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シド・バレットという名の偶像


 さて。
 たまにはプログレを書かねば。ピンク・フロイドを書かねば。
 忘れがちですが、わたし、プログレッシャーでフロイド・ファンなのですよ。ときどき思い出します。
 そんなわけで今回は、シド・バレットのお話です。

 シド・バレット。本名ロジャー・キース・バレット。
 とかく「狂った天才」と言われて肯定意見しか出ない、ピンク・フロイド創設者。
「シー・エミリー・プレイ(エミリーはプレイ・ガール)」がヒットしたことから、ライヴでも新規ファンにその演奏を常に求められ、やりたい演奏ができず精神に異常をきたした。この構図は90年代の「『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』が売れたニルヴァーナで、暴走していったカート・コバーン」とまったく同じ。売れたバンドの宿命でもあるわけで。ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスもそう。
 その結果、シドは解雇されてソロを出し、その後亡くなるまで隠遁生活。カートは自死を選んだ。ともに周囲の視線から自分を避けて。
 どっちもシェイクスピアばりの悲劇なわけだけど、重要な違いは「シドは生き続けたことで、カートは亡くなることで神格化された」こと。たとえばフロイドがシド脱退で解散を選んでいたら、きっと神格化はされなかったのではないかと思う。「67年にこんなサイケなバンドがいましたよ」で終わっていて。
 フロイドがその後、成功したことでシドは神格化された。「初期はこんな天才がいたんだよ」と語られた。だからこそ、シドが生き続けていたことに仙人の存在を知るような幻想があった。そのおかげで、シドは伝説となったのではないだろうか。初期で解散していたら天才だ天才だ言われなかったに違いない。
 現に、中期でシドのイメージを乱用しまくったロジャー・ウォーターズさえ、こう言っている。
「バンドにとってシドは、最初はとても重要だった。シドがいなかったら、このバンドはないから。でも脱退後の4人になってからは、あまり重要じゃないよ」
 そうなのである。
 あれだけシドの幻影を作品にしておきながら何言ってんだ、という気持はないではないが、「ふわーっとして隙間だらけで空間的な、いわゆるピンク・フロイドの音楽」には、シドはまったくもって無関係なのだ。

 ここで、シドがやたら「天才」と言われることについて考えてみよう。
 ニック・メイスンによる1972年までのフロイド曲を演奏するバンド、ニック・メイスンズ・ソーサーフル・オブ・シークレッツ(略して「ソーサーズ」と呼ばれる)のメンバーが、こう語っている。
「進行やカウントだけで普通じゃない。それだけでも難しい」
 しかし、それでいてメロディはポップで耳馴染みしやすい。なのに決して演奏は容易ではない、常人では思いつかないフレーズや演奏らしい。らしいと言うのは、僕がそういったことに明るくないためです。ううう。
 しかし音楽的無知な人間にも通じるポップさと、歌詞の独自性。それがマッチングした言わば「屈折したポップ・ソング」がどんな人の耳にも残る。その作曲能力が天才たるゆえんなのかもしれない。
 けどね。
 精神に支障をきたしてから、シドの書く曲は一気に危うくなった。ソロの楽曲はおしなべて朴訥で陰鬱。バンドで最後の楽曲となった「ジャグバンド・ブルース」がその臨界点だった。
 転じてソロにはポップな曲は少なく、ポップであってもひねくれ度合いが過激に上昇。気安く名盤だの名作だの天才だのと呼べない、はっきり言えば「好きでもない人にはまったくピンとこない」ものになっている。ウチの奥さんに聴かせたら間違いなく「気持悪いから止めて」って言うよ。
 でもね。
 人間って、よくわからないものを称賛するよね。具体的に「これこれこういう部分がすごいから天才」ではなく「理解できないから天才(扱い)」っていう。
 シドもそうなんじゃないかなぁ、なんて思う。特にソロを聴くと。どの作品もプログレ好きやヘンテコ好きには聴けるけど、ヒット・チャートの曲を耳にしている一般人におすすめできる内容ではない。
 だからはっきり言おう。

