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名前のポリティクス - アパルトヘイトとイングリッシュネーム

私のパートナーは、南アフリカ国籍をもっていて、母語はXhosa(コサ)語ですが、英語の方が得意。

義父は東ケープ州のウムタタという街に住んでいる。
そこには実は「ネルソン・マンデラ博物館」があのですが、何を隠そうウムタタは彼の故郷のすぐ近くだから。

今日は少し、アパルトヘイトの記憶について書きながら、旅の心得について記してみる。

アパルトヘイトは、歴史ではあるが極めてフレッシュな記憶

「アパルトヘイト」という言葉は、アフリカに詳しくない人でも、聞いたことがある人が多いと思う。

南アフリカで1994年まで実質的に遂行されていた、悪名高い人種差別/人種隔離政策だ。

1994年に、ネルソン・マンデラが大統領になったタイミングが「民主化」と言われているが、その選挙が南アフリカで初めて全国民が投票権を持つことができた選挙だった。

それまでは、初めにオランダ系の人が南部アフリカに来て、鉱山が見つかった後にイギリスが植民地支配をした歴史の後、”植民地支配の終焉”と共に、イギリス人よりも早くきたオランダ・フランスあたりからのヨーロッパ系白人が政治権力を握り、人種差別的な「アパルトヘイト政策」を進めてきた。
”植民地支配の終焉”と書いたが、非白人の南アフリカ人にとっては、それは終焉とは言えず、アパルトヘイト政策は、植民地主義的な思想による人種差別的な理解によるものだと批判されることが多々ある。

アパルトヘイト時代の政策は、複雑で時代によっても変化があるのだが、人種ごとに居住地が分けられ、選挙権は白人のみ(後期には、非黒人の有色人種には先に選挙権が与えられた)、教育も黒人に対してはバンツ教育という限られた教育しか与えられなかった。職業も、いわゆるホワイトカラーの色は白人しかつくことができない。公共のあらゆる場所が「白人」と「非白人」で分けられていた。非白人が白人専用のエリアや白人居住地に入るときは、常にIDの所有が義務付けられていた。


数年前になるが、日本人で南アフリカでビジネスをやるためにやってきた人が、50−60歳くらいの黒人南アフリカ人が、アパルトヘイトの影響について話そうとしたとき、「私は、アパルトヘイトとか歴史については詳しくない、あまり知らないんで・・」と言うまでは良かったが、そこから学ぼうとせず話を遮って話題を変えたことがあった。

そのときはそこまで深く考えなかったが、今振り返って、それはすごく残念なことに感じる。

アパルトヘイトが終焉したのは94年、ちょっと前のことで、まだ多くの人がアパルトヘイトを自身の生々しい経験として記憶している。
ましてや変革の時期は「平和的に」終焉したと言われてはいるものの、多くの人が命を落とし、国外に亡命を余儀なくされた。

「アパルトヘイトのこと、よく知らないんで」と知る意欲すら見せないことは「あなたの過去には興味がありません」と言っているようなもの。
そして、その残り香は、残り香以上の影響力を持って、今の南アフリカ社会にも色濃く残っているように感じる。

それは、自分達がどの立場からこの南アフリカ社会に向き合い、関わっているかによっても、気づくか否かは変わってくるとも思う。

今日は、アパルトヘイト解放運動に直に関わった、義理の家族との対話を通して感じたことをつらつらと書いてみる。


ANCのメンバーだった義父と、亡命した親戚たち

私の義父は、ウムタタに住んでいる。

ネルソン・マンデラWikipediaページを見ると、マンデラとウムタタが強いつながりを持っていたことがわかると思う。アパルトヘイト抵抗運動の大きな拠点の一つだった。
アパルトヘイト時代、黒人の人々で教育、特に高等教育にアクセスできた人はとても限られていた。ネルソン・マンデラをはじめ、一握りの、特にウムタタのある東ケープ州にいた人たちは、幸運にも大学教育にアクセスでき、そのうちのどのくらいの割合かは分からないが、アパルトヘイト解放運動に関わった教育を受けた黒人南アフリカ人を産んだ。

私の義父のその一人である。義母は、そこまで政治に関わった話は聞いたことはないが、彼女のクラン名(一族の名前)はマディバであり、ネルソン・マンデラと同じである。(ネルソン・マンデラの愛称は、そのクラン名から「マディバ」である)遠い遠い親戚といったところにいるので、当時の黒人インテリ層やチーフと近い位置にいたようだ。

義父は、表立って反アパルトヘイト運動をすると、牢獄に入れられた時代に「カトリック・キリスト教学生団体」という名目で学生組織を作り、抵抗活動に従事したという。
大学という場に幸運にもアクセスできたことで、植民地支配を批判的に見て、キリスト教を使って支配された歴史、自分達の土着の信仰を見直すきっかけになったそうだ。

