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寂しくなる


好きなコンテンツの「中の人」達が出演する別の作品を見たい、と機会を増やしていくうちに、好きな俳優も増え、今どきの言い方で推しが増えた。私の(存在しない)息子より若い年齢の推し。
彼らが正月前後に実家の話をしたり、子どもの頃の正月の思い出を語ったりするのを聞いて、ふと我に返る。
彼らは普通に育った普通の子で、この先、家族を作り、真っ当な人間として人生を歩んでいく。
私はといえば、常識も結婚歴も子供もキャリアもなく、何一つ頑張らず努力せず生きてきた年老いたおばちゃん。彼らの親御さんよりかなり年上にも関わらず、彼らの写真が印刷された厚紙(ブロマイド)を買ってデコって持ち歩いたりじっと見つめたりする。色情狂とか、もっと怖い言葉が浮かぶけど、ま、正気の沙汰でないことは確か。
自分のミーハーぶりは、普段から意識しているが、時々、彼ら真っ当な人々にとって、私のような塵芥、ましてやその人生などは存在しないことを思うと寂しくなる。

彼らに限らないのだ。
半世紀にわたって私の内面を作り、支え、幸福にしてくれた作品。
つまり音楽や演劇や絵画や彫刻や小説や詩。
その作り手達にとって、私の孤独、私の愛、悲しみ、ハート、肉体、精神、容姿、知性、感性が何の関心も呼び起こさず、存在しないことが寂しい。
現実の、つまり物理的、時間的距離の話をしているのではない。
私の夢の世界であっても、彼らは私に一瞥すらくれない。塵芥と普通の人間は、同じ場所にはいないのだ。
そんな彼らが作り出したものが、ワイのチンケな心を震わせること自体が、どうしようもなく寂しいことがある。

リアコでもない、片思いの話をしてるんじゃないし、交流したいとかでもない。
私は何かに思い入れてしばらく経つと、ああ、私はここにも属していないなと思い込んで離れる癖があるので、それかもしれない。