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無意識の偏見

無意識の偏見は、人間の脳が大量の情報を処理する上での省力化機能によるものと言われる。この文に最近新聞で出会したのたが、インターネットにより情報へのアクセスが容易になった世の中であるが故にまさにそうであると感じた。では、昔より大量の情報が浴びる現代の方が偏見は大きいのだろうか。画一的になりものを多面的に捉えられなくなった人も多いように思うから、そうとも言えるし、より多様な情報に触れようと努力してきた人はそうでもないようにも思う。情報というよりも、行動をし、多様なことを自分の目で感じることによって偏見が減っていくと言う方がより正確な捉え方かもしれない。

身の回りでも偏見が強いと感じる人によく気づく。自分はどちらかと言うと成長した今よりも、若い時の方が視野が狭く偏見が多かったような気もするが、偏見は無意識にあり、現在の自己を肯定すればするほど偏見があるということであるかもしれない。

最近、養老孟司先生の「ものがわかるということ」という本を読み、わかるということはどういうことか、そしてわかったつもりでいるがわかっていないことが多く、わかっていないというどちらかというとメタ認知のような意識も大事で、その微妙な境界線にいるべきでそうすることが難しいというようなことを言っていた。まさにそうで、わかったつもりでいることほど怖いものはない、わかったつもりでいないということは謙虚な心につながるということを感じた。

この偏見を持たずに多角的に物事を見るということは非常に自分の中で重視していることであり、しかし、年齢を重ねれば避けることのできないものであるのだろう。将棋については、若い棋士が強いというのは、年齢を重ねた棋士が仕方のない偏見により新しい発想を遮るからなのだろうかとふと思った。年を重ねれば偏見は避けられないとあきらめつつも、最低でも、養老孟司先生のように、自分はわかっていないことがほとんどとどこかで謙虚に考えられる自分でありたいと思ったのであった。

#養老孟司 #偏見#bias#将棋

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