「シドが天才なのではなく、周囲がシドを天才に仕立て上げた」
 ということを。

 シドが神格化されたのは、そうした初期の悲劇が発端。しかしそれはあくまで発端で、シドの偶像を彫っていったのは、他ならぬロジャーだ。
『狂気』でシドをイメージして世界観を作り上げ、『炎~あなたがここにいてほしい~』では惜しみなくトリビュート。あげくシドの幻影から脱却しようとした『アニマルズ』はうまくいかず、続く『ザ・ウォール』ではシドを物語の主人公「ピンク」のモティーフにしている。それで気が済んで自分の父親を持ち出してバンド脱退という展開になるわけですが。その時代の作品の3/5がシド絡み。使ったなぁ。
 僕はロジャーを「言論武装する劣等感のカタマリ」だと思っているのだけど、それらがまさに、劣等感の具現化。ずっと前のメンバーでしかないのに「シドには決して敵わない」と思い続け、こじれにこじらせて作品化してしまった。しかもその3作とも名作と呼ばれるクオリティで。となると代表作になるから収録曲を延々演奏し続けていくわけで、そのたびにロジャーはシドの亡霊につきまとわられている。劣等感をくつがえすためにシドを利用し、結果的にシドから逃げられなくなっている永遠の袋小路。君はキング・クリムゾンで言う「フラクチャー」とか「スターレス」か。インプロ至上主義が枷になるという、ね。
 一方で、デヴィッド・ギルモアは楽曲至上派。エンタテインメントとしてあっけらかんと演奏する。だからシドへの思いが強いとは思えないし、たとえばベスト盤『エコーズ~啓示~』で「シドに印税が入るよう、シドの曲を多く収録した」と発言しているものの、それが友情とか温情ではなくビジネスだと感じる。そのため自分が加入する前の「天の支配」や「アーノルド・レーン」、さらにはシドのソロ曲「暗黒の世界」などを演奏するのも、サーヴィスでありエンタテインメントの一環に感じてしまう。
 でも、その両者の行動が相まって「ロジャーもデイヴもシドをトリビュートしている」と思わせているように感じる。でもきっと、ギルモアにはそんな気はないと言ってしまおう。だってギルモアだもん(笑)。

 思えば、残ったピンク・フロイドは劣等感のカタマリみたいなものである。
 ロジャーは天才シドにも凡人・ギルモアにも勝てない、秀才としての劣等感。
 ギルモアはシドの後釜で、何をやっても後輩で格下扱いの劣等感。
 リックはバンドへの貢献を認めてもらえず、復帰後は参加させてもらっている劣等感。
 ニックはソングライティングにほとんど参加できない劣等感(←実は一番ミュージシャンらしい)。
 その劣等感の根本は、シド・バレットという存在。きっとシドにとっては普通なのに、まずメンバーがシドを畏怖し、語り継ぎ、奉り、シドの偶像を作ったわけだ。

 他にもシドが神格化された理由として、有名ミュージシャンがシドを好んだという部分もある。
 たとえばポール・ウェラーはザ・ジャム時代に「シドのような曲を書きたかった」と発言し、T.REXのマーク・ボランはシドに憧れてカーリー・ヘアにした。ダムドはシドにアルバムのプロデュースを依頼したものの果たせず、結果なぜかニック・メイスンが担当して解散のきっかけとなる『ミュージック・フォー・プレジャー 』をリリースした。
 ダムドの逸話は有名だけど、これって1977年の話。つまり、シドが「とっくに違う世界に行ってから」のこと。現況がわかっていればプロデュースを頼めるわけもないし、できるわけもない。でも「あのシド・バレットのプロデュース」というハクを欲しがったのだろうから、その頃からすでに偶像視されていたのだな。ちゃんと現実を知っていれば頼むわけがない。知ったうえで依頼するパンク精神なのだろうけど。
 しかし、決定打だったのはデヴィッド・ボウイによる「シー・エミリー・プレイ」のカヴァー。1973年発表の『ピンナップス』に収録され、同時期の『狂気』で入った新規フロイド・ファンに初期への関心をもたらした。2000年代になってからギルモアのライヴに参加して「アーノルド・レーン」も歌っている。時代を越えてフロイドの過去を現在に近づけた影の功労者なのだ、ボウイってば実は。
 そうなると自然、デヴィッド・ギルモアがどういうつもりでシドの曲を演奏していたのかが気になる。楽曲至上派のギルモアのこと、あまり考えずに話題性でそうしただけかもしれないけど、その演奏が「セルフ・カヴァー」なのか「トリビュート」なのか、その姿勢が気になる。
 たとえばロジャーがシドの曲を演奏することがあれば、それは間違いなく「トリビュート」になるだろう。でもギルモアは……たぶん深く考えていない(笑)。だからこそ一大エンタテインメントのライヴ『p・u・l・s・e』期でも、やすやすと「天の支配」を選曲してしまうのだろう。やはり話題性の一環で。だから深刻にならず楽しめる。
 そこへいくと、ニックのソーサーズも聴いていて楽しい。シド曲だどうだと悩むことなく、純粋に演奏として楽しめる。それはきっと、こじれた感情がなくて純粋な演奏だからだ。さすがニック。唯一のフロイド全史在籍メンバーにして、全員と仲がいいのはダテじゃない。

