見えない視線が、痛かった。たかだか怖い夢を見たぐらいで、彼を信用できなくなっている自分が馬鹿馬鹿しかった。それでも精神というものは厄介で、必然性も論理性も関係なく、怖い時には怖いと訴える。それを誤魔化せるほどわたしは強くないし、嘘吐きでもない。
 わたしは背を見せたまま、廊下を歩く。後ろからは、矢神が着いてくる足音が聞こえる。そのうちにわたしたちは廊下を抜け、校舎を繋ぐ橋に差しかかった。始業のベルが鳴り、周囲の学生は慌てたように、あるいはのんびりと歩を進める。わたしと矢神は、アーチ状の屋根がかかる橋の上で、一定の間隔を保ったままに歩みを止めていた。
「とりあえずは、さ」
 矢神の声がする。何があったか話してみなよ、その響きはひどく柔和で、説得力に満ちている。ひょっとすると、誰かを説得する時の人格を呼び出して――
「厭ああああっ」
 わたしは「人格」という言葉を思い浮かべた刹那、その場に座り込んでいた。嬌声を聞いた学生たちは奇異の視線を浴びせながら、わたしたちの脇をすり抜けていく。やがてわたしと矢神以外はその場に誰もいなくなり、わたしは、座り込んだまま、子供のように泣いていることに気付いた。
「落ち着くんだ」
 肩に、背中に、人の体温を感じる。矢神の部屋で嗅ぎ慣れた、ヴァニラのお香の匂いが混ざった男の体臭もする。それは確かに、矢神だった。夢で見た、血の通わない冷血動物のような矢神ではなく、体温と感情と揺るぎない個性をもつ、矢神そのものだった。
 わたしは意を決して、しかし恐る恐る、振り向いた。
 そこにいたのは、目をつむってわたしを抱く、矢神その人だった。
「あのね、あのね」
 不安に駆られたわたしは、その矢神の存在に安堵を覚えつつも、不安を止められずにまくしたてた。夢に矢神が出てきてね、すごく残酷でね、わたしは矢神と待ち合わせてるんだけどね、来なくてね、やっと来たと思ったら同じ顔なのに別人でね、わたしはひどく痛め付けられるの、それで犯されそうになってね、わたしは気を失って、それで、それで……
 あとは、声にならなかった。泣きじゃくるわたしは涙と洟が止まらず、声が声にならなかった。それでも振り絞って出した最後のひとことが、矢神を動かした。
「それが矢神の演じた別の人格だと思って、わたし、矢神がどこかに行っちゃったような気がして、すごく怖かったのよぉっ」
 その時、
 全身が、きつく締め付けられた。しかし夢で感じたような痛みによる動作不可の拘束ではなく、やわらかな、脱出の余地さえある感覚――抱擁だった。
「大丈夫」
 耳もとで、矢神の声がした。
「俺は、ここにいるよ」
 水無月が不安な時に、俺は、その介助にでも何でもなってあげるから――わたしはその言葉に、また泣いていた。奇怪な視線や、にやついた笑みを与えながら学生がその場を通っていく。それでもわたしの嗚咽は止まらない。通りがかった親しい教授だけはわたしたちを見て、遠回りすべく踵を返してくれていた。

