「予備校講師顔負けの中国史の教えぶりの彼女」【愛の◯◯@note】

 3限目の講義が終わる頃に学生会館にやって来た。
 エレベーターに乗り、5階に上がる。『漫研ときどきソフトボールの会』の部屋まで突き進む。鍵は開いている。だれか入室しているみたい。
『愛が居るのかな』と思ってドアを開けたら、やっぱり羽田愛がそこに居た。
 愛の反対側のテーブル前に着席する。両手で頬杖をつきながら、
「アルバイト? ドイツ語下訳(したやく)の」
と訊く。
「大正解」
と愛。
「稼がないとね。そういう時期なの」
とも。
「そういう時期って、どういう時期よ」
 わたしは苦笑。
「侑(ゆう)、楽しみにしてて。このバイトの稼ぎが出たら、あなたに美味しいケーキを食べさせてあげるから。また魅力的な喫茶店を見つけたのよ」
 愛は言う。
「喫茶店ハンターね、愛って」とわたし。
「そーね。『喫茶店ハンター試験』があったら、トップ合格してるわ」と愛。
「無理やり漫画に結び付けなくたって。『ハンター』から『ハンター試験』を連想しちゃうのは致し方ないにしても」と、わたしは苦笑。

 わたしは『HUNTER×HUNTER』ではなく『レベルE』の単行本を読むことにした。
 読んでいたら、愛がペンを走らせる手を止めて、
「ねえねえ」
と、わたしを見つめてくる。
「なによ?」
「侑、あなたの高校時代の得意教科ってなんだったの」
 答えにくい質問が来た。
 わたしは、
「満遍なく、出来てた。そこそこに」
と誤魔化す。
「3年生になっても、文系クラスであっても全員に理系教科をやらせる学校で。5教科全部、不得意では無かったと思う」
「すごいじゃないの」
「天才のあなたには及ばないけどね。愛」
「またまた」
 愛は微笑して、
「まーたしかに、共通試験の合計点数とか、わたしのほうが100点は高くなりそうだけど」
「自分で言わないでよ。そもそも、あなた共通試験受けてないんじゃないの? 最初っから私立文系のこの大学1本だったって、昔……」
「侑の言う通り。受けてない」
 コラッ。

× × ×

 4時を過ぎた。
 2年生の後輩男子くんの幸拳矢(みゆき けんや)くんが入室。
 拳矢くんの後ろには、高校生らしき男の子が立っている。
 彼は拳矢くんが連れてきた受験生だという男の子。
「井手口(いでぐち)くんです。連れてきました」
 そう言って拳矢くんが自己紹介を促す。井手口くんは通っている高校と志望大学を言う。
「連絡してた通りです。彼に受験勉強を教えてやってほしいんです」
 そうお願いする拳矢くんの隣に立っている井手口くんは緊張気味。
「井手口くん」
 わたしは笑顔を受験生くんな井手口くんに向けて、
「そこに座ってるお姉さんの隣に座るといいわ」
と、愛が居る席のほうを指差す。
 それから、
「そこのお姉さんはね、共通試験でほぼ満点が取れるぐらい成績が良くって、しかも東京大学を蹴っちゃってるのよ」
「……大げさね。侑」
 愛はわたしの顔を見てくるけれど、
「見てあげなさいよ、勉強。現在のサークル構成員の中でいちばん勉強ができるのは、だれがどう見てもあなたなんだから」
と突き放す。
「侑って、そんなにしょーがない性格だったっけ」
『しょーがない性格』がいったいどんな性格なのかは判然としないが、愛は前向きな御様子で、自分の右隣の椅子を引いて、
「じゃあ井手口くん、ここに座って。どの教科を教えてほしい? あなたがここに居られる時間も限られてるんでしょう。1教科に絞って教えてあげるのが効率的だと思うわ」
 井手口くんは一瞬戸惑ったけど、
「世界史を、お願いします……。世界史が苦手で、足を引っ張ってるんです」
「もう少し世界史の成績を上げて、志望校の合格ラインを超えたいのね」
 愛に対して井手口くんは首肯(しゅこう)。

× × ×

 愛って本当の本当に教え上手。
 井手口くんにレクチャーしたのは中国史だった。
 中国史の中でも、宋や明の時代のことを重点的にレクチャーしていた。
 その教えぶり、語りぶりは、予備校講師顔負け。下手な予備校講師だったらココロが折れてしまうぐらい、愛の「講義」は分かりやすく、時代の流れ・歴史の流れがスルスルと頭に入ってくる。
 宋や明の皇帝や政治家の名前を覚えるコツも教えていた。そして正しく漢字を書き取るコツも教えていた。
「この漢字は難しいから、ここの部分の書きかたをしっかり憶えておくこと。家に帰ってから、手で30回ぐらい繰り返し書いてみるのが良(い)いわ。そうしたら絶対記憶に定着するから。今晩中にやるのがいちばん効果的。繰り返し書いて憶える手法は、漢字の用語だけじゃなくてカタカナの用語にも効果てきめんだから」
 間近の距離で井手口くんにこう指導する愛。
 サマになっている。いろいろな意味で。
「羽田愛講師ね」とわたし。
「羽田愛講師ですね」と拳矢くんも。
 少し呆れた御様子で、
「わたしを駿台とか河合塾に放り込みたいわけ?」
と愛は。
「そこまでは言ってないから」
とわたし。
 愛は苦笑して、
「祭り上げられるのはイヤよ。『予備校講師』の漢字5文字なんて、わたしの進路希望には存在しないんだから」
「だったら――」
 今度は、拳矢くんが、
「予備校じゃなくって、高校で教えるのは」
と案を提示。
 すると、愛は意味深な笑みをたたえて、入り口ドア近くに座っていた拳矢くんを、ジットリジトジトと眺め始めた。
 視線を外してあげない愛。
 必然的に、拳矢くんが困っていく。
「……羽田センパイ??」と、愛の視線ビームに困りまくっている様子の拳矢くん。
 ここで、
「あの。羽田『先生』」
と、今回の主役たる『生徒』の井手口くんが、
「せっかくなので、文化史も、教えてくれませんか? 朱子学とか」
と要望する。
 すぐに、愛は、
「任せなさい」
と言って、
「わたし学部では哲学科だから。東洋思想だったら、強いわよ? 朱子学ならば、2時間だって3時間だってレクチャーしてあげられる」
 しかし井手口くんは、
「2時間3時間は、ちょい困るかも」
「どうして?」
「夜は、都合があって……」
「エッ、気になる」
 興味津々の愛。
 だったんだが、
「カノジョと……会う、都合が」
と打ち明けられてしまって、不意打ちを受けたみたいに固まって、手から3色ボールペンをポロッとこぼしてしまうのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?