MOOSIC LAB所感③荒木洋航『さよなら、ミオちゃん』における顕現の問題

 さて最後に書いておきたいのが、我らが街札幌でロケられたという『さよなら、ミオちゃん』映画版です。僕は寡聞にして彼らの楽曲を知らないのであるが、映画はどうやら彼らの旅立ちについての応援歌でもあり、別れということでは決別の峻厳な決闘を描いたものであったようです。つとめて意味不明に(というのは見せかけで、難しく、つまり現象を正しく真摯に扱うように)書いて参りたいと思います(長文はそれ自体門であり、読者を識別するのに役立つ)。

 まず『札幌篇』と『東京篇』のどちらが好きか?という問がありました。コメンタリー付きの『東京篇』も鑑賞しましたが、札幌的映像デコード(夢チカ等)が無いとわからないというわけではなく、余計な部分を省き、強調すべき点を強調すべく再編集された『札幌篇』が優れていると思われます。そして明らかにこれがローカルな場所から生じたものだということを分かり易く提示するためにも『札幌篇』が最適です。『東京篇』は悪しき意味での映像詩であり、悪しき意味で音楽的ですが、『札幌篇』はジンギスカンという感じでよいです(付けタレよりも、ベルで行きたい俺は、くっさいヒツジの肉を荒々しく味わいたいのだ)。

 『札幌篇』は、『東京篇』という音楽に歌詞が付きました。だからいいのです。それが都合2回、エンディングでまとめて反復される詩です(繰り返さないとリフレインしないので、歌詞になりません)。つとめてツイート的に映画の中で現れるミオちゃんのセリフですが(皆、わかっていますか? ミオちゃんが画面にいる時間はとても少ないのですよ。これが何を意味しているのかわかっていますか? あまり言いたくないのだけれども、ある種のフィクションを生産する僕の文章では、現実をクリアにするためにあえて言うのですが、夜道さん本人もこの点をどう理解しているのか。僕はその点も含めて彼女の若さというか、『ドキ死』的なやってみよう感があって大変よいと思いましたし、色々なことがあふれてきて笑ってしまいました。はっきりどういうことか述べますと、映画内でミオちゃんが「万能」であることは描かれておりません。蓮見重彦以後何年経っているのでしょうか。「万能」であることは描かれるどころか示唆もされていないのです。かろうじてそれを覆い包むのが『札幌篇』の冒頭、バージョン違いの映像、「演じている」という狂気に片足突っ込んだウェブカメラの前での、即興する夜道さんの映像なのではないでしょうか。これが極めて残酷な意味で瞬間的で持続しないリトルネロの発露と消滅、ある種の永遠への扉でもあり、扉であるということは同時に行く手を阻む映像、コマであります。このように瞬間的に即興しているという意味で、受動態としてある種の「万能」であることが担保されたということなのか、ひとまずそうしておきましょう。しかしこれは映画内の時間ではなく、彼女が実存として(!)配信するウェブカメラの映像であるといいます。映画内のミオちゃんがこういう活動をしていたということでも事態は同じです。多重化されていますが、ミオちゃんの「万能」はvirtuel、ヴィルテュエルなもの、つまり潜在的なものでしかなく、そこに留まるということです。まるで彼女の未来のよう。つまりはまだ未分化であるがゆえ「万能」ということでしょう。そうでなくて、本当は万能なのは音楽ですけれども)、最後に詩がまとめて出てきた時に、タイムラインを追うようにして、彼女の本心を読み取れるのかと言えば違います(そもそもタイムラインを追っても同様にそれは不可能です)。あまりにもそこに彼女が開示されているように思えるが、それはただ開示されたものが開示されているだけの話で、彼女の本質、彼女の心根、彼女の気持ちをイデアチオン(つまり複数の赤色を認識した時に、異なる赤に同じく「赤」と言うときの「赤」を本質と言い、その赤を認識することをイデアチオン=本質直観と言います)しようとしても失敗し、彼女は行ってしったということが繰り返し明らかにされることになります。映画の縦糸(まさに縫い糸が、少し現れては、消えて裏地において働きを為すようにして、また消え去る)はこの通りです。彼女が行ってしまうのは、それは、さよならミオちゃんが全国ツアーに行くからです。バンドをめぐる映像が映画のいわば布地です。