 わたしは、再び劣等感の塊になっていた。 
 この男の、矢神という男の前では、わたしはまるでかなわない。男性を拒否したわたしを動かし、演劇をしていたわたしを動かし、そして現在も動かし続ける、この矢神という男の前では。だいぶ落ち着きを取り戻したわたしを肩で抱き、路地を歩く矢神はわたしの劣等感など知らぬ様子で、わたしが落ち着いたことを素直に喜んでいるような表情だった。
 間違いなく、わたしは矢神を好いている。それを「愛している」など、飾った嘘の臭いがする言葉で表すつもりはない。ただわたしは彼を求め、必要としている。彼もわたしを求め、守ってくれている。
 それでも、奇しくも恋人である矢神によってよみがえったわたしの劣等感は、わたしを苛んだ。そう、わたしは特別に可愛いわけでもなく、どちらかというと可愛いかも、というぐらいの平凡な女だ。しかも突然泣き出すような情緒不安定で、こうして、寛大な矢神という男に支えられている。かつては拒んだ筈の、男性という存在に寄りかかっている……
 虚しかった。
 結局、女という生き物は男に頼らなければ生きていけないのか、などという誇大妄想さえ感じられる。女性の自立だとか、女性独自の表現といった、結局は男性に寄りかかっているものがすべて馬鹿らしくなった。わたしは矢神がいないとわたしになれない、それでも、矢神はわたしがいなくても矢神でいられる――ごく曖昧なわたしにとって、矢神という人間は絶対的な存在になろうとしていた。そして、その偶像を育てているのは、紛れもなくわたし自身だった。
「わたしに、絶対的な美しさでもあればいいのにね」
 突然発された言葉に、矢神は敏感に振り向く。矢神を動かした、という事実がわたしは可笑しくて、言葉を続けてしまった。
「すれ違った人が必ず振り返るような、絶対的な魅力。それがあれば、みんなわたしのことを認めてくれるのにね。どんな馬鹿な女だって、可愛ければ許してもらえるようにね」
 何を言い出すんだ? 矢神は不可思議そうに、わたしを見詰める。もちろん、演技の臭いはしない。しかしそれさえも感付かせない演技なのではないか、としかわたしは思えないままでいる。
「わたしは、ね」
 矢神の瞳を見詰めながら、わたしは続ける。
「わたしは、自分の吊り上がった目も嫌いだし、ちょっと出た頬も嫌いだし、厚い唇も嫌い。すぐにいじけちゃう自分も嫌いだし、嫉妬深いのに怖気付いて引っ込む自分も嫌い。そうやって、また自分で自分を嫌いになっちゃう自分が、大嫌いなの」
 言の葉は、まるでわたしの口を介して滑り出るように言葉となった。
 矢神に告白した時の感覚を、思い出す。あの時のわたしは、素直だった。まるで何も考えず、ごく自然に言葉が滑り出てきた。今もその要領で、言葉はわたしの意志とは関係なく溢れ出ている。普段から感じていた劣等感だけではなく、普段はそれほど重要視していなかったことさえも、自分を嫌いな要素として吐き出したかった。きっと苦手なお酒を吐いてしまうように、浄化作用を必要としていたのかも知れない。
 ひとしきり言い終えたわたしは、口ごもった。
 何て馬鹿な女なんだろう!
 わたしは、愚かな自分の発言を恥じていた。確かに劣等感の正直な露出は、そうすることで前向きな気分を取り戻してくれる。でもそれは同時に、自分の秘すべき、或いは守るべき部分――さながら陰部――を、晒しながら歩くようなものだった。
 しかし矢神は、そのわたしの瞳をじっと見詰め、微笑んだ。
「なぁんだ」
 そして安心したように息を吐き、
「全部、水無月のいいところじゃないか」
 わたしの頬に、くちづけた。
 水無月はさ、硬直したまま動けずにいるわたしに、矢神はやさしく語りかける。
「水無月は、水無月じゃないか。美しいとか可愛いとか、そんな相対的なことは関係ない。他人と見比べて、自分を卑下することはないよ。俺にとって、水無月は絶対的に水無月なんだよ」
 そうして、少し恥ずかしそうにうつむき、
「何より、水無月は水無月じゃなきゃ、俺は厭なんだよ」
 珍しく、頬を赤らめた。
 わたしは、矢神が自分に近い人間であると感じていたことを思い出した。似ている、そして再確認した。わたしにこの人が必要なように、わたしでも、こんなわたしでも、この人は必要としてくれるんだ。
 自然とわたしに、笑みがこぼれた。
「笑ったね」
 矢神が、いつの間にか取り出したハンカチでわたしの頬につたう涙を拭った。
「それでいい。ほら、いつもの猫みたいな水無月に戻った。俺にとってはこれが水無月だ」
 一拍置いて、
「俺の大好きな、猫みたいな顔した水無月だ」
 わたしの全身に、電流が走った。
 これは何だろう? 矢神を好ましく思う時に感じる、やわらかい喜びではない。かといって、今まで彼に感じてしまっていた恐怖や劣等感のような恐れはない。それでいて確実に、わたしは、彼を想っている。その想いがわたしを貫く電流となり、躰を、貫通した。
 躰の中心が、熱くなるのを感じる。
「抱いて」
 その言葉は、わたしの口から踊り出ていた。
 矢神は黙って、目を閉じ、わたしにくちづけた。
 このまま時が止まってしまえばいい、わたしは、恐れにも似た快感を、確実に感じ始めていた。