その活動の中で、友人の中には警官との衝突で亡くなった人も多いと語ってくれた。また、身の安全を確保するために国外に亡命しなかければいけなかった人がたくさんいる。

私も、私のパートナーも、ちょうどアパルトヘイトが終わった頃に生まれている。彼の従兄弟たちの多くもそうだ。彼の従兄弟の中に、チラホラとベルギーなどのヨーロッパ生まれの子がいるのだが、多くはその両親がアパルトヘイト抵抗運動で亡命していたので、亡命先で生まれたという。
彼らの多くは、2023年現在、20代後半か30代前半の人たちだ。

確かにネルソン・マンデラは、ノーベル平和賞を受賞したが、アパルトヘイト終焉には、多くの人の命をかけた抵抗運動と暴力の歴史がある。

コロナ前に、日本人の団体とヨハネスブルグにある「アパルトヘイト博物館」に何度か行ったことがあるのだが、訪問者の一人が「(博物館の映像を見て)アパルトヘイトは思ったよりも暴力的で驚いた」と言ったのを思い出す。虐殺や強姦もあったし、カウンターとしての暴力もあったのだ。

これが生々しい、リアルな記憶ではなくなんだというのだろうか。

名前のポリティクス

こうしたアパルトヘイトの記憶は、トラウマとなって今でも残っている。

こんな小さいことをなんで気にするの?
と、思うこともあるかもしれないが、大きな背景を理解すると、南アフリカのことがもうちょっとわかるかもしれない。

例えば名前。
都市部の南アフリカ人に会うと、多くの人があなたの名前を正しく発音しようと努力してくれることに気づくと思う。
日本人の名前は、発音しにくいこともあるだろうに、省略しないで発音しようとしてくれる人が多い。

それにもアパルトヘイトの影響があるように思う。
アパルトヘイト下で、白人に雇用される人たちは、大の大人でも「ボーイ」と呼ばれ、雇用主を「ボス」「マダム」を呼ぶことを強要され、アフリカ系の名前は(ヨーロッパ系の南ア人にとって)発音しにくいという理由でイングリッシュネームに変えられた。当時、白人の職員によって登録されたアフリカ系の名前のスペルが間違っていて、今でもその本来とは違うスペルで生活している人にもあったことがある。

アパルトヘイト抵抗運動を主導した人の多くも、イングリッシュネームを持っていることに気づくだろうか?ネルソン・マンデラ、オリバー・タンボなどなど。その年代のアフリカ系の南アフリカ人の多くは、アフリカ系の名前以外に、「白人政権のもとで、白人の雇用主に覚えてもらうための名前」を持っている。

アパルトヘイト後に生まれた子には、それがないことが多いのだ。権力を持っているグループが発音しにくい、という理由で名前を変えざるを得なかった時代との決別を意識しているように感じる。

同じように、日本人である私の名前を、省略しようとする人に、南アフリカではあったことがない。カナダで英語を勉強したときは「Yukakoって長くて言いにくいね・・・短いニックネームないの?」と先生に言われた記憶があるが、南アフリカ(特に都心)では、タブーとされている感がある。

同様に、ボーイやボスといった言葉を使うことにも、少し気を使うと良いと思う。

都市と地方の違い

とはいえ、南アフリカと一言で言っても広い。

南アフリカの経済の中心地、ヨハネスブルグで生活をして、大学に行っている限りは、こうしたリベラルで他者の文化を尊重する機運を感じていたのだが、それもエリアによって異なるようだ。

先日、国立公園や自然保護区のあるエリアに行ったのだが、そこで働く多くのアフリカ系南アフリカ人は、イングリッシュネームを使っていた。
おそらく、そこでの雇用主の多くはほぼ100%白人という構造が変わっていないのと、観光客の多くがヨーロッパなどの西洋諸国からきていることが要因としてあるかもしれない。

それでも、ある程度の期間南アフリカに住んで、抵抗運動の痛みを聞いていた。制服に刺繍で記されたイングリッシュネームを見ると、少し心が痛んだ。

パートナーに意見を聞いたところ「就職するために、そうする必要があるんだろう。」という。
「ヨハネスブルグくらいになると、雇用主の人種もある程度多様になってきたし、名前がハンデになることは少ない。けれど、産業が限られた地方の州であれば、将来の就職のために、子どもの頃からイングリッシュネームを意識して使う親もいるかもしれない」

そんな南アフリカのアフリカ系(黒人)の失業率は、30−50%にのぼる。この数字にも人種間に大きな違いがある。


今を知るには、過去を知る

ちょっと細かい話になってしまったけれど、新しい場所に訪れた時、その地の人がどういう記憶や歴史(個人のものでも、グループのものでも、国家のものでも)を背負って生きているのか。

そこにちょっと意識的になるだけで、社会の解像度がグッと上がると思うのだ。

新しい場所に訪れる時、それが短期でも長期でも、国内でも国外でも、街でも人でも、ちょっと時間軸を超えて、その人から見た世界に触れるように旅することが、私のモットー。


それでは、今日はこの辺で寝ます。
また!

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