MOOSIC LAB所感②札幌上映短編セレクト感想三篇

短編セレクト作品も各々よかった。

『下鴨ボーイズドントクライ』
 痛々しき青春の玉手箱的な夢だった。(邦画!なるほどね。クールベが天使を書かないのと同じように、歴史の真の主体を日本で描くならこうなのだな)。覚えがある失恋の寝逃げ、そして馬鹿馬鹿しき、しかし必死の想念の中での事物のマニピュレート(操作と改竄)。やばい表を作成し、誰にも理解不能なタイムトリップ方法をメモし、実行する。もちろんこれは仮象、青春の馬鹿さ加減そのものである(言い訳しない分ラ・ラ・ランドのライアン・ゴズリングよりマシかもしれないが、ヤンキー界隈では卒業できない、いつまでもモラトリアムサークルに居続けることは格好悪いのである。それは彼らが正しくモラトリアムな存在であることなのだが)。対して音楽という真の時間旅行法、このことを極めんとする主人公は、自分が音楽を辞められなくなった瞬間を思い出すのだ。それは今の彼女(田中怜子の、界隈感すごい)ではなく、可憐にも彼の前に現れた雷としての彼女が下した法なのだった。同じ彼女に「私達22歳なんだよ/変わらなくちゃダメだよ」と就活スーツを着て言われても、君であったあの子に音楽を「絶対やめないでね」と告げられているのでそれに逆らうことなどできないのだ(これを言うことで彼女のせいにしないから、彼はライアンゴズリングよりいいヤツでいられたが、同じくらい愚か者であることには変わりない。そして愚者は世界からやって来る…)。最後はラ・ラ・ランド。つまりはカサブランカ。俺たちにはパリの日々が、この場合下鴨での思い出が、すなわち永遠がある。なのでやっていけるのだ(何気にベースの彼も、そのまま一緒に来ちゃったのね。懐かしい話をするとヴァインズでクレイグに賭けて医学の勉強辞めたメンバーがいるみたいな話、クイーンの面々もフレディ以外修士号だか博士号もっているわけで、これも青春の問いかけなのであるな)。こういう別れを描く映画は、今後も都度歴史の真の主体たちの舞台において作られる必要がある。インセプション、映画が終わらないこと。

『ドキ死』
 ザ・邦画!的なモノローグ。十代の人に見てほしい。アラサー女子が仕事に向かい合うのとは異なって、この作品の内容無き反復としてのみ表象される仕事に対するリアリティの無さ=軽視は、とても若い人向けだ(充実した仕事など仮象である、それは実存を込めるので面白いのだ。これを反転させて、仕事上で実存を追いかけ仕事を面白くする方法がある。しかしこれでミスると自分の崩壊が半端ないということが『月極~』で示されたが、この崩壊を念頭に置かない実験など糞であるので、そういう怯えた人間には反復としてしか仕事は与えられないのだ)。Nakanoまる演じる女主人公の、なんと簡単に音楽にたどり着くあたりも、リアリティがどうだとか言う前に参考書的に理解してほしい。これは命令だ。目の前に音楽があり、楽器がある、さあやりなさい。彼女が最初に歌う歌は、噴き出してしまいそうになるほどなんの衒いもない。「なんとか君好き~」(名前忘れた)。思い人の名前はそれだけで詩句なのであり、後は繰り返すだけでリトルネロの完成だ。これでいいのだ。ここから始めるのだ。愛は遠い(ので、最愛ではなく二番目に?)。ああ、そうか、理想はあくまで私を導く歩行器だった。補助輪だった(これは芸術家という美に恋する存在が、人間と恋をするにはどうすればいいのかという寓話でもある)。では実質を寿ぎ、愛するということか(偶然ながら後で上映された『さよなら、ミオちゃん』の問題、つまりヒロインは誰なのか?という問題ともかみ合う)。「今」を歌うことができて彼女はすがすがしい。それは彼女が寿ぎたい、なんとか君の日常にも溶け込んでいる。

『デッド・バケーション』
 これは90年代(「長い19世紀」概念を参考に、「長い90年代」概念として03年までをそう表象することが可能である)か。ラバランプ(名前今回調べて初めて知った)の存在がそういう錯覚を呼び起こし、そういう死者が現れる。ニルヴァーナのTシャツなど呪われたアイテムが多数登場する(そう我々はin uteroの最初の4秒に未だ心動かされっぱなしなのだ)。まあ話は単純で、原愛音演じる主人公の気持ちの踏ん切りと音楽の完成が対位法ということだ(音楽を扱うので当然他の映画もそうなっているけれども)。どうやら主人公は、私だけであったと思ったら、私以外にもということで、ショックを受けている。その時、では私の愛、私自身の愛は受け手の不誠実によって意味を無くしてしまうのか?重大な問である(かつての僕の友人の問でもある。離婚ののち彼はどこへ行ってしまったのだろうか)。だから確かめようと幽霊の元彼女に尋ねる。「大好きだったよ」。それでいいのだ。「本気で好きだったんだよ」とキックを入れる。それでいいのだ。死後の世界は、この世界のすべてのキャッシュが詰まっているのだろう。そこには今は存在していない人々が皆おり、今は存在していない愛が同時に生起しているに違いない(それら自ら実現しようとして互いに打ち消し合うだろう。だから「無い」のだ。共可能なことだけが実現している)。しかし音楽は潜在性を歌うことができるのだ。死者も歌い得る。

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