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尾張徳川歴史探訪

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名古屋には尾張徳川家ゆかりの菩提寺や関連する史跡が数多くあります。訪れた名所をご紹介します。
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記事一覧

「徳川家康とお亀の方」

尾張徳川歴史コミック「徳川家康とお亀の方」がもうすぐ出版されます。(6月20日)お亀の方は…

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尾張藩16代藩主「徳川義宜」

徳川 義宜(とくがわ よしのり)は、尾張藩の第16代(最後)の藩主、尾張藩知事。官位は従三位…

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尾張藩15代藩主「徳川茂徳」

徳川 茂徳(とくがわ もちなが)は、美濃国高須藩11代藩主、尾張藩15代藩主、一橋徳川家10代…

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尾張14代藩主「徳川慶恕」(慶勝)

徳川 慶恕(とくがわ よしくみ)は、尾張徳川家(尾張藩)第14代当主。のちに、慶勝(よしかつ…

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尾張藩13代藩主「徳川慶臧」

徳川 慶臧(とくがわ よしつぐ)は、尾張藩の第13代藩主。田安徳川家第3代当主徳川斉匡の十男…

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尾張藩12代藩主「徳川斉荘」

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、尾張藩12代藩主。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、…

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徳川義直公菩提寺「建中寺」

1651年(慶安4年) に第2代尾張藩主徳川光友が、父である第1代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立した。創建当時は周囲は石垣と堀で囲まれ、四万八千坪(158,400m2)の境内に多数の堂が立ち並ぶ規模を誇った。境内の東側には大きな松林があり、鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のように凹ませてあった。1785年(天明5年)の大火災で総門・三門などを除く多数の建物が焼失したが、翌1786年(天明6年)から1787年(天明7年)にかけて再建された。現在では境内の規模は創建当時よりも

武田勝頼ゆかりの「武節城址」

稲武の道の駅「どんぐり広場」でいつものざるそばを頂く。どんぐり広場の東にあるのが「武節城…

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尾張藩11代藩主「徳川斉温」

徳川 斉温(とくがわ なりはる)は、尾張藩11代藩主。官位は従二位・権大納言。12代将軍・徳川…

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尾張藩10代藩主「徳川斉朝」

徳川 斉朝(とくがわ なりとも)は、尾張藩第10代藩主。官位は従二位・権大納言。 この時代か…

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尾張藩9代藩主「徳川宗睦」

徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし)は、尾張藩9代藩主。官位は従二位・権大納言。尾張藩…

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尾張藩8代藩主「徳川宗勝」

徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)は、尾張藩主第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須…

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尾張藩7代藩主「徳川宗春」

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、尾張徳川家第7代藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松…

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尾張藩六代藩主「徳川継友」

徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、江戸時代中期の第6代尾張藩主である。江戸幕府第7代将軍徳川家継の後継者候補であった。 第3代藩主・綱誠の十一男、母は側室・林氏女(和泉)。正室は近衛家熙の娘・安己君(あこぎみ)。子は八三郎(夭折)、養女・三千君(兄・徳川吉通の娘で継友の姪にあたる、九条幸教の正室となる)。幼名は八三郎。元服の後、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を受けて通幸(みちゆき)、