「組織」の話

地域に長く暮らしていたり、子どもがある程度大きくなってくると、いろいろな「組織」との関わりが増えてくる。(町内会とかPTAとかのことですよね?)

「組織」は一定の意義ある活動を長年にわたり担っている。ただ、大きな収益を生む訳ではないから事業としては成立し難い。活動は基本、構成員のボランティアで成り立っている。担い手は全体のうち少数で、高齢化していたり新陳代謝が進んでいなかったりして疲弊している場合が多い。

とんでもねえな、跡形もなく破壊してやろう、というような活動ではない。竹田個人は、ま、どっかで世話になってるし、自分の可能な範囲で参画するか、というスタンスでずっときている。(意外に常識人なんですね)

だから「手伝ってくんねえかなあ。」と言われりゃ、基本「もちろんですよ。」と応えることにしている。ただ「そのかわり私の意見ややり方を取り入れてもらって良いですかね?」と話したら、大抵がっかりされる。面倒なのが来たなあ、と警戒されてやんわり弾かれることもある。(でた)

長年「組織」を注意深く観察してきたが、こういった「組織」の「権力構造」は単純ではない。また、長年にわたって構築された「利権」が存在する。といっても経済的な利権はほとんどないから、経済的価値に換算し難い要素が主だ。

「組織」の担い手には今まで築いてきた名誉がある。長年活動を支えてきたというプライドもある。理想としてきた方針がある。そして今後、愛する組織と活動が、自分たちの思い描いた方向に進んでいくか、維持していけるか、という不安を感じている。

体制側は「全体の利益になるにも関わらず、自分達しか担い手がいなくて大変だ、なんでみんな参画してくれないんだ。」と悩んでいる。人材の補充は急務だ。
しかし、対等な仲間として意見をたたかわせ、場合によっては組織を新たな方向へと進めてゆく構成員を求めているのではない。

あくまで既存の組織や方針を踏襲し、体制の負担を軽減してくれる人材を求めている。
一方、非体制側は「体制に入ったら、単に都合のいい労働力として使われるだけじゃないか。関わりたくねえなあ。」と考えている。だが、これもおかしい。任意の組織だ。あり方や取り組みは、担い手自身が決めることで

決して固定化されたものではない。
自分たちにとって良い方向、可能な方向に変えていけるものなのだが、そのような意識は希薄だ。「手伝いくらいだったらしてもいいけど。」
でも、「お手伝い」なら、ご褒美が少なけりゃそのうち面倒になるだけではなかろうか?

「組織」と担い手をめぐっては、そういう悲劇がある。40余年生きてきた私の出した現時点での結論だ。解決方法はわからない。さてどうしたものか。こういう事って、わりといろんなところで起きてはいないか。担い手不足に苦労し、疲弊している組織はほかにもなかったか。

(2023年7月7日に投稿)


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