 さらに拍車をかけるのは、シドのソロ作品タイトル。
 原題が思わせぶりなのは実はファーストだけなのだが、邦題がどんどんシドの幽玄さ増強を目論んでいる。

・The Madcap Laughs →『幽玄の世界』→『帽子が笑う…不気味に』
 ファースト・ソロ。名作とされるがひたすらダウナーで暗く内省的で、救いも何もない。もはや世界が違うと感じさせる。
 ブッ飛んだ原題を独自解釈した旧邦題も、直訳に近づけた現在の邦題も「シドのイメージ」を濃くした。この功罪は大きいぞー。

・Barrett →『シド・バレット・ウィズ・ピンク・フロイド』→『その名はバレット』
 セカンド・ソロ。あまり語られないがポップになった傑作で、デヴィッド・ギルモアとリチャード・ライトも参加。おかげで少しフロイドっぽさを感じる。
「まんま」な原題をフロイド2名が参加しているためにその威力を借りようとした旧邦題、ストレートにしたけど少しひねった現在の邦題。シドのイメージを尊重して担当者がこじらせているのは間違いない。

・Opel →『オペル~ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット』
 未発表曲で編まれた事実上のサード・アルバム。過去曲のアウトテイクも多く含むものの、決して「ベスト」ではない。
 曲名だけの原題に対して、アウトテイク集なのにわざわざ「ベスト」を冠した邦題。これは望んでいる購買層があるのにベスト盤が編まれなかったことへの担当者の恨みにさえ感じる。こじれてるなぁ(笑)。

・The Madcap Laughs & Barrett →『何人をも近づけぬ男』
 ファーストとセカンドを「2 in 1」したもの。
 原題はストレートなのに……邦題、どうしてそんなにこじらせるのよ(笑)

・Crazy Diamond →『クレイジー・ダイアモンド』
 ソロ3作をまとめた、いわゆる「当時の全曲ボックス」。
 こじれてはいないが、このタイトルをもって「狂ったダイヤモンド=シド・バレット」であることを公的に認めたことになる。いくらロジャーが『炎』を「一般的な人のことで、シドのことじゃない」と否定しようとも。

・The Best of Syd Barrett: Wouldn't You Miss Me? →『ぼくがいなくて寂しくないの?』
 初のソロ公式ベスト。未発表曲「ボブ・ディラン・ブルース」収録。
 邦題は収録された曲名の邦題そのままなのだけど、タイトルに持ってくるとこじれます。ええ。

・An Introduction to Syd Barrett →『幻夢 オールタイム・ベスト・アルバム』
 フロイド時代から通してのベスト。LPはなかったものの紙ジャケ化もしている。
 これも邦題が「勝手にシドのイメージを増幅」している。するっとまとめて。がんばったねディレクター(←勝手に称賛)。

……いやー、実にこじらせてるねぇ。担当者。
 こうやって邦題でプログレッシャーの心をこじらせたことは間違いない。だから聴いたことがない人でも「怖ッ」と思ってしまうことは間違いないだろう。中身は基本的にアシッド・フォークなんだけど。


 まとめてみると、シド・バレット自体や楽曲は、決して「いわゆるシド・バレット像」を作っていない。理解できないけど、こじらせていない。
 ロジャーが偶像を作って屈強に彫っていき、有名ミュージシャンの逸話がそれをコーティングし、何も考えていないギルモアが演奏することで重みを持たせる。さらに日本ではディレクターが一方的にこじらせる。
 みんな「偶像の責任者」なのだ。シドに謝れ!(笑)
 しかし当人はそんな世間の風評など、どこ吹く風。隠居して無関係の世界で静かに暮らし、静かに旅立った。自分が築き上げた「ピンク・フロイド」がまるで違うバンドになっても、まるきり無関係。
『炎』のレコーディングにフラッとやってきてロジャーの心情にトドメを刺して、そのまま表に出ることなく消えていった。
 そう、シドは『炎』のレコーディング中、まるで別人になって現れたというエピソードがある。となるとロジャーは、奉ろうとしている人物のまさに現在であり現実を目にしたはずなのに、シドをトリビュートした『炎』をそのまま作り上げたわけだ。むしろバキバキ増強して。
 それって「現実から目を背け、昔しか良しとしない」ってことじゃないだろうか。俺のシドはこんなヤツじゃない、この曲で表現するのがシドなんだ……と。つまりロジャーは、自覚しつつシドの偶像を作り上げたわけだ!
 やはりシドを神格化した主犯は、ロジャーである。自分でやってるんだから永遠に取り憑かれるわ、そりゃ。
 なむなむ。

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