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君と『彼女』とひまわり畑

 夏の真青な空に、質量を感じさせる積雲がゆっくりと漂う。

 小屋の中は良い風が通り抜けているから、ジっとしてる分にはそれ程暑くもない。この辺りは湿気が少ないから快適でいられるのだろう。

「……今日もコッチに篭ってるのか?」
 ノックとともに簡素なドアが開くと、小脇にアイリッシュハープを抱えた友人が入ってくる。筆を置いてイーゼルに掛けてあったタオルで手を拭くと、ポケットに手を入れて立ち上がる。
「やぁ。外は凄いだろう? もう、暑くて出る気がしないね」
「だろうと思って、ほら、食料を持って来てやった」
「あぁ、そういえば腹が減ってる気がするよ」
 友人が定位置のソファの上にハープを寝かせると、テーブルの上へプラスチックバッグに入った食料を並べる。踵を返してまた外に出ると、今度は大きなクーラーボックスを抱えて来て、小さなキッチンの前に置く。

「……凄いね。文明の利器だ」
「え? あぁ、クーラーボックスか。この暑い中、冷蔵庫もない小屋にいたら干からびるぞ? 確か去年も干からびかけてなかったか?」
「……そうだっけ? 覚えてないよ、そんな昔の事なんて」

 この気が利きすぎる友人は、アルバイト先で知り合った。ちょうどカンヌ映画祭や闘牛祭りやらで、春先のコートダジュールはドッと観光客が押し寄せる。どこの町でも人手不足になるから、僕ら学生の稼ぎ時でもあるわけだ。

 椅子に座ると、二人で食料を広げる。パンとカップに入ったドレッシングつきサラダ。オリーブの瓶と生ハム。僕には上等すぎる食事だ。
「また食パンだけ食べてるのかと思って、バランスを考えてみました」
「……すばらしいです」
 友人が少し気取ったポーズでシェフの様に食料を指すと、一等の客のような会釈をして返す。キッチンの上から洗ったと思われる皿を数枚出してきて、その上にハムやオリーブを広げる。

「今日はゆっくりしていける?」
「そうだな。夜にアヴィニョンの法王庁前で演奏のバイトが入ってるから、それまでなら大丈夫だよ。何かある?」
「……ん、……いや、僕は今月中に今描いてるヤツを仕上げなきゃいけないから相手はできないけど、練習するならして行ってくれて構わないよ。……君の演奏も聴きたいし」
「……はぁ、そういうこと。『彼女』に会いたいわけだ」
「っ! 違うって!」
 思わずカッ頬が上気するのを感じると、ニヤリと笑う友人から目を反らす。この友人は気が利くのもそうだけど、勘も鋭い。いつものんびりしている僕とは違って、いつだってアンテナを立てているものだから、僕が知らないことを大抵知っている。

「……でもそれじゃ、筆が止まるんじゃないのか? 彼女に見とれてさ!」
 フランスパンをバリバリと割ってナイフで半分にすると、友人が生ハムとサラダを詰め込んだ簡単サンドウィッチを作って口に運ぶ。甘党の僕は、砂糖のたくさんついたドーナッツを頬張る。

― 僕の『彼女』。
 暫定的にそう呼んでいる人は、どこの誰だかわからない人だ。

 このアルルの貸家を見つけてアトリエにしたのは、友人と知り合った頃だった。
 この付近一帯はひまわり畑が広がり、夏になると一面黄色に染まる。空の青とひまわりの黄色のコントラストが凄く気に入って、大家さんに連れてきて貰った時に即答で決めてしまった。アルルにしたのは巨匠・ゴッホの影響もあったと思うけれど、アヴィニョンの自宅に近いからだ。
 アヴィニョンからローヌ川対岸のヴィルヌーヴに住んでいるこの友人も、ここを気に入ってくれてよく出入りしている。アルルの風が彼の奏でる音を運んでくれるから、小屋付近に立ち寄る人たちの癒しにもなっている。

 『彼女』に初めて会ったのは、小屋を借りてしばらくたってからのことだ。
 
 小屋の外にある大きな木の下にイーゼルを運んで絵を描いていると、いつものように顔を出した友人が木の根元に座り込んで演奏を始めた。彼の小さなハープは古き良きケルトの時代を思わせ、どこか懐かしい気持ちになる。少し筆を止めて彼の演奏を聞きながら遠くの向日葵畑を見つめていると、その黄色が歪み始めてぼんやりとした人影を映し出した。
 思わず手を止めて立ち上がると、友人が僕の異変に気づいて演奏を止め、するとその人影がゆらゆらと空中に消えていった。
 その人影は何度も遭遇していくと、次第に形をはっきり見せ始めた。僕が一人で絵を描いている時には出会うことはなく、必ず友人がハープを奏でている時に限るという条件もわかってきた。

 向日葵の咲く頃にアイリッシュハープの音。
 『彼女』に会うための条件。

 彼女は僕とそう変わらない年に見えて、いつも白いワンピースを着ている。大きな布をすっぽりとかぶって、腰の高い位置で紐留めしただけの中世のお姫様のような格好だ。髪はプラチナブロンドで器用にくるくると結っている。
 時折楽しそうに笑いながら、口が動いているからきっと、歌でも歌っているのだろう。『彼女』はいつも笑っていて、僕はその笑顔に安らぎを感じるようになった。
 友人はいつも居心地が悪そうにしているけれど、彼が居ないことには彼女に会えないから、僕も少し申し訳なく思っている。

