見出し画像

#144 たぬき

 後の記録として残しておくことだが、今年の3月頭頃からTwitter(現X)界隈で突如、謎のたぬきブームが巻き起こった。たぬきだんごとよばれる寒さで群れ固まったたぬき、突然の自動車に立ち尽くすたぬき、好奇心のままに人によってくるたぬきなど、多くの人々の目には好意的に映ったことであろうが、その後間もなくとーんと見なくなってしまった。世の人はあれは何だったんだろうと話し合い、人間じんかんに在するたぬきによる印象操作であろうとか、その割にはたぬきだから途中で飽きちゃったのだとか、色々なことをいってしまいとなった。消費されてしまった。

 人間にんげんをやめてたぬきになりたいと思った。どうせやめるならばヒグマでも大鷲でも好きなものになればいいぢゃない、とその筋の人に言われはしのだが、そこはたぬきでなければならなかった。
 なぜたぬきがいいのかと昨日つらつらと考えていたのだが、畢竟つまるところあいつら愛嬌の力でのんきに生きられていいなぁ、という意識があるからなのであった。大間違いである。都会におけるたぬきなんぞいいことがあるはずがない。新宿駅に突如現れたたぬきはどうなったの※2。(私事ではあるが)近所の面倒な(動物嫌いの)家族に突き上げられた結果、祖母の家に住み着いたたぬきを捕獲駆除したときの98,000円(自己負担)を覚えているか。平成狸合戦ぽんぽこを観た※3。そうなの※4、そうした自然の動物のリアリティと、人間と相対あいたいせずに、むしろ愛くるしいイメージを利用しつつ呑気にひっそりと暮らせるといったイメージが脳内でバッティングしつつもなんとなーく動物の中では相対そうたい的にいいやつ、というイメージでありたいという願望が「たぬき」として出力されているのであった。

 人間として人間と話していると発言を間違えたときに息苦しい。
 それは昨日、演劇公演の物販をしていて強く思った。手元の商品の数と値段を意識しつつ、円滑に進むトークを回すことのいかに難しいことか。
 3つくらい云わんでいいことを云った気がする。
 人間は言語を持って人間足りうるが、言語で現象を切り分けることが苦を生んでいる、というのは南直哉だったっけ。多分それ。本稿は、それだ。

 おまけ(参考資料)

杉浦茂のたぬき ※5
水木しげるのたぬき ※6

 たぬきは生物としてのたぬきに似ていなくてもたぬきとして認識されるおおらかさがあっていいのであった。
 やはりたぬきになっていこう。

※1 どの筋?
※2 知りたい
※3 振り返って考えると(落語の)大看板を揃えたのはすごかったわね
※4 そうか?
※5 https://twitter.com/sugiura_info/status/350901579228004352
※6 https://youkai-honpo.com/products/detail/5512


みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。