 それから後のことは、まるで夢うつつにしか憶えていない。
 無言のまま行き着いた矢神の部屋で、生まれて初めて、親以外の前で自らの裸を晒したわたしは、そのまま矢神に抱かれていた。体温。人の体温。今までこれほど密接に感じたことのなかった、矢神の体温。それはあたたかでいながらとても刺激的で、わたしを満たしてくれた。矢神はわたしの全身をやさしく撫でながら、僅かな湧き水をすくうようにして味わった。激痛。寧ろ、鋭く短い痛み。わたしの奥にある筋ばったものが切れてしまうような、鋭く短い痛み。うつろな目で見やると、矢神は血に染まった右手を見詰めていた。わたしの恥に染まった彼は、しかしそれを恥と思わず、激痛を和らげるようにわたしを撫でる。わたしの奥を撫でる。わたしを汲みあげる。無骨にくぼんでいる矢神の手は、いつしか手ではない何かに変わっていた。わたしは目をつむった。もはや痛みはなかった。ただ、満たされる気分だった。背中が突っ張るような感覚がした。まるで背中にネジがあって、それをキリキリと巻かれるような、痛みにも似た、痛みではないもの。引っ張られるような、巻き込まれるような、ふたつがひとつになる感覚。酸の香り。華の香り。麝香の香り。熱。部屋に響く音楽。暗い音楽。シドという人物の音楽。言葉。不協和音。和音。声。刹那。永遠。矢神。あなた。水無月。わたし。ふたり。ひとり。ひとつ……
 きつく躰を絡め合い、痛がっては、そして笑っていた。
 矢神によって咲いた、わたしという華は、彼に完全に染められた。何度も、染められ続けた。しかしそれも、わたしにとっては、幸福に思えた。全身に伝う脱力感が、今のわたしには、ひどく幸福に思えた。
 そしてわたしたちは、永遠とも思える間、くちづけした。

 その翌日のこと。
 わたしは、明らかに恥ずかしげに矢神のいるであろう美術部室を訪れた。昨日の余韻が残るようで、ノックする前から頬が赤に染まってしまう。扉を叩いてから声があるまで、わたしは、恥ずかしさと喜びが混じったような甘い感情に包まれていた。
「はいどうぞ」
 その早口の声は、矢神ではなかった。横滑りの扉を開けると、その部屋にいたのは見知らぬ学生だった。美術家に憧れる学生を絵に描いたような、長髪に口髭、痩せ型で神経質な顔立ちをしている。矢神に会うためにこの部室を訪れる際に、何度か見たことのある学生だった。
「あの、矢神、来てませんか」
 わたしは、矢神に感謝の言葉を告げたかった。彼に抱かれたことがなぜ、感謝であるのかは解らない。しかし嬉しかったのは事実であり、そうしてあらゆる劣等感から解放され、自由になった感覚を彼に伝えたかった。
 しかし応じた美術学生は、いかにも面倒臭そうな表情で立ち上がった。
「矢神? ああ……」
 ひょっとして水無月さんだね、美術学生はそう言いながら立ち上がり、油彩にまみれた白衣のポケットから紙切れを差し出した。
「これをあなたに渡してくれ、って頼まれてるんだ。僕は何も知らない」
 深刻な表情だった。
 厭な予感がして、わたしは慌ててそれを開いた。
 繊細な質の白紙には、力強い書体で、こう書いてあった。