 友人が持ってきてくれた昼食を済ますと、人心地ついた後で筆を握る。窓辺から見える向日葵は顔を上げて太陽の光を受け止めている。
 チラリと友人を振り返ると、僕の視線に気付いたのか、読んでいた雑誌を置いて大きなため息をつく。
「……はいはい。練習させていただきますよ」
「っ、急かしたわけじゃないよ。……好きにしてくれてかまわないから」
「……じゃぁ、お言葉に甘えて、自分の為に練習させてもらうよ。お前の為じゃないからな」
 笑いながらソファーからハープを持ち上げると、代わりに座って調律をする。その糸が弾かれる度に少しづつ周りの景色が歪んでいく。

「ねぇ、彼女はいったいどこの人なんだと思う?」
 思わず呟いてしまうと、弦を弾きながら友人が窓の外を見る。
「……さぁ。……そういうのは、わからない方が良いって事もあるんじゃないか? ……秘密が美味しいっていうかさ」
「そうかなぁ。……幻じゃなくて、会いたいっていうのはダメかな? ……っ!」

 いきなり突風が小屋の中を通りすぎると、作業台の上に乗せてあったクロッキーの紙が舞い上がる。慌てて立ち上がり、床に散らばった紙を拾い集める。
「あ~、もう。……動かないでよ? 踏まれると困る……、どうかした?」
 遠くを見つめたまま動かない友人の様子が気になって声をかけると、彼がゆっくりと瞬きをして僕を見る。
「……欲が出たからさ」
「え?」
「……なんでもない。動かないから、さっさと拾い集めてくれよ。そんなカサカサした中で演奏するのはイヤだな」
「っ、わかったよ。……よし! OK!」
 
 友人が窓越しのひまわり畑を視線を移すと、弦に指を滑らせる。静かに流れ始めたメロディに、しばし筆を置いて耳を傾ける。
 この曲はアヴィニョンの中心にある法王庁前の広場で行われる音楽祭に出場する為の曲で、彼の少ないオリジナルの一つだ。彼は演奏に夢中になると瞳を閉じ、前屈みになってハープをギュッと抱きしめる。そんな様子を見届けると僕は窓の外のひまわり畑に目を向ける。

 『彼女』がゆっくりと現れる。

 窓枠の左の方から現れると、手に一杯の花束を抱えて俯いている。丁度真ん中辺りで歩みを止めて、その花束を風に乗せるかのように宙へ振り撒いてこちらを見つめる。
 彼女にこちらが見えているとは思えないけれど、あんなにジッと見られてしまうとドキドキする。
 進まない筆を持ったり置いたりしながらチラチラと横目で『彼女』を見つめていると、次第に風景が歪んできて、小屋の輪郭が薄くなっていく。

「……っ、え?」
 気付くと友人がひまわり畑に座り込み、僕は呆然とその横に立っていて真正面の『彼女』と向き合っている。
 頬が上気しているのを感じると、どうしたらいいか分からなくて、あれこれ何を言おうか頭の中でシミュレーションをする。

― 僕が望んだから、幻じゃなくて、本当に会いたいと願ったから?
 
 『彼女』が僕の顔を見つめながら近づいてくる。一歩一歩近づいてくると、ようやくその少し悲しげな表情が見えてくる。口元はいつものように何かを歌っているようで、ゆっくり動いている。
 何か声をかけなきゃと思いながら、声を出すことが出来なくて、ただ近づいてくる『彼女』を見つめていると友人が歌い始める。
 この曲に歌なんかついていたのかと思って彼を振り返ると、その歌声に呼応するような高い声が聞こえてくる。
 それが誰の声か分かると再び彼女を振り返り、差し出された手が頬に触れてくる。それは幻でもなく本当の手で。
「っ、あ、あのっ! ……っ」
 彼女の嬉しそうなのに大きな水色の瞳から大粒の涙が溢れると、僕の視界が白く飽和して
 いつのまにか閉じられた目をゆっくり開けると、小屋の天井がボンヤリと見える。
 少し瞬きを繰り返して起き上がって見ると、どうやら簡易ベッドの上に寝ていたらしい。窓から赤い夕陽が差し込んできているからもう、結構な時間なんだろう。
 友人がいたはずのソファにはアイリッシュハープが置き去りされていて、僕は一人でそこにいた。

 ……その後、友人と会うことはない。

 アヴィニョンでの演奏会は別の人が演奏していたし、アルバイト先に行ってもあの友人を覚えている人は誰も居なかった。『彼女』の幻影と共に友人の存在も消えてしまった。
 でも『彼女』が僕に触れた時、その指先から意識が伝わってきて僕は少しだけ理解した。
 
 遠い過去の記憶。
 僕の中に『彼女』が求めた人が居たことを。

 そっとハープを持ち上げて、友人がしていたように弦を弾いてみる。あの心地良い調べを聴くことが出来ないのは寂しい。

「……ねぇ、また会えるよね? 僕の絵もそろそろ完成するよ。君と『彼女』とひまわり畑の絵なんだ。……それに、君の演奏も聴きたいし……」
 そっとソファに戻すと完成間近のキャンバスに向かう。すると、あの時のような突風が窓から入り込むと弦を掻き鳴らす。

『……はいはい、練習させていただきますよ』

 ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
         

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