 また、詩があることで、ミオちゃんは『害虫』の最後のように、どうやら男の車に乗っていることが『東京篇』よりも分かり易く示唆されていると思われます。とても意地悪だけれども残された我ら、仕方がない感慨です。ハイ、彼女は行ってしまった。バンドはツアーに出る。では札幌では何が「本当は」起こって/怒っていたのか?(つまり最も鮮やかな部分、布地の上に展開された模様、すなわち映画は何が映っていたのでしょうか)。

 札幌ではミオちゃんが八方美人していただけ(描かれているのはこの意味での「万能」感である。しかしこれは恋をする、何かを表現する、つまり何がよくて、何を実現するのか、そして何が悪くて、何を非存在のままにするのか、という普遍的な問いかけを彼女があらゆるレイヤーでしてきたということでもある。これは彼女の問というよりも、各々の問であったはずだ。メロドラマでは「家庭と私」、社会的エートスにおいては「仕事と家庭」、夢と現実においては「私とバンド」(『下鴨~』と同じテーマですね)、この二項対立のどちらが大切なの?というお決まりの修辞疑問文! これは物語を展開させる問、二項対立の「万能」感、そして物語を進展させるのはその問が崩壊することによって、問題が問題とならなくなるということでもある exウィトゲンシュタイン)ということが明らかになって、人々がおかしくなっています。そして、それに振り回された二人の人物の活躍が、ドラマのほとんどを占めることになります。つまり画面に映っていたのは、ほぼこの人物たちのお話ということであります。これが重要な点です。彼らこそ画面を支配していた。もう一度言いますが、ミオちゃんの「万能」感は描かれておりません。またミオちゃんのファムファタル性も描かれていません。それはミオちゃんのリプを自己愛的に解釈した人々が抱いている感覚であることは予期されますが、ミオちゃんが自ら悪辣なことをしていろいろな人を手玉にとった描写などないのです。その点でミオちゃんは無垢・無罪ではありますし、夜道さんはそれを演じきったのでしょう。あるのは音楽と、おっさんとダンサーの怒り、そして狸小路での解放の爆走/踊りです(そして確か、彼らにはミオちゃんからの問いかけはなかったのではなかったか?)。

 おっさんはミオちゃんのドタキャンによる超過労働の末、崩壊します(どうやらミオちゃんは音楽と同じく節操がないので、聞いてしまった人と否応なしに関係を取り結んでしまいます。なのでこの男性にも素敵に励ましの希望となるようなリプを送っていたようです。そのリプをおじさんは大切にしていたのですが、それにあまりにも強迫的になっており、炎上してしまいます)。もう一人は札幌の祭の裁定者と思しき九十九レイナさんが演じたダンサーで、彼女はミオちゃんの代役を頼まれるのですが、彼女はもちろんミオちゃんじゃありませんので、代わりできませんしやりたくありませんし、そのことに憤慨します(赦せん!)。舞台はどうなったやら(多分ポカして)、街へ繰り出すことになります(つまり映画はミオちゃんではなく、ミオちゃんの代理ではない彼女を追って街へと繰り出すことになります)。
 

