「当たり前」のことを、「当たり前」とすること。

連日、ウクライナ情勢に関するニュースを拝見しております。
何かできることは、と考えUNHCRに募金をしました。
ただ、できることはそれだけではないと思います。

「No War」「戦争反対」と意思を表明すること。
私が改めて言うまでもなく、戦争・侵略は重大な人権侵害であり絶対に起こしてはならないことです。人間同士が殺しあうことはとても悲しいことで、連日の報道を見ては悲しさ、虚しさ、憤りを感じます。
だからこそ「起きてしまったことは仕方ない」と現実を所与のものとして、或いは「現実的な」立場にたってしまうのではなく、戦争に反対するという意思を示すこと、平和であることがまず前提であることを改めて確認することが必要があるように思います。

「AであるからBを行う」が成立するとBそのものも正当であるかのように感じてしまいます。Bに「人を殺める」を入れたときに、Aに「憎かったから」「自殺に巻き込みたかったから」が入ると「殺す理由にはならない」という反応が多数なのではないかと思います。ただAに「国家」の要素が入った途端に、それを肯定し剰え助長するような発言が容易に出てきてしまうのには、恐怖を感じます。
「国家」の裏に平和や人権といった普遍的な理念・当たり前にあるべきものが隠れようとしている時こそ、市民がそれを取り戻す努力をする、或いはそのような状態にならないよう、折に触れてはそれを確認する必要があるのだと思います。

「思う」「感じる」が続いておりますが、甘い考えだ、具体的にどう「守る」のだ、(そして「武力を強化すべきだ」)という「現実的」な言論には与したくないと考える次第です。あるべき姿を所与とする議論を、自分なりに組み立てたいと思います。


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