奈良を誇れる街に

小さなころ、私は近鉄バファローズの帽子をかぶっていた。
祖父にもらった帽子。近鉄沿線。身近な球団として自然と応援していた。

近所のお兄さんの長ズボンのジャージにあこがれて、
小学校4年生でミニバスに入った。
マンションの広場を練習場に、バスケ経験のある母によく教えてもらった。
NBAなんて知らなかった。

1985年。小学校5年生だったと思う。阪神タイガースが優勝した。
私が通っていた奈良の小学校でも、教室中が沸いていた。
手作りの木工のパズルにも阪神優勝の文字が入っていた。

6年生のミニバスの終わり、背も小さくてうまくもなかった私が、
チームの成績のおかげで県選抜に選んでもらった。
何一つプレイのことは覚えていないが、初めて「奈良」を意識した。

中学1年。父の転勤で横浜に転居し、横浜の中学校で1年間プレイした。
上手いねと褒めてもらえたときにも、母校や奈良を少し意識した。

その翌年に奈良に戻り、奈良の中学で楽しいバスケを堪能したのち、
高校でバスケをやめた。いろいろあってバスケは好きではなくなっていた。

大学生活や結婚、就職を経ても、特にバスケとは縁がなかった。
仕事も楽しかったし、子どもと過ごす時間が大切だった。
変わらず奈良は好きだった。
でもスポーツで好きだったのは、別の街の球団だった。
息子の小学校で配布されるチケットも
オリックス・バファローズの無料招待券だった。

子育ても落ち着いてきた頃、ボランティアという活動を始めようと思った。
生まれ育った街の何か役に立つことをできればいいなと。
ただ、当時の私には福祉や教育などのボランティアは荷が重かった。

その折、友人が教えてくれた。
「奈良にバスケチームができるらしいよ。ボランティアも募集してるよ。」
これならやれるかな、と思った。登録だけ、してみた。

登録した後も、活動にはなかなか参加できなかった。
そんなことをしているうちにバスケチームの名前が決まった。

「バンビシャス奈良」 バンビよ、大志を抱け。

はっとした。

今まで応援していた球団は、地元球団ではなかった。
奈良に球団がないことを、何の疑いもなくあたりまえだと思っていた。

初めて見るプロバスケットボールの試合に興奮した。
当時はまだ、選手たちとの距離も近かった。
試合ごとに会場に足を運び、観客やスタッフと接しながら、笑顔を見るのが本当に幸せだった。

いつの間にか、自分の中で、週末のもうひとつのホームになっていた。
活動を通じて、知らなかった奈良の会社を沢山知った。
このチームがなかったら、絶対に出会わなかった人たちと出会いまくった。

「奈良を誇れる街にしたい」
この言葉だけに共感し、ボランティアとして活動してきた。

バンビシャス奈良ボランティアの「ボラバス!」もその活動のひとつだ。
バンビシャス奈良に関わる全ての方、奈良の老若男女関わらず全ての方に、
バスケという楽しさを知ってほしい、思い出してほしい。
そんな思いを紡ぎながら、今も活動を継続していただいている。

ボラバス!があって、私も数十年ぶりにバスケットボールを手にした。
体育館の独特のにおい、バッシュの床を切る音、反響する打音、
体育館に入ると、足の裏からじわっとワクワクが脳天に伝わる感覚がある。

スポーツは人を幸せにするチカラがある。
ひたむきな選手に声援を送ることが、自分へのエールになる。
応援するチームが充実した結果を残したとき、なぜか誇らしくなる。

奈良の多くの方の日常に、バンビシャス奈良という場が根付いている未来。
おはよう、のあとにも。
ランチの最中にも。
マチナカですれ違ったときにも。
夜の席でも。
寝る前にも。
夢の中でも。

365日。バンビシャス奈良で街を元気にしたい。
奈良を誇れる街にしたい。
「奈良といえば?」
大仏さんと鹿とせんとくんに頼りきりにならないように。

バンビシャス奈良があるその先には、優勝でもなく、昇格でもなく、
全ての奈良に関わった方が、誇りをもって奈良で過ごせるような。
つらくなったときに寄り添えるような。
そんな存在であり続けて欲しい。

そのために、私はバンビシャス奈良を応援し続ける。

バンビシャス奈良ができた翌年の小学校の夏休み展示。
将来の夢、をテーマにした粘土作品の中に、力強くボールを片手に高く跳ぶ
「バンビシャス奈良の選手」という作品があったとき。

バンビシャス奈良が存在する意義と意味は、未来にあるんだと確信した。

近鉄バファローズの帽子をかぶった私がいた、あのときと全く違う。

共に、奈良の未来をつくるために。
私たちの誇りを失わないために。
バンビシャス奈良はあり続けなければならない。


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