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【どうにもならんので、この機会にみんな観ているのに僕だけ観ていない映画を観るシリーズ(5)】

『お葬式』(1984年/日本)
※ネタバレ超注意
実は伊丹十三の体験がごっそり抜けてしまっている。一時は「邦画はドラえもんと伊丹十三が支えている」とまで言われたというのに。まあ、この映画が公開されたのは僕が14歳の頃。中学生男子に刺さるとは思えない題材、しょうがないか。
いざ観てみると、お前は何様なのかと言われると思うが、上手すぎる映画で唸ってしまう。
画づくり。ことある毎、スタンダードサイズの画面に、多くの親戚、弔問客――登場人物たちが密集する。その配置が絶妙なのだ。逆にこの効果を出したいがために、伊丹監督はスタンダードを選択されたのでは、と思うほどだ。
お通夜は大雨。葬式の当日は晴天で大風が吹く。天気も安定しない。
決定的なのは、山崎努演じる井上侘助が愛人と野外で交渉中に、宮本信子演じるその妻・千鶴子は庭の丸太でできたブランコをこぎ続けている。彼女にその行為が見えているのか。いや恐らく分かっているのだ。表情も変えず終始無言。ブランコのギィギィ言う音が響く。理屈は要らない。これが映画だ。
このシーンやカツサンドを渡すためのカーチェイスなど、誇張されたコミカルな場面が散見される。リアリティを欠いているのでは、という意見もあるだろうが、私的にはこれらに匹敵する場面にも遭遇した。日頃会わない人間が一つの場に集まる。酒も入る。日常では起こり得ないことが起こるのだ。

侘助は遺体と対面して「ちょっとこの耳のあたり、色が変わりかけてるな」とか、執拗なほどに物事を客観視する。彼が全編ナレーションを担当しているのもそういうことか。しかし、最後の挨拶が近づくにつれ緊張を隠せない。故に彼は葬式のHow-toビデオを繰り返し鑑賞し、準備に余念がない。つまり彼は小心者なのだ。僕にも身に覚えがあるところだ。

他の葬式はどうなっているのか、ちょっと落ち着いたので『お葬式』を観てしまうなど、我ながら単純にもほどがある。
この映画で描かれたような親戚・近隣・関係者が一堂に会する形式でも、昨今主流になっている家族葬でも、その本質は変わらないようだ。
日常の延長にある、少し不思議な現実。

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