「会えてよかった
 元気でいてね」

 全身から、力が抜け落ちる感覚がした。
 彼は? 矢神は!? そう問い質すわたしに、美術学生は背を向け、さあね、と両手を挙げた。わからないけど、彼はそう言いながら書きかけの油彩の前に座り直す。果物の静物画は三原色しか塗られておらず、ひどくいやらしく見えた。
「数日前から、旅に出たいなんてことは言ってたよ。まぁ、僕もみんなも矢神くんと交流が深かったわけじゃないから、彼がどうしていなくなったのかは知らないけどね」
 突然だった。
 すべては、突然始まり、炎の如く燃え上がったあげく、突然終わった。
 わたしは、ふらふらと、美術部の部室の中を歩いた。矢神がよく座っていた、イーゼルの前まで辿り着く。そこに立て掛けられたキャンヴァスには、布が掛かっていた。油の匂いがする。矢神も、わたしに対応した美術学生のように油絵をやっていた。しかしわたしは、彼がきちんと絵を描いているのを見たことがない。矢神が絵を描いている最中にわたしが現れると、彼はゆっくりと絵を隠した。何度も見せてくれるように頼んだが、矢神は、頑としてそれを受け入れなかった。描き終えないと、と矢神は言った。描き終えないと、絵には意味なんかないんだ。製作中のものを見せるほど俺は自信家じゃないし、中途半端なものを自分のものだと思われたくない。
 布が掛けられているということは、油は、乾いているのだろう。わたしは、さきほどの美術学生が自分を興味なさそうに、しかし気がかりに見詰める視線を受けながら、キャンヴァスにかかった布に手をかけた。脈拍が上がっている。心音が、生々しく感じられる。ここにはきっと、矢神が、矢神の代わりとなる何かが、ある筈なのだから。美術学生は気を遣ってか、いなくなっていた。わたしは弱々しくつかんだその布を、一気に床へと引っ張った。
 布を引き落としたそこにあったのは、
 油彩で描かれた、咲き誇る椿の群れ。
 燃え上がるかのように赤く、或いは薄赤く、花は咲き誇っている。しかしそれは単純に群れを描いたのみならず、その中の一輪、最も美しく、淡く咲く椿が、まるで首を切られたようにして、ぽとりと花を落とすその一瞬を描いた絵――絶対的な光景だった。何という言葉を用いても、その美しさと儚さは、永遠だった。綺麗だった。その絵が何を意味するのか、それとも意味などないのか、そんなことはもはやどうでもよかった。ただ、それは確かに、矢神の描いたものだった。右下に、走り書きさながらに、しかし力強く彼の名が残されている。そのキャンヴァスを支えるイーゼルには、最初に出会った時と同じくコーラの缶があった。そして彼の愛飲していた煙草“Camellia”の紙パックが置いてあった。何の花か解らなかったそれに描いてあったのも、一輪の椿だった。わたしはその煙草を手に取る。やけに軽い。見れば、中には一本しか残っていない。それを取り出したわたしは、黙ってくわえ、火を点けた。少し苦い。しかし、ほの甘い。なぜだろう、涙が止まらない。矢神の喪失が、まざまざと感じられる。自分を介助してくれると宣言した筈の矢神の、突然の喪失が。
 やがて焦げ臭い味になるまで煙草を喫い終えたわたしは、初めて矢神に出会った時のように、吸殻をコーラの空き缶に入れた。ジュッ、という短い音と共に、煙は立ち消えた。
 そして声もなく、わたしは泣いた。


(了)


inspired from 天野月子『シャロン・ストーンズ』
(2002年10月14日完成/原稿用紙51枚)


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