 おっさんは(経営者が、婿でありミオちゃんの相手と思しき家庭持ちの人物を店長に据えたっぽいので、バイトに降格となっていたという、非常に馬鹿馬鹿しくも渦中において禍災をすべて背負った映画の底辺=悪魔の位置にいる人物ですが)バイトをブッチする悦びのダッシュを決めます。おっさんは抑圧していた怒りを解放した。他方ダンサーはいろいろどうでもよくなったのか、狸小路で自分のダンスを見出して踊りだします。それは、道のブロックの肌理や、往来する人々との距離からもたらさせるアフォーダンスに従ってなされた「世界=現実」の音楽、街:札幌との戯れ=踊りであった。この二つが対位法的に結ばれているので、映画はカタルシスを発揮することができている。ミオちゃんがいなくなっておっさんがブチ切れるだけでは、ただの混乱、否定性の発露でしかなく、そんなの誰も見たくありませんし、ツアーへの意気込みが挿入される隙間を見失う。しかしこの混乱が同時に「世界=現実」であることを示すためにダンスは絶対に不可欠であり、このダンス抜きに映画は成立せず、むしろこのダンスだけが映画のカタルシスを支えている肯定的表象なのだ。それを演じる際、街の中で踊るという現実のシチュエーションがそうさせたのであろうが、彼女のはにかみが、次第に笑顔と言って差し支えないだろう表情に移り変わっていくとき、札幌は確かに存在し、我々はそこに住んでいるということが、こんな風に寿がれるのだ。この街に住み着き、この街で表現をするということはどんなことなのか(表情と言えば、ミオちゃんの表情は映画を通じて変化があまりありません。ある意味ではこれは彼女にとり過去譚だからだろう(ミオちゃんには役がないのです)。ダンサーは、怒りと、悲しみと嫌悪、ある種のアパシーでもって街のストレスを受け流す緊張した面持ち、そしてそこからの、はにかんだ微笑から、きっと笑顔であろうはじけた表情へ様々な変化を演じています。それが映画として映っているのです)。

 コメンタリーによれば、「代役」ということがこの映画のテーマの一つであるという。ミオちゃんは真の役を求めて東京に旅立ったらしい(過去完了)。それはバンドさよならミオちゃんが旅立つこととパラレルだ。「万能」の街東京へ。そこなら私にも居場所があるかもしれない? この問自体が欺瞞も真実も、若さもシガラミもすべて含みこんでいるよな。友人が将来に向けて旅立つ時、僕らは余計なことを言いたくない。むしろそれに賭けるなら、もう二度と帰ってくるなというつもりで送り出してやりたいものだと思うだろう。それがぶん殴りに思えるかもしれない。そして別に帰れない故郷などない(むしろ去ることで初めて故郷は生まれる)。でも残された者たちが何もしていないと思うなよ(ということか)。そこには充足した大地のすべてがあり、すべてを肯定する踊りがある(どこへ行って音楽してもよい、音楽しかすることがないということは、音楽こそが万能の故郷だから出来るのである)。それに刮目すれば無限の題材を描くことができるのだ(帯広美術館へ行き、道東の作家のヤバさに触れよ)。ここに残って真の役をする(この言葉の語義矛盾にそろそろ気づかれることだろう。「役」はそれ自体嘘なのに「真」の嘘とはなんであるか?)。俺たちの活動も、そこから逃れ出て真の役を探し出そうとする君ら活動の両方が可能な巨大な大地、巨大な故郷が現前する。そこではすべてが可能だ。その場所をおずおずと見出した春の芽吹きの肯定。俺たちはそこから一歩も出ることなく世界中を旅し、生きて死ぬ。多くの目に晒されるか、そうでないかの違いをどれほど重大ととるかという賭けられているものは違えど、残るも去るもやることは同じである。その巨大な大地はウェブカメラの後方に広がっており、またはウェブカメラの向こう側に広がっている。路上の肌理と、通りすがりの人々と踊りだせるかが問題なのだ。そこで戦うことができるか、その気負いを以て、変わっていく光景に合わせてダンスし続けることができるかが問われているのだ。(画面という)鏡面である二人の女性は、この映画内で出会うことなく相まみえた(二人が親友設定は、『東京篇』でもあまりに不完全であったし、『札幌篇』はそれを理解して消去したのであろう。文字通り映画の中で二人は出会わない)。今そこにある美と悦び(勇気を出せばいつだって訪れる解放のカタルシス)と、未だやってこない美を持つことの苦しさと希望を持つ喜び。どちらもあるが二つは異なるものなのだ。マルホランドドライブが走り出すとすればこの鏡面であり、これがこの自由の大陸を「類推の山」へとつなぎとめているゾーンである。そこでの踊りはリアリティのダンスというやつか。ここにバラがある、ここで踊れ。

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